フェルマーの最終定理の歴史とは?失敗した証明と挑戦者たち|1637年から1995年ワイルズまで360年の挑戦

フェルマーの最終定理の歴史とは?失敗した証明と挑戦者たち|1637年から1995年ワイルズまで360年の挑戦

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フェルマーの最終定理

ひとことで言うと

360年解けなかった難問の裏には、つまずきと失敗の連続があった。1995年にワイルズが完成させるまでの挑戦者たちの物語。

問題n≧3 のとき、xⁿ+yⁿ=zⁿ をみたす自然数 x, y, z はないか
出された年1637年ごろ(フェルマーが本の余白に書きこむ)
解かれた年1994年に証明完成、1995年に出版
解いた人アンドリュー・ワイルズ(リチャード・テイラーの協力)
かかった年数約360年
途中の主な成果n=4(フェルマー)、n=3(オイラー)、n=5(ディリクレ・ルジャンドル)、n=7(ラメ)、正則素数(クンマー)
主な失敗1847年のラメの証明、1988年の宮岡洋一の証明、1993年のワイルズの最初の証明
分野数論(楕円曲線・モジュラー形式)

このページのポイント

  • フェルマーの最終定理は1637年ごろの余白の書きこみから始まり、1995年に証明が出版されるまで約360年かかった
  • オイラーのすき間・ラメの失敗・ワイルズの穴など、つまずきのたびに理想数などの新しい数学が生まれた
  • 谷山・志村予想を橋にしたフライ→リベット→ワイルズのバトンで完成。定理そのものの意味は、既存の解説記事へ

フェルマーの最終定理の歴史とは?(ひとことで)

フェルマーの最終定理の歴史とは、「3以上の自然数 n で、xn+yn=znx^n+y^n=z^n をみたす自然数 x, y, z はない」という主張に、約360年かけて数学者たちが挑み、1995年にイギリスのアンドリュー・ワイルズが証明を完成させるまでの物語です。1637年ごろに、フランスのフェルマーが本の余白に「証明を見つけたが、余白がせまくて書けない」という趣旨の書きこみを残したのが始まりとされます。

定理そのものの意味や、n=2 との違い、中学生向けの図解をくわしく知りたい人は、フェルマーの最終定理とは?わかりやすく解説(n=2と3以上の違い)と、フェルマーの最終定理を中学生向けに図解へどうぞ。このページでは、「だれが挑み、どこでつまずき、何が手がかりになって解けたか」という難問としての歴史を中心に、失敗した証明や途中の成果、そして解決が数学に何を生んだかを紹介します。

「できた」の後ろにあった つまずき1770オイラーのn=3の証明にすき間1847ラメの証明が一意分解の壁で止まる1988宮岡洋一の証明に不備が見つかる1993ワイルズの証明にも穴が見つかる1995ワイルズとテイラーが穴をうめ出版赤=つまずき 緑=完成
証明が止まった4つの場面と、完成の年

ここで大事なのは、この歴史が「まちがい」の連続でもあったことです。天才オイラーの証明にもすき間があり、有名な数学者ラメの証明は壊れ、20世紀末のワイルズの最初の証明にさえ穴がありました。そのたびに新しい数学の道具が生まれたのです。

うかるくん

うかるくん

そんなに長い間、世界中の数学者でも解けなかったんですか?

合格先生

合格先生

そうなんだ。しかも失敗のたびに新しい理論が育った。「解けなかったこと」が、むしろ数学を進める力になったんだよ。この歴史を知ると、入試で行きづまったときの考え方にもヒントがあるんだ。

問題の式は、ピタゴラスの三平方の定理と同じ形です。古代のピタゴラスの業績から数えると、2000年以上の数の物語の一部でもあります。

フェルマーの最終定理の挑戦をやさしく解説

ひとことで言うと

n=2n=2 のときは、32+42=523^2+4^2=5^2 のように解がたくさんあります。ところが n=3n=3 以上では、解が1つもないというのがフェルマーの主張です。「解がある」ことは例を1つ見せればよいのですが、「解がない」ことを示すには、無限にある組み合わせのすべてが当てはまらないことを証明しなければなりません。

なぜ「最終」定理?

フェルマーが書き残したたくさんの主張のうち、ほかのものは次々と証明されたり、誤りが分かったりしました。この主張だけが最後まで証明も反例も見つからずに残ったので、「最終定理」とよばれます。当時は「予想」の位置づけで、1995年の証明で「定理」になりました。

「全部の n」を一気に示す必要はなかった

実は、すべての n について示す必要はありません。たとえば n=12 のとき、x12=(x3)4x^{12}=(x^3)^4 なので、n=4 で解がなければ n=12 でも解がありません。このように、n=4 と、3以上のすべての奇素数 p(3, 5, 7, 11, …)だけを示せば十分です。この絞りこみは、どの時代の挑戦者も使いました。この「絞りこみ」の考え方は合同式(mod の計算)や素数とはとも結びついています。

挑戦の2つの方法

歴史を大きく分けると、挑戦の方法は2つあります。

  • 一つずつ攻める方法:n=4、n=3、n=5、n=7、…と、特定の指数を1つずつ解いていく。17世紀から19世紀前半の主流でした。
  • まとめて攻める方法:「ある条件をみたす指数」のすべてを一気に証明する。19世紀半ばのクンマーから始まり、最後はワイルズの「橋をかける方法」で完成しました。
一歩ずつ進んだ挑戦 n=41600年代フェルマー(無限降下法)n=31753〜70オイラー(すき間あり)n=51825ディリクレ・ルジャンドルn=71839ラメ正則素数1850年ごろクンマー(理想数)400万未満1993コンピューターで確認 個別の n を一つずつ解くやり方には、行きどまりがあった
一つずつ攻める方法で進んだ指数。コンピューターは1993年までに400万未満の素数を確認した

フェルマーの最終定理の歴史と年表

1637年ごろ:余白の書きこみ

フランスのフェルマーの業績と生涯は、古代ギリシャのディオファントスの『算術』(バシェによるラテン語訳)の余白に、定理の主張と「驚くべき証明を見つけたが、余白がせますぎて書けない」という趣旨の書きこみを残したと伝えられます。時期は1637年ごろとされます(正確な年は分かっていません)。フェルマーは1665年に亡くなり、1670年に息子がこの書きこみ付きの本を出版しました。

フェルマー本人は、このあとで一般の n についての証明を二度と書き残しませんでした。多くの専門家は、フェルマーの「驚くべき証明」はまちがいだったか、そもそも存在しなかったと考えています。現在の証明は、フェルマーの時代にはなかった道具(楕円曲線・モジュラー形式など)を使うからです。

フェルマー自身が示した n=4

フェルマーが証明を書き残した唯一の場合がn=4(正確には x4+y4=z2x^4+y^4=z^2 に解がないこと)で、無限降下法という方法を使いました。「もし解があれば、もっと小さい解がある。それを続けると、自然数がいつまでも小さくなり続けて矛盾する」という論法です。合同式の計算や数学的帰納法と同じ、自然数の性質を使う方法です。

18世紀:オイラーと n=3

オイラーは、1753年にゴールドバッハへの手紙で n=3 の証明を得たと書き、1770年の本『代数学』にその証明をのせました。ところがこの証明にはすき間があるとされます。オイラーは、数に「複素数」をまぜて考えたのですが、その世界で「素因数分解が1通りになる」ことを、きちんと示していませんでした。のちの数学者が、オイラーの別の仕事でこのすき間はうめられる、として、今でもオイラーが n=3 の最初の証明者とされています。ここに、あとのクンマーとつながる「複素数の世界で素因数分解は1通りか?」という重要な問いの種がありました。

19世紀はじめ:ジェルマンとガウス

フランスの女性数学者ソフィ・ジェルマンの業績は、1800年代のはじめに、まったく新しい攻め方を考えました。素数 p と、2p+1 もまた素数であるとき(p=3, 5, 11, 23, 29, 41, 53, 83, … のちに「ジェルマン素数」とよばれます)、x・y・z のどれも p で割り切れない場合には解がない、という定理です。資料によれば、ジェルマンの方法で100より小さい素数の「第1の場合」が解け、のちにルジャンドルが197より小さい数まで広げました。

ジェルマン素数(pと2p+1が素数) p=32p+1=7p=52p+1=11p=112p+1=23p=232p+1=47p=292p+1=59p=412p+1=83p=532p+1=107p=832p+1=167 この p では、x・y・z がどれもp で割り切れないとき、解はない 一つずつでなく、まとめて攻めた
ジェルマン素数:p と 2p+1 が両方とも素数。これらの p では、x・y・z がどれも p で割り切れない場合に解がない

ガウスの業績と生涯は、この問題を「孤立した命題(ほかの数学とつながらない主張)」と考えて、あまり興味をもたなかった、という話が伝えられています(1816年ごろの手紙とされます)。そのガウスの数論の流れから、のちの大きな発展が生まれるのは皮肉なことです。

1825年:n=5、1839年:n=7

1825年に、ドイツのディリクレの業績とフランスのルジャンドルが、それぞれ n=5 を証明しました(ディリクレが一部、ルジャンドルが残りを担当した、という経緯があります)。ディリクレは1832年に n=14 も示しています。n=7 は、1839年にフランスのガブリエル・ラメが解きました。ただし n=7 の証明は、n=5 よりずっと大変でした。1つずつ解く方法の限界が見えてきました。

1847年:ラメの「証明」が壊れた日

1847年3月1日、ラメはパリの科学アカデミーで、「すべての n の証明ができた」と発表しました。複素数をつかった素因数分解を使うという考え方です。コーシーの業績も、同じ方向でラメを支持し、自分も証明に近づいていると述べたと記録されています。

ところがリウヴィルが、「その世界で素因数分解は1通りと決まっているのか?」と疑問を出しました。同年5月24日、ドイツのエルンスト・クンマーの手紙が読み上げられ、ここで素因数分解が1通りにならない場合があることが示されました。ラメの証明は、ここで壊れました。

素因数分解が一通りでなくなる世界 ふつうの整数の世界6 = 2 × 3 (これだけ) √−5 をまぜた世界6 = 2 × 36 = (1+√−5) × (1−√−5)(かけると 1+5=6 になる) 分解が2通り → ラメの証明の前提が崩れた
素因数分解が一通りでなくなる例。√−5 を使う世界では 6=2×3=(1+√−5)(1−√−5)。ラメの証明はこの性質を仮定していた

クンマーの「理想数」:失敗から生まれた新しい数学

クンマーは、素因数分解が1通りでなくなる世界を救うために、理想数という新しい考え方を作りました(のちにデデキントの業績が「イデアル」として整理)。さらに、素数 p が「正則」とよばれる条件をみたすとき、その p についてフェルマーの最終定理が成り立つことを一気に証明しました。100までの素数では、正則でないのは37・59・67だけでした。これは、失敗から生まれた新しい数学が、元の問題を大きく前進させた、歴史的な例です。

この理想数の理論は、のちの代数的整数論という大きな分野につながっていきます。ガロアの方程式の理論と合わせて、現代の数論の基礎です。

1908年:賞金と「証明」の洪水

ドイツの数学愛好家パウル・ヴォルフスケールは、1906年に亡くなるとき、この問題を解いた人へ賞金10万マルクを遺しました。1908年にゲッティンゲン科学協会が賞を公表し、期限は2007年9月13日とされました。すると、世界中から「証明」が殺到し、1908年から1912年だけで1000件以上のまちがった証明が出版された、と数学史の資料に書かれています。20世紀初めには、リンデマン(πの超越性を証明した人)も、1901年と1907年にミュンヘンの学士院の紀要にこの問題の論文を出しましたが、証明は成功しなかった、と伝えられます。

20世紀:コンピューターと、新しい橋

1954年にヴァンディバーが2521までの素数、1978年にワグスタッフが12万5000までの素数、1993年には400万未満の素数で成り立つことを、コンピューターで確かめました。でも「確かめる」だけでは証明になりません。1983年、ドイツのゲルト・ファルティングスがモーデル予想を証明し、そこからフェルマーの方程式の解はあっても有限個であることが分かりました。ゼロにはなりませんが、大きな進歩でした。

1955〜1986年:谷山・志村予想、フライ、リベット

1955年ごろ、日本の谷山豊の予想が、楕円曲線とモジュラー形式という2つの数学が深く関係しているという予想を提案しました。志村五郎の業績がこれを精密にし、のちに谷山–志村予想(あるいは谷山–志村–ヴェイユ予想)とよばれます。

1984年、ドイツのゲルハルト・フライが、「もしフェルマーの方程式に反例があれば、特別な楕円曲線ができる。その曲線は谷山–志村予想に合わないはずだ」と指摘しました。1986年にアメリカのケン・リベットが、セールの予想をもとに、これを証明しました。つまり、谷山–志村予想が正しければ、フェルマーの最終定理は正しいと決まったのです。

3人のバトンリレー(背理法) 1984年 フライもし反例があれば、特別な楕円曲線ができる 1986年 リベットその曲線は「谷山–志村予想」に合わない 1993〜95年 ワイルズ(とテイラー)谷山–志村予想の大事な場合を証明 矛盾 → 反例はないフェルマーの最終定理が成り立つ 谷山 豊・志村 五郎の予想が橋になった
フライ→リベット→ワイルズ。谷山・志村予想を橋にして、フェルマーの最終定理がつながった

1986〜1995年:ワイルズ

リベットの結果を知ったイギリスのアンドリュー・ワイルズは、フェルマーの最終定理に取り組む決意をしたと語っています。子どものころに本でこの問題を知り、10歳のころから魅せられていたとも、本人が語っています。ワイルズは7年ほど、研究のことをほとんど人に伝えず進めた、と本人が語っています。そして1993年6月21〜23日、ケンブリッジ大学ニュートン研究所で3回の講演をして、証明を発表しました。

ところが、論文を審査する過程で、証明に穴が見つかりました。1993年8月にニック・カッツが指摘したとされます。ワイルズは12月に、問題が残っていることを公表しました。そこから約1年、かつての教え子のリチャード・テイラーの協力もえて、穴をうめる努力が続きます。そして1994年9月19日、ワイルズはひらめきを得ました。この方法は、以前に別の目的で作っていた2つの方法を組み合わせたものでした。1994年10月に論文を提出し、1995年5月の数学の専門誌『Annals of Mathematics』に、2編の論文として載りました。

ワイルズ 最後の1年11か月1993.6発表(3日間の講演)1993.8カッツが審査中に不備を指摘1993.12「問題が残っている」と報告1994.9穴をうめるひらめき1995.5数学の専門誌に掲載ほぼ1年かけて、穴を直した
ワイルズの証明は、発表から約2年かかって完成した。最後の1年は、見つかった穴を直す作業だった
「ここが大事!」と説明する合格先生

合格先生

歴史を見ると、「できたと思ったら穴があった」ことは、プロの数学者でもよくあることなんだ。大切なのは、穴を見つけて直す姿勢だよ。入試でも、解いたあとの見直しが力になる。

年できごと
1637年ごろフェルマーが本の余白に書きこみ(証明は残さず)
1670年息子が書きこみ付きの本を出版
1753〜70年オイラーが n=3 の証明(すき間あり)
1825年ディリクレとルジャンドルが n=5 を証明
1839年ラメが n=7 を証明
1847年ラメが「すべての n」の証明を発表→クンマーの指摘で壊れる
1850年ごろクンマーが理想数を作り、正則素数のすべてで証明
1908年ヴォルフスケール賞が設けられる。1912年までにまちがいの証明が1000件以上
1983年ファルティングスが、解は有限個と証明
1984〜86年フライが指摘、リベットが「谷山–志村予想が正しければ最終定理も正しい」と証明
1993年6月ワイルズが証明を発表。8月に穴が見つかる
1994年9月ワイルズがテイラーの協力で穴をうめる方法にたどりつく
1995年5月証明が専門誌に掲載される
2016年ワイルズがアーベル賞を受賞

フェルマーの最終定理はいつ・だれが解いた?

フェルマーの最終定理は、1994年に、イギリスのアンドリュー・ワイルズ(リチャード・テイラーの協力)が証明を完成させ、1995年に出版されました。約360年ぶりの解決です。ワイルズは2016年に、この業績でアーベル賞を受賞しました。賞金のヴォルフスケール賞も、1997年にワイルズに贈られた(1997年6月)。

解決までの流れ(まとめ)

  1. 個別の n を解く(17〜19世紀前半):n=4、3、5、7 など。方法は一つずつ。
  2. 壁にぶつかる(1847年):複素数の世界で素因数分解が1通りとは限らない。
  3. 新しい数学の誕生(19世紀半ば):クンマーの理想数。正則素数のすべてで成り立つ。
  4. 橋をかける(1955〜1986年):谷山・志村予想、フライ、リベットが、楕円曲線の世界へ問題をつなぐ。
  5. 橋をわたる(1993〜1995年):ワイルズが谷山・志村予想の大事な場合を証明。

ワイルズが証明したもの

ワイルズが証明したのは、フェルマーの方程式そのものではなく、「半安定な楕円曲線はすべてモジュラーである」という谷山–志村予想の大事な場合でした。この場合を示せば、フライの曲線が存在しないと分かるからです。谷山–志村予想の全体は、2001年にブルイユ、コンラッド、ダイヤモンド、テイラーの4人が証明を完成させた(2001年)。

「今どこまで」分かっている?

フェルマーの最終定理は解決済みです。ただし、ワイルズの証明は現代数学の道具を多く使うため、「もっと初歩的な証明があるのか」は分かっていません。フェルマーが本当に証明をもっていたのかも、確かめようがありません。ABC予想(ABC予想(a+b=c と素因数の関係))が正しければ、n が十分大きいときの最終定理は、ずっと簡単に出る、ともいわれます。

くわしい証明の解説

フェルマーの最終定理の「問題としての中身」「ピタゴラス数」「n=4 の場合」「証明の道すじの図解」は、フェルマーの最終定理とは?(ワイルズの証明と入試での部分点)や中学生向けのフェルマーの最終定理の解説が、より詳しくあつかっています。両方を読み比べると、歴史と中身の両面がつかめます。

フェルマーの最終定理はなぜ難しかったのか

1. 「ない」ことを示すのは難しい

「解がある」ことは例を1つ見せれば終わりですが、「解がない」ことは、無限にある組み合わせを全部ふさがなければなりません。コンピューターで400万未満の素数まで確認しても、それは「証明」にはなりませんでした。

2. 個別に解く方法には限界があった

n=3、5、7 と1つずつ解くたびに、証明は急に難しくなりました。しかも n には無限に多くの素数があります。「一つずつ解く」では、いつまでたっても終わりません。

3. 素因数分解が1通りではなかった

ふつうの整数では、素因数分解は1通りです(ユークリッドの互除法の考え方に支えられた性質です)。ところが数の世界を広げると、この性質がくずれます。ラメの証明は、ここで壊れました。この壁を乗りこえるために、理想数(イデアル)という新しい考え方が必要でした。

4. 問題と無関係に見える数学が必要だった

最後に問題を解いたのは、フェルマーの方程式と関係なさそうに見える楕円曲線とモジュラー形式という2つの数学を結びつける方法でした。「x の n 乗+y の n 乗=z の n 乗」から、一見遠い世界に橋をかけるという発想は、20世紀のフライやリベット、谷山・志村がいなければ生まれませんでした。

5. 長い間、道具がなかった

ワイルズの証明は、200ページ近い論文で、数学の最新の道具をいくつも使っています。岩澤健吉の岩澤理論や、グロタンディークの代数幾何など、20世紀の数学者たちが作った道具がなければ、できませんでした。フェルマーの時代の数学だけでは、とうてい届かなかったのです。

よくある誤解

  • 「証明は1ページに書ける」:フェルマーの「証明」は伝説ですが、現代の証明は200ページ近くにもなります。
  • 「ワイルズは1人で全部やった」:谷山、志村、フライ、セール、リベット、テイラーなど、多くの人の仕事の上にたっています。
  • 「東大入試に出た」:「解けたら東大」は難しさのたとえで、実際の入試問題ではありません。
サクラちゃん

サクラちゃん

ワイルズさんの最初の証明にも穴があったなんて、びっくりです。

合格先生

合格先生

本当だよ。でも1年かけて直した。まちがいを見つけて直すのも、数学の仕事の大切な一部なんだ。答案を見直すくせは、プロもやっているんだよ。

受験・勉強とフェルマーの最終定理のつながり

中学受験・高校受験:三平方の定理とピタゴラス数

中学3年で習う三平方の定理は、フェルマーの最終定理の n=2 の場合です。32+42=523^2+4^2=5^2、52+122=1325^2+12^2=13^2、82+152=1728^2+15^2=17^2 のような整数の組(ピタゴラス数)は無数にあります。n=3 以上でこの組が1つもない、というのが定理の主張です。

高校:背理法、数学的帰納法、合同式

高校数学では、フェルマーが使った無限降下法の仲間である数学的帰納法や背理法の考え方を学びます。整数問題の合同式(mod の計算)を使うと、「この方程式には解がない」ことを示せる場合があります。大学入試でも、「整数解がない」ことを示す問題がよく出ます。

大学受験の整数問題と、ジェルマンの恒等式

入試の整数問題では、「n4+4n^4+4 は n>1 のとき合成数になる」というような因数分解の問題が出ます。実は、これはソフィ・ジェルマンの恒等式とよばれる x4+4y4=(x2+2y2+2xy)(x2+2y2−2xy)x^4+4y^4=(x^2+2y^2+2xy)(x^2+2y^2-2xy) を使うものです。この式の名前は、この女性数学者にちなみます。因数分解の公式の知識が、世界の難問の歴史ともつながっているのです。

勉強法として:歴史に学ぶ「あきらめない力」

この歴史から学べることは3つあります。(1) 小さい場合(n=4、3、5…)から調べる。(2) 行きづまったら、問題の見かたを変える(クンマーの理想数)。(3) 解いたあとも見直す(ワイルズの穴)。これは入試の勉強にもそのままあてはまります。数学の勉強法(解法の暗記→演習→過去問)や、数学オリンピックの問題(長方形に詰めた正方形)のような問題の練習で、「小さい場合から調べる」力を育てましょう。受験で難問に出会ったときの部分点の取り方は、フェルマーの最終定理の記事の「入試で部分点を取る方法」にもまとまっています。

例題:近い例は「あと1」で届かない

63+83=216+512=7286^3+8^3=216+512=728 は、93=7299^3=729 にあと1届きません。93+103=729+1000=17299^3+10^3=729+1000=1729 は 123=172812^3=1728 より1大きくなります。「惜しい例」はいくらでも見つかりますが、ぴったり一致する例は1つもない、というのがフェルマーの最終定理です。 1729 は、インドのラマヌジャンの業績と生涯にまつわる「タクシー数」としても有名です(1729=13+123=93+1031729=1^3+12^3=9^3+10^3)。

フェルマーの最終定理が数学にあたえた影響

  • 代数的整数論の誕生:クンマーの理想数とデデキントのイデアルは、現代の数論の基礎になりました。
  • 楕円曲線とモジュラー形式の結びつき:谷山–志村予想(今はモジュラリティ定理)は、数論と解析学をつなぐ「ラングランズ・プログラム」の大きな一歩です。
  • 「橋をかける」という数学の方法:問題を別の世界に移して解くという方法が、現代数学の標準的な道具になりました。5次方程式の解の公式がない理由と同じように、新しい理論が生まれる原動力でした。
  • 証明の確かめ方への意識:ワイルズの最初の穴は、論文を専門家が審査する仕組みの大切さを世の中に示しました。
  • 数学が社会の話題に:1990年代、ワイルズの証明は世界中のニュースになり、書籍やドキュメンタリーを通じて数学の魅力を広く伝えました。
  • 新しい予想へ:ABC予想など、フェルマーの最終定理の「その先」にある問題の研究が活発になりました。

フェルマーの余白の一言から始まった問題が、360年かけて数論の姿を変えた。しかもその間に「失敗」が果たした役割は大きなものでした。数学の歴史は、成功の記録であると同時に、まちがいの記録でもあるのです。

フェルマーの最終定理に挑戦!練習問題

やさしい

  1. n=2 のとき x2+y2=z2x^2+y^2=z^2 をみたす自然数の組を、3,4,53,4,5 以外にも1つ見つけなさい。
    答えと解説を見る52+122=25+144=169=1325^2+12^2=25+144=169=13^2 なので (5, 12, 13)。ほかに (8, 15, 17)、(7, 24, 25) などがあります。
  2. 63+836^3+8^3 を計算し、939^3 との差を求めなさい。
    答えと解説を見る63+83=216+512=7286^3+8^3=216+512=728、93=7299^3=729 なので、差は1(729−728)です。「惜しい」けれど一致しません。

ふつう

  1. n=12 のとき、フェルマーの方程式 x12+y12=z12x^{12}+y^{12}=z^{12} に自然数解がないことは、n=4 の場合から分かります。理由を説明しなさい。
    答えと解説を見るx12=(x3)4x^{12}=(x^3)^4 なので、解 (x, y, z) があれば (x3)4+(y3)4=(z3)4(x^3)^4+(y^3)^4=(z^3)^4 となり、n=4 の解 (x3,y3,z3)(x^3, y^3, z^3) ができてしまいます。n=4 には解がないので、n=12 にもありません。
  2. (m2−n2, 2mn, m2+n2)(m^2-n^2,\ 2mn,\ m^2+n^2) は、ピタゴラス数になります。m=5、n=2 のときの組を求め、確かめなさい。
    答えと解説を見るm2−n2=21m^2-n^2=21、2mn=202mn=20、m2+n2=29m^2+n^2=29。212+202=441+400=841=29221^2+20^2=441+400=841=29^2 で、(21, 20, 29) が成り立ちます。

むずかしい

  1. 1+−51+\sqrt{-5} と 1−−51-\sqrt{-5} の積を計算し、6 が 2×32\times3 のほかにもう1通りに分解できることを確かめなさい。
    答えと解説を見る(1+−5)(1−−5)=1−(−5)2=1−(−5)=6(1+\sqrt{-5})(1-\sqrt{-5})=1-(\sqrt{-5})^2=1-(-5)=6。よって、この世界では 6=2×3=(1+−5)(1−−5)6=2\times3=(1+\sqrt{-5})(1-\sqrt{-5}) の2通りに分解できます(1847年のラメの証明が壊れた理由の例です)。
  2. ジェルマンの恒等式 x4+4y4=(x2+2y2+2xy)(x2+2y2−2xy)x^4+4y^4=(x^2+2y^2+2xy)(x^2+2y^2-2xy) を使って、n が 2 以上の整数のとき n4+4n^4+4 が素数にならないことを示しなさい。
    答えと解説を見るx=n、y=1 を入れると n4+4=(n2+2n+2)(n2−2n+2)n^4+4=(n^2+2n+2)(n^2-2n+2)。n2−2n+2=(n−1)2+1≥2n^2-2n+2=(n-1)^2+1\ge2(n≧2 のとき)、n2+2n+2>2n^2+2n+2>2 なので、2つの因数がどちらも2以上の整数になり、n4+4n^4+4 は合成数です。(n=1 のときは 55 で素数です。)

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よくある質問

フェルマーの最終定理の歴史を教えてください。

1637年ごろにフェルマーが本の余白に書いたのが始まりです。n=4、3、5、7と一つずつ解かれ、1847年にラメの証明が壊れ、クンマーの理想数で前進し、1995年にワイルズが証明を完成させました。

フェルマーの最終定理はだれが証明しましたか?

イギリスのアンドリュー・ワイルズが証明しました。1993年に発表し、見つかった穴をリチャード・テイラーの協力で直して、1995年に論文が出版されました。

なぜ解決に360年もかかったのですか?

「解がない」ことをすべての場合で示す必要があり、個別の n を一つずつ解く方法には限界があったからです。最終的には、楕円曲線とモジュラー形式という20世紀の道具が必要でした。

オイラーはフェルマーの最終定理を証明しましたか?

n=3の場合を証明しました。ただし1770年の本の証明にはすき間があり、のちにオイラーの別の仕事でうめられるとされます。一般のnは示せませんでした。

ラメの証明はなぜ失敗したのですか?

1847年にラメは複素数をまぜた数の世界で、素因数分解が1通りに決まると仮定して証明しました。しかしリウヴィルとクンマーが、その世界では分解が1通りと限らないことを指摘し、証明は壊れました。

クンマーは何をしたのですか?

素因数分解が1通りでなくなる世界を救うために「理想数」を作り、正則素数のすべてでフェルマーの最終定理が成り立つことを示しました。この理論は、のちの代数的整数論の基礎になりました。

ワイルズの最初の証明には誤りがあったのですか?

はい。1993年6月の発表のあと、審査中に不備が見つかりました。ワイルズは1994年9月に、テイラーの協力のもとで穴をうめる方法を見つけ、1995年に出版されました。

谷山・志村予想とフェルマーの最終定理の関係は?

フェルマーの方程式に反例があれば、谷山・志村予想に合わない楕円曲線ができることが、フライとリベットによって示されました。ワイルズが予想の大事な場合を証明し、定理が成り立つことが決まりました。

フェルマーは本当に証明をもっていたのですか?

分かっていません。多くの専門家は、まちがった証明だったか、存在しなかったと考えています。現代の証明は、フェルマーの時代にはなかった道具を使っているからです。

フェルマーの最終定理は受験に出ますか?

定理そのものは出ませんが、ピタゴラス数、合同式を使った「整数解がない」ことの証明、ジェルマンの恒等式を使う因数分解などが、大学入試の整数問題に出ます。

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出典・参考

  • MacTutor History of Mathematics, “Fermat’s last theorem”(セント・アンドルーズ大学)
  • Wikipedia, “Fermat’s Last Theorem”(年・出来事の確認に使用)
  • A. Wiles, “Modular elliptic curves and Fermat’s Last Theorem”(Annals of Mathematics, 1995年)
  • R. Taylor, A. Wiles, “Ring-theoretic properties of certain Hecke algebras”(Annals of Mathematics, 1995年)
  • サイモン・シン『フェルマーの最終定理』(新潮社)

最終更新:2026年11月3日/作成:大学受験合格大作戦