フェルマーは何をした人?業績・生涯・名言をわかりやすく|最終定理・小定理・確率論

フェルマーは何をした人?業績・生涯・名言をわかりやすく|最終定理・小定理・確率論

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フェルマーPierre de Fermat

ひとことで言うと

本職は法律家のアマチュア数学者。フェルマーの最終定理と小定理、パスカルとの確率論、微分積分の先がけなど、整数論を近代の学問にした。

名前ピエール・ド・フェルマー(Pierre de Fermat)
生没年1607年ごろ(1601年説もある)〜1665年1月12日
国フランス(南フランスのボーモン=ド=ロマーニュ生まれ、トゥールーズで活躍)
分野整数論・確率論・解析幾何・光学。本職は法律家
主な業績フェルマーの最終定理(予想)、フェルマーの小定理、二平方和の定理、無限降下法、確率論(パスカルとの手紙)、極大極小の方法、フェルマーの原理
名前がつくものフェルマーの小定理・最終定理・フェルマー数・フェルマー点・フェルマーの原理・フェルマーの螺旋
よばれ方「アマチュア数学者の王子」「整数論の父」

このページのポイント

  • フェルマーの最終定理は、本の余白に書かれた予想。約350年後の1995年にワイルズが証明(日本の谷山・志村予想が鍵)
  • フェルマーの小定理 ap−1≡1(modp)a^{p-1}\equiv1\pmod p は、大学入試で大きな累乗の余りを求める強力な道具
  • パスカルとの手紙(1654年)で確率論を生み、極大・極小の方法で微分積分の先がけにもなった

フェルマーは何をした人?(業績をひとことで)

ピエール・ド・フェルマー(1607年ごろ〜1665年)は、フランスの数学者です。本職は裁判所の役人・法律家で、数学は趣味として研究した「アマチュア数学者」でした。それでも、整数論(数論)を近代の学問として切りひらき、確率論の誕生に関わり、微分積分の先がけになる方法を考え、光の進み方を表すフェルマーの原理まで見つけた、17世紀を代表する数学者のひとりです。

いちばん有名なのは、「フェルマーの最終定理」です。「nn が3以上のとき、xn+yn=znx^n+y^n=z^n を満たす自然数 x,y,zx,y,z はない」という予想を、フェルマーは本の余白に書き残しました。これを本当に証明できた人は、フェルマーの死後約350年も現れず、1995年にイギリスのワイルズがようやく証明しました。この話はフェルマーの最終定理とは?わかりやすく解説や、中学生向けのフェルマーの最終定理を中学生向けに図解でくわしく読めます。

受験生にとってのフェルマーは、まず「フェルマーの小定理」です。素数 pp と、pp の倍数でない整数 aa について ap−1a^{p-1} を pp で割った余りが1になる、という定理で、フェルマーの小定理の証明と余りの問題は大学入試の整数問題で、大きな累乗の余りを求めるときの強力な道具です。合同式(mod)の計算と組み合わせて使います。

うかるくん

うかるくん

「小定理」と「最終定理」って、別のものなんですね!

合格先生

合格先生

そう、名前は似ているけれど別の定理だよ。小定理は入試で使う、余りの計算の道具。最終定理は、人類が358年かけて解いた、世界一有名な数学の問題。どちらも書いたのはフェルマー本人なんだ。

指し棒で説明する合格先生

合格先生

フェルマーは「証明を書かない人」だったんだ。定理だけを手紙に書いて、証明は伏せたことが多い。だから後の数学者が、証明を一つ一つ考えることになったよ。

フェルマーの生涯と年表

南フランスの商人の家に生まれる

フェルマーは、南フランスのボーモン=ド=ロマーニュという町で生まれました。父は皮革を扱う裕福な商人で、町の有力者でもありました。生まれた年は、1601年とする説と、1607年ごろとする説があり、はっきりしません。長く1601年とされてきましたが、近年の研究で1607〜1608年ごろの可能性が高いと考えられるようになりました(このページと一覧では1607年ごろとしています)。

法律家として働きながら数学を研究

フェルマーはトゥールーズやオルレアンで法律を学び、1631年にトゥールーズの高等法院(地方の最高裁判所)の評定官になりました。仕事は忙しく、数学のための時間は、仕事の合間にしかとれなかったと考えられます。ラテン語・ギリシャ語・イタリア語・スペイン語に通じ、詩も書く教養人でもありました。

手紙で数学を語り合った

フェルマーはパリから遠く離れた町にいたため、論文を出版することはほとんどなく、手紙で数学の仲間と考えを交わしました。パリの修道士メルセンヌは、ヨーロッパ中の学者の手紙をとりもつ人で、フェルマーの手紙もこの人を通じて広まりました。デカルトやパスカル、ホイヘンスらとも間接的に議論しています。

亡くなったあとに出版された

1665年1月12日、フェルマーは巡回裁判の途中、カストルの町で亡くなりました。数学の成果は生前ほとんど出版されておらず、長男サミュエルが、父が愛読していた古代ギリシャのディオファントス『算術』の書きこみを集めて1670年に出版しました。この本の余白に書かれた小さなメモが、のちの「フェルマーの最終定理」です。

年できごと
1601〜1607年ごろ南フランスのボーモン=ド=ロマーニュで生まれる(生年は諸説あり)
1620年代ボルドー・オルレアンで学ぶ。法律を修める
1631年トゥールーズの高等法院の評定官になる
1636年ごろメルセンヌと手紙のやりとりを始める。座標の論文を書く(出版は死後)
1637年ごろ極大・極小の方法を送る。『算術』の余白に最終定理を書く
1640年手紙でフェルマーの小定理と、素数と二つの平方数の和の定理を述べる
1654年パスカルと手紙で確率を論じる(点数問題)
1657年ペル方程式の問題をヨーロッパの数学者に挑戦状として出す
1662年ごろ光の進み方に関する「最短時間の原理」をまとめる
1665年1月12日、フランスのカストルで亡くなる
1670年長男が『算術』の書きこみ入りの版を出版。最終定理が世に知られる
1770年オイラーが n=3 の場合を証明(最終定理の最初の大きな一歩)
1995年ワイルズの証明が論文として出版される

フェルマーの主な業績をやさしく解説

業績1 フェルマーの最終定理

古代ギリシャのディオファントスの本『算術』には、直角三角形の辺の関係 x2+y2=z2x^2+y^2=z^2 が出てきます。この式を満たす自然数は、32+42=523^2+4^2=5^2 や 52+122=1325^2+12^2=13^2 などいくらでもあります。ところが、2乗を3乗、4乗、…に変えると、事情がまったく変わります。

x ⁿ+y ⁿ=z ⁿ を満たす自然数は?n=2 のとき3²+4²=5²5²+12²=13²8²+15²=17²…無数にあるn=3, 4, 5, … のとき3³+4³=91(5³=125 ではない)1つもない!(証明に358年)フェルマーが「証明を見つけた」と書いた予想
n=2なら無数にあるが、n=3以上だと自然数の組が1つもない、というのがフェルマーの最終定理

フェルマーは1637年ごろ、この本の余白に、「xn+yn=znx^n+y^n=z^n は n≥3n\ge3 では解がない。私はそのことの驚くべき証明を見つけたが、この余白は狭すぎて書ききれない」という意味のラテン語を書きこみました。このメモはフェルマーの死後、息子の出版によって世に出ました。

xn+yn=zn(n≥3) ⟹ 自然数の解 x,y,z はないx^n+y^n=z^n\quad(n\ge3)\ \Longrightarrow\ \text{自然数の解}\ x,y,z\ \text{はない}

フェルマーが本当に証明を持っていたのかは、おそらく持っていなかったと考えられています。確実に残っているのは、n=4n=4 の場合の証明だけです。これは「無限降下法」という、「解があるなら、もっと小さい解がある。それをくり返すと、いつか自然数でなくなる。だから最初から解はない」とみちびく方法で示されました。

最終定理が解けるまで358年1637年ごろフェルマーが余白に書く1670年息子が書きこみ入りの本を出版1770年オイラーが n=3 を証明1825年ディリクレたちが n=5 を証明1983年ファルティングスが「解は有限個」と証明1986年リベットが谷山・志村予想との関係を証明1993〜94年ワイルズが発表、穴を直す1995年ワイルズの論文が出版(358年後)
最終定理の歩み。余白の書きこみ(1637年ごろ)から、1995年にワイルズの論文が出版されるまで358年

その後、n=3n=3 はオイラー(1770年)、n=5n=5 はディリクレとルジャンドル(1825年)、n=7n=7 はラメ(1839年)と、一つずつ証明されていきました。ソフィ・ジェルマンは、ある条件を満たす素数 nn をまとめて証明する方法を考えた人として知られ、クンマーは「正則素数」という素数をまとめて証明しました。1983年にはファルティングスが「解があっても有限個」であることを示しました。

決定打になったのは、日本の谷山豊(谷山・志村予想)と志村五郎が1950年代に考えた谷山・志村予想です。これは「楕円曲線とよばれるタイプの方程式は、すべてモジュラー形式とよばれる別の世界のものと対応する」という予想で、1986年にリベットが「この予想が正しければフェルマーの最終定理も正しい」ことを示しました。これを聞いたワイルズ(フェルマーの最終定理を証明)は、10歳のときに図書館で出会った問題を、7年間ひそかに研究し続け、1993年6月にケンブリッジで証明を発表します。審査で穴が見つかりましたが、教え子のリチャード・テイラーの助けで1994年に直し、1995年に論文が出版されました。ワイルズはその後、2016年にアーベル賞を受賞しています。

業績2 フェルマーの小定理(入試に出る整数論)

フェルマーは1640年、友人あての手紙で次の定理を述べました。

p が素数で a が p の倍数でないとき、ap−1≡1(modp)p\ \text{が素数で}\ a\ \text{が}\ p\ \text{の倍数でないとき、}\quad a^{p-1}\equiv1\pmod p

たとえば p=7p=7、a=3a=3 なら、36=7293^6=729 を7で割ると余りは1になります(728=7×104728=7\times104 だからです)。1回目から6回目まで余りを並べると、3,2,6,4,5,1と、すべての余りを一周して、6回目に1にもどります。

フェルマーの小定理(p=7,a=3)326451余り3¹→余り33²=9→余り23³=27→余り63⁴=81→余り43⁵=243→余り53⁶=729→余り16回目でかならず1。これが a^(p−1)≡1 (mod p)
3の累乗を7で割った余りは 3→2→6→4→5→1 と輪になり、6回目で1にもどる。これがフェルマーの小定理

この定理を使うと、31003^{100} を7で割った余りのような、大きな数の余りが簡単に求められます。100=6×16+4100=6\times16+4 なので、3100=(36)16×34≡1×81≡4(mod7)3^{100}=(3^6)^{16}\times3^4\equiv1\times81\equiv4\pmod 7 です。余りの問題の解き方・合同式の計算とあわせて覚えましょう。なお、フェルマー自身は証明を書き残さず、最初の証明を発表したのはオイラー(1736年)です。

業績3 確率論の誕生(パスカルとの手紙)

1654年、フランスの貴族ド・メレが、賭けごとについての2つの疑問をパスカルに相談しました。パスカルは、フェルマーに手紙を書いて意見を求めます。その中心が点数問題です。「先に3勝したほうが賭け金をもらう勝負で、Aが2勝・Bが1勝のときに中止になったら、賭け金をどう分けるべきか」という問題でした。

点数問題(1654年のフェルマーとパスカル)Aが2勝・Bが1勝でやめた。賭け金をどう分ける?(もし続けたら…の4通りが同じ確からしさ)残り2試合:1戦目 A、2戦目 AAの勝ち残り2試合:1戦目 A、2戦目 BAの勝ち残り2試合:1戦目 B、2戦目 AAの勝ち残り2試合:1戦目 B、2戦目 BBの勝ちAが3通り、Bが1通り → A:B = 3:1
残り2試合の4通りのうち、Aが勝つのは3通り、Bが勝つのは1通り。だから賭け金は A:B=3:1 に分ける

2人は「もしゲームを続けたら、どうなる可能性があるか」をすべて数え上げる、という方法で同じ答え(3対1)にたどり着きました。この手紙のやりとりは、確率論のはじまりとされています。いまの確率の基本(場合の数と確率)や順列・組合せの公式は、この考え方を受けついでいます。モンティ・ホール問題をわかりやすくのような確率の話とあわせて読むと、すべての場合を数えることの大切さがよく分かります。

業績4 微分積分の先がけ(極大・極小の方法)

フェルマーは、関数の最大・最小や曲線の接線を求める方法を、ニュートンやライプニッツより約40年早く、1636年ごろに考えました。たとえば、「10を2つの数に分けて、その積を最大にするには」という問題です。分けた片方を xx、もう片方を 10−x10-x とし、xx を少しだけ ee ずらします。

(x+e)(10−x−e)=x(10−x) ⇒ 10e−2xe−e2=0 ⇒ 10−2x−e=0(x+e)(10-x-e)=x(10-x)\ \Rightarrow\ 10e-2xe-e^2=0\ \Rightarrow\ 10-2x-e=0

ここで ee を0にすると 10−2x=010-2x=0、つまり x=5x=5 となり、5と5に分けたときが最大だと分かります。これは、今の微分の考え方(微分とはで最大・最小を調べる方法)と同じです。微分と増減・極値の求め方を習ったときは、「フェルマーが最初にやっていた」と思い出してみてください。ニュートンは、のちに微分積分を完成させるとき、フェルマーの方法を参考にしたと語ったと伝えられます。

業績5 光は最短時間で進む(フェルマーの原理)とフェルマー点

光が空気から水に入るとき、曲がって進みます(屈折)。フェルマーは、「光は、かかる時間がいちばん短い道を通る」という原理を考え、これで屈折の法則を説明しました。デカルトは屈折の法則を別の考え方で示していて、フェルマーはそのやり方に疑問を投げかけました。この「最短時間の原理」は、のちの物理学の「最小作用の原理」へ発展します。

また、フェルマーは「三角形の3つの頂点までの距離の和が最小になる点」を考えました。これがフェルマー点で、トリチェリが解いたので「トリチェリ点」ともよばれます。すべての角が120°未満の三角形では、この点から見て、3本の線のあいだの角がすべて120°になります。

フェルマー点(距離の和が最小)ABCP120°120°120°PA+PB+PC が最小 ⇔ 3つの角がすべて 120°
三角形の内部で、3つの頂点までの距離の和が最小になる点がフェルマー点。3つの角がすべて120°

この問題は、3つの町を結ぶ道路の長さを最短にする、という実際の問題にも使われます。

業績6 二平方和の定理と無限降下法

フェルマーは1640年の12月25日の手紙で、「4で割って1余る素数は、2つの平方数の和で表せる」と書きました(クリスマスの定理とよばれます)。たとえば 5=12+225=1^2+2^2、13=22+3213=2^2+3^2、17=12+4217=1^2+4^2 です。逆に4で割って3余る素数(3,7,11,…)は、2つの平方数の和では表せません。この証明はオイラーが完成させました。フェルマーはこれを「無限降下法」で証明したと書いていますが、証明そのものは残っていません。

フェルマーはほかにも、「2の累乗に1を足した数 22n+12^{2^n}+1 は、いつも素数になる」と予想しました(フェルマー数)。確かに n=0n=0 から4までは、3,5,17,257,65537と素数になります。ところが、n=5n=5 の 232+1=42949672972^{32}+1=4294967297 は、オイラーが1732年に 641×6700417641\times6700417 と素因数分解して予想をくつがえしました。ガウスの業績と生涯の正十七角形の作図は、このフェルマー数の素数と深く結びついています。素数とは何かを考える整数論の楽しさが、ここにあります。

フェルマーの名前がつく公式・定理・用語

  • フェルマーの小定理:ap−1≡1(modp)a^{p-1}\equiv1\pmod p。→ フェルマーの小定理の証明と使い方
  • フェルマーの最終定理:n≥3n\ge3 のとき xn+yn=znx^n+y^n=z^n に自然数の解はない。→ フェルマーの最終定理とは?わかりやすく解説
  • フェルマー数:Fn=22n+1F_n=2^{2^n}+1。F0F_0 から F4F_4 は素数。
  • フェルマーの二平方和の定理:4で割って1余る素数は、2つの平方数の和で表せる。
  • フェルマー点(トリチェリ点):三角形の頂点までの距離の和が最小の点。
  • フェルマーの原理:光は所要時間が最短の道を通る。
  • 無限降下法:解があるならもっと小さな解がある、とみちびき、矛盾を示す証明法。
  • ペル方程式:x2−Ny2=1x^2-Ny^2=1 の自然数解。フェルマーは1657年に、ヨーロッパの数学者に解くことを挑戦した。
  • フェルマーの螺旋:r2=a2θr^2=a^2\theta で表される、うずまきの曲線。

フェルマーの逸話と名言

余白に書かれた、世界一有名なメモ

フェルマーの最終定理の書きこみは、ラテン語で書かれていました。日本語に直すと、おおよそ次のような意味になります。

私はこの定理の、驚くべき証明を見つけた。しかしこの余白は、それを書くには狭すぎる。

フェルマー(ディオファントス『算術』の余白の書きこみ(1637年ごろ)。息子による1670年の出版で知られた)

本当に証明を持っていたのかについては、多くの数学者が「持っていなかったのでは」と考えています。当時の数学の道具では、n=4n=4 のような特別な場合以外は、証明が非常にむずかしいためです。フェルマーが勘ちがいをしていた可能性もあると考えられていますが、確かめることはできません。

証明を見せない「いじわる」な数学者?

フェルマーは、同時代の数学者に、証明を書かずに問題を出すことがよくありました。ペル方程式の問題を、イギリスのウォリスらに挑戦状として送り、「解けるものなら解いてみなさい」と書いたことは有名です。この態度に、デカルトは不満を持ち、関係は必ずしも良くなかったと伝えられます。

パスカルがフェルマーをほめた?

パスカルは、手紙の中で、フェルマーのことを「ヨーロッパ最大の幾何学者」とたたえた、と伝えられています。確率の問題で、2人は別々の方法で同じ答えにたどり着いたことを、パスカルはとてもよろこんだともいわれます。この手紙は、数学の歴史でも貴重な資料です。

ペストで死んだとうわさされた

1652年、フェルマーがペストで亡くなった、といううわさが広まったことがあります。実際には生き延びましたが、このころは重い病気にかかっていたのではないかとも考えられています。確かな記録は少ない話です。

サクラちゃん

サクラちゃん

証明を書かなかったなんて、ずるい気がします……。

合格先生

合格先生

そう思うよね。でも、その「証明のない予想」が、350年以上も数学者たちを動かした。答えが出ない問題に挑み続けた経験が、新しい数学を生んだんだ。入試でも、「まず試して規則を見つける」ことが、証明の第一歩になるよ。

受験・勉強とフェルマーのつながり

中学受験・高校受験:三平方の定理、素数、規則性

中学では、三平方の定理 x2+y2=z2x^2+y^2=z^2 を習います。これは、フェルマーの最終定理で n=2n=2 の場合にあたります。3,4,5や5,12,13などの組を見つけておくと、図形の問題で役立ちます。素数・約数・倍数の問題も、整数論の入口です。唯一の偶数の素数「2」の話や2027は素数?双子素数と西暦の入試問題もあわせて読むと、素数の見方が深まります。

大学受験:フェルマーの小定理と整数問題

大学入試では、フェルマーの小定理を知っていると、大きな累乗の余りを求める問題が一気に楽になります。an(modp)a^n\pmod p を、p−1p-1 ごとに一周する性質で計算するのです。また、「np−nn^p-n は pp の倍数」などの証明問題でも出ます。京都大学や東京大学などの難関大の整数問題で出題されることもあります。素因数分解の方法と約数と倍数の基本もおさえましょう。

確率では、「すべての場合を数える」というフェルマーとパスカルの方法が基本です。場合の数・確率の単元は、京大理系数学の出題分析(確率・整数の頻出度)を見ても分かるように、難関大で重視されます。

勉強法として:フェルマーに学ぶ「小さい場合から試す」

フェルマーが証明したのは、n=4n=4 という「小さい場合」でした。むずかしい問題でも、n=1,2,3n=1,2,3 のように小さい数で試して、規則を見つけることが、解き方の第一歩になります。数学の勉強の進め方は数学の勉強法(解法の暗記→演習→過去問)も参考にしてください。

フェルマーがその後の数学にあたえた影響

  • 整数論の復活:古代ギリシャのディオファントス以来、ほとんど進まなかった整数論を、近代の学問として復活させました。オイラー・ラグランジュ・ガウスの業績と生涯がこの流れを受けつぎ、フェルマーの予想を一つずつ証明していきました。
  • 最終定理が生んだ新しい数学:クンマーの理想数、のちの代数的整数論の発展、楕円曲線とモジュラー形式の対応など、最終定理を解こうとする中で、多くの理論が生まれました。
  • 確率論:パスカルとの手紙から始まり、ホイヘンスの最初の確率の本、ベルヌーイ、ラプラスへと続きます。
  • 微分積分:フェルマーの極大極小の方法は、ニュートンとライプニッツによる微分積分の完成の下地になりました。
  • 暗号:フェルマーの小定理は、現代の暗号(RSA暗号)の仕組みを支える数学の一つです。ネット通信の安全も、フェルマーの数学に支えられています。

日本では、谷山豊と志村五郎が、最終定理の証明の鍵になる予想を作りました。日本の数学者の仕事が、350年の謎の解決に直接つながったことは、世界に誇れる歴史です。

フェルマーに挑戦!練習問題

やさしい

  1. 363^6 を7で割った余りを答えなさい。
    答えと解説を見る36=7293^6=729。729=7×104+1729=7\times104+1 なので、余りは1。フェルマーの小定理(p=7p=7,a=3a=3)の例です。
  2. x2+y2=z2x^2+y^2=z^2 を満たす自然数の組を、(3,4,5)(3,4,5) 以外に1つ答えなさい。
    答えと解説を見る(5,12,13)(5,12,13):25+144=16925+144=169 ✓。ほかに (6,8,10)(6,8,10)、(8,15,17)(8,15,17)、(7,24,25)(7,24,25) など。どれか1つでOK。

ふつう

  1. 31003^{100} を7で割った余りを求めなさい。
    答えと解説を見るフェルマーの小定理より 36≡1(mod7)3^6\equiv1\pmod 7。100=6×16+4100=6\times16+4 なので、3100≡34=81≡3^{100}\equiv3^4=81\equiv 4(81=7×11+481=7\times11+4)。
  2. 先に3勝したほうが800円をもらう勝負で、Aが2勝・Bが1勝のときに中止になりました。フェルマーとパスカルの考え方で、800円を分けなさい。
    答えと解説を見る残り2試合の4通り(AA,AB,BA,BB)のうち、Bが勝つのはBBの1通りだけ。Aの勝つ確率は 34\dfrac34。よって A:600円、B:200円。

むずかしい

  1. 2202^{20} を11で割った余りを求めなさい。
    答えと解説を見る11は素数で、2は11の倍数でないので、フェルマーの小定理より 210≡1(mod11)2^{10}\equiv1\pmod{11}。220=(210)2≡12^{20}=(2^{10})^2\equiv1。余りは1。(210=1024=11×93+12^{10}=1024=11\times93+1 で確かめられます)
  2. 素数13を2つの平方数の和で表しなさい。また、素数7が2つの平方数の和で表せない理由を、4で割った余りを使って説明しなさい。
    答えと解説を見る13=22+3213=2^2+3^2。7は4で割って3余る素数です。平方数は4で割った余りが0か1なので、2つの平方数の和の余りは 0,1,2 のどれかで、3にはなりません。だから、7は表せません。

フェルマーと関係する数学者

公式の一覧は算数・数学の公式一覧(公式辞典)、フェルマーの最終定理が数学の問題として出てくる「3³+4³+5³=6³」の話はプラトン数(12960000)と216の不思議もどうぞ。

16〜17世紀の数学者

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フェルマーがかかわった数学の難問

有名な数学者一覧(年代順・国別・分野別)で、ほかの数学者も見られます。数学者たちが挑んだ問題は数学の難問・未解決問題の一覧にまとめています。

読みもの(合格大作戦の数学の記事)

よくある質問

フェルマーは何をした人ですか?

フェルマーは、17世紀フランスの数学者で、本職は裁判所の役人でした。整数論を近代の学問にし、最終定理・小定理を述べ、パスカルと確率論の基礎を作り、極大極小の方法で微分積分の先がけとなる研究もしました。

フェルマーの最終定理とは何ですか?

nが3以上のとき、xのn乗+yのn乗=zのn乗を満たす自然数x,y,zはない、という定理です。フェルマーが本の余白に書いた予想で、約350年のあいだ証明できませんでしたが、1995年にワイルズが証明しました。

フェルマーの最終定理は誰が証明しましたか?

イギリスの数学者アンドリュー・ワイルズが、1993年に証明を発表し、教え子のテイラーの助けで穴を直して、1995年に論文を出版しました。日本の谷山豊と志村五郎が考えた谷山・志村予想が、証明の鍵になりました。

フェルマーの小定理とは何ですか?

pが素数で、aがpの倍数でない整数のとき、aのp−1乗をpで割った余りが1になるという定理です。a^(p−1)≡1 (mod p) と書きます。大学入試の整数問題で、大きな累乗の余りを求めるときに使います。

フェルマーの最終定理と小定理は同じものですか?

別の定理です。小定理は余りの計算に関する定理で、フェルマーが1640年の手紙に書きました。最終定理は、x^n+y^n=z^n の整数の解に関する予想で、1637年ごろの書きこみです。名前が似ているだけで、中身はちがいます。

フェルマーは本当に最終定理の証明を持っていたのですか?

多くの数学者は、持っていなかった可能性が高いと考えています。ワイルズの証明は20世紀の高度な数学を使っており、フェルマーの時代の道具では難しいと考えられるためです。ただし、確かめる方法はありません。

フェルマーとパスカルの関係は何ですか?

1654年に手紙で確率の問題(点数問題)を論じ、同じ答えにたどり着きました。この手紙のやりとりが、確率論のはじまりとされています。2人は直接会ったことはなかったと伝えられます。

フェルマーの名言は何ですか?

「私はこの定理の驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる」という書きこみが最も有名です。フェルマーが1637年ごろ、ディオファントス『算術』の余白に書いたラテン語のメモを訳したものです。

フェルマーは何歳で亡くなりましたか?

1665年1月12日、フランスのカストルで亡くなりました。生まれた年が1601年説と1607年ごろ説に分かれるため、60歳以上だったとも、50代後半だったとも言われ、はっきりしません。

フェルマーは受験とどう関係しますか?

大学入試では、フェルマーの小定理が整数問題の余りの計算に使われます。確率や場合の数、素数、微分の最大・最小も、フェルマーの研究とつながっています。中学の三平方の定理は、最終定理でn=2の場合です。

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出典・参考

  • Pierre de Fermat, “Œuvres de Fermat”(Tannery・Henry 編、1891〜1922年)
  • J. J. O’Connor and E. F. Robertson, “Pierre de Fermat”, MacTutor History of Mathematics Archive
  • Andrew Wiles, “Modular elliptic curves and Fermat’s Last Theorem”, Annals of Mathematics 141(1995年)
  • Simon Singh, “Fermat’s Last Theorem”(1997年)

最終更新:2026年10月29日/作成:大学受験合格大作戦