ヨハン・ベルヌーイは何をした人?業績・生涯をわかりやすく|最速降下線・ロピタルの定理・オイラーの先生

ヨハン・ベルヌーイは何をした人?業績・生涯をわかりやすく|最速降下線・ロピタルの定理・オイラーの先生

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ヨハン・ベルヌーイJohann Bernoulli

ひとことで言うと

最速降下線の難問で世界の数学者に挑戦し、ロピタルの定理の元になった講義をした人。オイラーの先生でもある。

名前ヨハン・ベルヌーイ(Johann Bernoulli、ジャン・ベルヌーイ、ヨハネス・ベルヌーイとも)
生没年1667年7月27日〜1748年1月1日(80歳)
国スイス(バーゼル生まれ。オランダのフローニンゲン大学、のちバーゼル大学の教授)
分野解析学・変分法・力学
主な業績最速降下線の問題(1696年)、ロピタルの定理のもとになった講義、懸垂線の解、等周問題(変分法のもと)、微積分の普及
名前がつくもの(ロピタルの定理は名前がロピタル)ベルヌーイの積分、最速降下線の問題
よばれ方兄ヤコブと区別して「ヨハン(弟)」。「この時代のアルキメデス」とも

このページのポイント

  • 1696年、最速降下線の問題を出して世界の数学者に挑戦。答えはサイクロイドで、光の屈折の考え方で解いた
  • 貴族のロピタルに微積分を教え、その講義がロピタルの定理の元になった(今ではヨハンの発見と考えられている)
  • オイラーの先生。兄ヤコブ・息子ダニエルとははげしく対立した

ヨハン・ベルヌーイは何をした人?(業績をひとことで)

ヨハン・ベルヌーイ(1667〜1748年)は、スイスのバーゼルで生まれ、オランダとスイスで活躍した数学者です。ドイツのライプニッツの微分積分をいちばん早く、いちばん上手に使いこなした一人で、最速降下線(ブラキストクローン)の問題(1696年)を世界じゅうの数学者に出して有名になりました。フランスの貴族ロピタルに微分積分を教え、その講義が元になって、あの「ロピタルの定理」が世に出たことでも知られます。さらに、あの大数学者オイラーの先生でもあります。

兄のヤコブ・ベルヌーイの大数の法則と業績とは仲が悪く、息子のダニエル・ベルヌーイと流体の法則ともはげしく争いました。「ベルヌーイ」という名前の数学者は何人もいるので、このページではヨハン本人の仕事を整理します。

受験生にとってのヨハンは、ロピタルの定理(0÷0の極限)の使い方の本当の発見者であり、また媒介変数表示で習うサイクロイドという曲線を「最速の道」として世に出した人です。

うかるくん

うかるくん

ロピタルの定理って、ロピタルさんが見つけたんじゃないんですか?

合格先生

合格先生

じつは、教えてもらった先生のヨハンが見つけたものだと考えられているんだ。お金をもらって教える契約をしていたから、ヨハンは長いあいだ黙っていた、と伝えられているよ。くわしくはこのページの中で説明するね。

ヨハン・ベルヌーイの肖像画(1740年ごろ、フーバー画)
70代のヨハン・ベルヌーイ(1740年ごろ、スイスの画家ヨハン・ルドルフ・フーバーがえがいた肖像画)画像:Johann Rudolf Huber(1740年ごろ)/Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

ヨハン・ベルヌーイの生涯と年表

薬屋・商人の道が合わなかった少年

ヨハンは1667年7月27日、スイスのバーゼルで生まれました。ベルヌーイ家は、もとは今のベルギーのアントウェルペンから、宗教の迫害をのがれてきた一家です。ヨハンは10番目の子どもで、12歳年上の兄がヤコブでした。

父は、ヨハンに香辛料の商売をつがせたいと考え、1682年に1年ほど商売の見習いをさせます。ところがヨハンは商売が得意ではありませんでした。父はしぶしぶ、ヨハンが医学を学ぶことを認め、1683年にバーゼル大学に入ります。

兄に教わり、兄に追いつく

このころ、兄ヤコブはライプニッツの微積分の論文を読みこなしつつありました。ヨハンは兄といっしょにこの新しい数学を学び、わずか2年ほどで兄に並ぶ腕前になったといわれます。1694年に出した医学の博士論文のテーマは、なんと筋肉の動きを数学で説明することでした。

パリでロピタルに出会う

1691年、ヨハンはスイスのジュネーヴで微分の講義をしたあと、パリに行き、数学者や哲学者の集まりに入りました。そこで出会ったのが、数学の好きなフランスの貴族、ロピタル侯爵です。ロピタルは「この新しい計算(微積分)を教えてほしい」とヨハンに頼み、パリの屋敷やウッケ(Oucques)の田舎の城で、個人授業が行われました。

フローニンゲン大学の教授へ

1695年、ヨハンはオランダのフローニンゲン大学の数学教授に決まります。ホイヘンスのすすめもあったといわれます。ここで約10年を過ごし、1696年に最速降下線の問題を出して、一躍ヨーロッパじゅうに名を知られました。この時期に妻ドロテアとのあいだに子どもが生まれ、のちに数学者になるダニエルもフローニンゲンで生まれています(1700年)。

バーゼルへ戻り、兄の後任に

1705年、ヨハンは故郷バーゼルから「ギリシャ語の教授の席が空いた」という知らせを受けて家族とともに戻る途中、兄ヤコブが亡くなったことを知ります。ヨハンはヤコブの後任として、バーゼル大学の数学教授になりました。それからは亡くなるまでバーゼルで過ごし、多くの弟子を育てます。そのなかに若きオイラーがいました。1748年1月1日、バーゼルで80歳で亡くなりました。

年できごと
1667年7月27日、スイスのバーゼルで生まれる
1682年香辛料商の見習いをするが、うまくいかない
1683年バーゼル大学に入り、医学を学びながら兄ヤコブと微積分を学ぶ
1691年懸垂線の問題を解く。パリでロピタルに微積分を教えはじめる
1694年医学の博士論文(筋肉の動き)。関数 x^x を研究する
1695年フローニンゲン大学の数学教授になる(オランダ)
1696年6月、最速降下線の問題を世界の数学者に出す。ロピタルが世界初の微積分の教科書を出版
1697年最速降下線の解答が出そろう。兄ヤコブとのあらそいがはげしくなる
1700年息子ダニエルが生まれる
1705年兄ヤコブの死。バーゼル大学の数学教授になる
1712年イギリスの王立協会の会員になる
1718年変分法のもとになる、等周問題の解法を発表
1734年パリ科学アカデミーの賞を、息子ダニエルとともに受ける
1738年ダニエルが『流体力学』を出版。のちヨハンも似た本を出し、先取りをめぐる争いに
1748年1月1日、バーゼルで亡くなる(80歳)

ヨハン・ベルヌーイの主な業績をやさしく解説

業績1 最速降下線の問題(1696年)

1696年6月、ヨハンは学術雑誌で、世界じゅうの数学者に向けてこんな問題を出しました。「高さのちがう2つの点A、Bがある。玉を、重力だけでAからBまでころがすとき、いちばん早く着く道すじはどんな曲線か」。

「いちばん短い道は直線だから、直線がいちばん早い」と思いがちです。ところが、直線はいちばん速くありません。はじめに急な坂を作って速さをつけ、そのあとゆるやかに進んだほうが早く着くからです。たとえば、まっすぐ落ちてから水平に進む道も、直線よりは速くなります。図1は、その3つの道を比べた図です。

最速降下線(ブラキストクローン)ABサイクロイド(最速)直線落ちてから水平いちばん短い道(直線)がいちばん速いとは限らない
AからBへの3つの道。直線(赤)よりも、はじめが急なサイクロイド(青)のほうが早く着く

答えはサイクロイド、つまり円がころがるときに、円のふちの1点がえがく曲線でした。ヨハンの出した問題には、ライプニッツ、兄ヤコブ、ロピタルのほか、イギリスのニュートンの業績と生涯も(名前を伏せて)解答を寄せたと伝えられています。ニュートンの解答だと気づいたヨハンは「爪あとを見ればライオンだとわかる」と言ったとされます。この問題は、のちに変分法(関数の形そのものを選ぶ数学)という新しい分野につながりました。

サイクロイドは、円の半径を rr、転がった角を θ\theta として、

x=r(θ−sin⁡θ),y=r(1−cos⁡θ)x=r(\theta-\sin\theta),\qquad y=r(1-\cos\theta)

と表せます。この書き方が、高校数学Cの媒介変数表示(サイクロイドの式)の代表例です。

かかる時間くらべ直線3.72落ちてから水平3.57サイクロイド3.14円の半径1・重力1 のとき(単位はそろえた値)直線より約15%、サイクロイドのほうが速い
半径1の円がつくるサイクロイドの場合の、かかる時間。直線3.72、落ちてから水平3.57、サイクロイド3.14

図6の数字は、円の半径を1、重力の大きさを1にそろえた場合の計算です。直線を通ると約3.72、まっすぐ落ちてから水平に進むと約3.57、サイクロイドだと約3.14です。サイクロイドはほかの2つよりはっきり速くなります。

業績2 光の屈折を使った、あざやかな解き方

ヨハンの解き方は、とてもユニークでした。数学者フェルマーが見つけた「光は、かかる時間がいちばん短くなる道を進む」という考え(フェルマーの原理)を使ったのです。

玉が落ちるとき、下に行くほど速くなります。そこで、空間をたくさんの層に分け、「下の層ほど光の速さが大きい」と考えます。光は、速さのちがう層のさかいで曲がります(屈折)。層を限りなく細かくすると、光の道すじは玉がいちばん早く落ちる道と同じになります。これを使って、ヨハンは最速降下線がサイクロイドであることを導きました。

光の屈折で解いた(ヨハンの方法)遅い層速い層下ほど速い光は「かかる時間がいちばん短い道」を進む→ 層を細かくすると、最速降下線になる
速さが少しずつ変わる層の中を進む光。曲がるたびに水平に近づき、層を細かくするとサイクロイドになる

さらにヨハンは、サイクロイドが、ホイヘンスが調べた「どこから転がしても、いちばん下に着く時間が同じになる曲線」(等時曲線)と同じものだと気づき、「自然は不思議な一致を用意している」という意味のことを述べたと伝えられます。なお、この解法には細かい欠点があり、のちに兄ヤコブの方法のほうが厳密だったと評価されています。ヨハンはその兄のやり方を、あとから自分のものとして発表した、という批判も残っています。

業績3 ロピタルの定理の本当の発見者

ロピタルの定理は、分数の形の式で分子も分母も0に近づくとき(0÷00\div0 の形)や、どちらも無限に大きくなるときの極限を、分子・分母をそれぞれ微分して求める便利な方法です。

lim⁡x→af(x)g(x)=lim⁡x→af′(x)g′(x)(f(a)=g(a)=0)\lim_{x\to a}\frac{f(x)}{g(x)}=\lim_{x\to a}\frac{f'(x)}{g'(x)}\qquad(f(a)=g(a)=0)
0÷0 の極限を傾きでとくy=sin2x(青)y=xsin2x ÷ x は 0÷0 の形。傾きの比で2cos0 ÷ 1 = 2
sin2x と x はどちらも原点で0。傾きの比 2÷1=2 が、割り算の極限の値になる

たとえば lim⁡x→0sin⁡2xx\displaystyle\lim_{x\to0}\frac{\sin 2x}{x} は 0÷00\div0 の形ですが、分子・分母を微分して lim⁡x→02cos⁡2x1=2\displaystyle\lim_{x\to0}\frac{2\cos2x}{1}=2 とすぐに求まります。

この定理は、ロピタルが1696年に出した、世界初の微積分の教科書『無限小解析』にのっています。ところが、ロピタルは教科書の中で、「ベルヌーイ兄弟、とくに弟のほうの助けを借りた」という意味のことを書いています。のちに(ロピタルが亡くなった1704年のあと)ヨハンは「あれは私の発見だ」と主張しました。1922年にバーゼルで見つかったヨハンの講義の写しが、ロピタルの教科書とほとんど同じ内容だったので、今ではヨハンの考えが元になっていると考えられています。

ヨハンとロピタルのあいだには、「ロピタルは授業料を払い、かわりにヨハンの発見を自由に使ってよい」という契約があったと伝えられます(金額は年に300リーヴルと伝えられます)。ですから「盗んだ」とは言いきれません。ロピタル自身は、教科書の前書きで協力者への感謝を書いています。

業績4 懸垂線の問題を解く(1691年)

両はしをつるした鎖は、どんな形にたれ下がるでしょうか。ガリレオは放物線と考えましたが、それはまちがいでした。1690年に兄ヤコブがこの問題を出し、翌1691年にヨハンがライプニッツやホイヘンスとならんで解きました。答えは、懸垂線(カテナリー)、式で書くと y=ex+e−x2y=\dfrac{e^x+e^{-x}}{2} をもとにした曲線です。

鎖のたれ下がり(懸垂線)青:懸垂線 y=cosh x(解は1691年)灰:放物線(似ているが別の曲線)ガリレオは放物線と考えたが、ちがった
両はしを固定して鎖をたらすと、放物線ではなく、懸垂線(コサイン)の形になる

指数関数の exe^x を使って書けることから、微積分が現実の形を説明できることを、はじめて印象づけた問題の一つです。ヨハンは1694年ごろ、y=xxy=x^x という変わった関数も調べていて、x→+0x\to+0 のとき 1 に近づくことなどを考えたと伝えられます。

業績5 微積分を教え、広めた先生として

ヨハンは「自分で見つける力」と「人に教える力」の両方をもつ人でした。パリでロピタルに、バーゼルでオイラーに、微積分の使い方を伝えました。その教えは、オイラーのような次の世代の数学者たちを経て、ヨーロッパ全体に広がります。微分を使った関数の増減と極値の問題のような、今の高校数学のあつかいも、この時代の教え方が土台になっています。

1718年には、ある長さの曲線のうちで、ある量をいちばん大きく(小さく)するものを探す等周問題を、ライプニッツ流の微積分で解きました。この方法は、のちの変分法の出発点とされています。

ヨハン・ベルヌーイの名前がつく公式・定理・用語

ヨハンの名前がはっきりつくものは多くありませんが、ほかの人の名前になってしまったものがあるのが特徴です。

  • ロピタルの定理:0÷00\div0 の極限を微分で求める定理。名前はロピタルですが、発見はヨハンといわれます。→ ロピタルの定理の使い方と例題
  • 最速降下線(ブラキストクローン):玉が最短時間で落ちる曲線。→ サイクロイド。サイクロイドの媒介変数表示
  • ベルヌーイ(ヨハン)の積分:∫01x−xdx=∑n=1∞n−n\displaystyle\int_0^1 x^{-x}dx=\sum_{n=1}^\infty n^{-n} という式で知られます(1697年)。
  • ヨハン・ベルヌーイの恒等式:積分のとき部分積分を無限に続けて、級数で書く方法。
  • ヨハンの等周問題の解:変分法のもとになった解法。

「ベルヌーイの定理」(流体)は息子ダニエルの仕事、「ベルヌーイの不等式」や大数の法則は兄ヤコブの仕事です。まちがえないようにしましょう。

「ここが大事!」と説明する合格先生

合格先生

0÷00\div0 の形の極限が出たら、ロピタルの定理。入試ではテストでもよく使うよ。ただし、使っていいか(分子分母とも微分できるか)の確認は忘れずにね。

ヨハン・ベルヌーイの逸話と名言

兄をこえたい弟

ヨハンをめぐる人びとヨハンヤコブ(兄)ロピタルオイラーダニエル対立教えた弟子息子兄・弟子・息子と、助け合いと争いの両方があった
ヨハンの兄ヤコブ、教え子のロピタルとオイラー、息子ダニエルとの関係。助け合いと争いの両方があった

ヨハンは、兄ヤコブにあこがれ、それと同時にライバルとして強く意識していたといわれます。兄に数学を教えてもらったのに、やがて兄より先に有名になり、ヨハンのふるまいは兄をいらだたせました。2人は一生のあいだ、ほとんど共同の仕事をしませんでした。歴史家は、2人の関係を「競争が仲たがいに変わった」とまとめています。兄の死後にヨハンが兄の席についたのは、皮肉な結果でした。

息子ダニエルとの争い

ヨハンは息子のダニエルにも、はげしい競争心を見せました。1734年、パリ科学アカデミーの賞を父子が同時に受けたとき、ヨハンは「息子と同じ扱いだった」ことにひどく怒り、ダニエルを家から追い出した、という話が伝わっています(細かい事情は、伝記によって話が少しずつ異なります)。そのうえ、ダニエルが1738年に『流体力学(Hydrodynamica)』を出すと、ヨハンも似た内容の『水力学(Hydraulica)』を出し、本当は後から書いたのに、年号を1732年とさかのぼらせて先に書いたように見せたとされます。MacTutor はこれを「先取権を主張しようとした」ものと説明しています。

この時代のアルキメデス(Archimedes of his age)

ヨハン・ベルヌーイの墓碑にきざまれた言葉(MacTutor History of Mathematics の伝記による)

ニュートンを批判した、ライプニッツ派

1713年、ライプニッツとニュートンのあいだで「微積分を先に考えたのはどちらか」という大げんかが起きたとき、ヨハンはライプニッツの味方をして、ニュートンが解かなかった問題をぶつけて挑発しました。微積分については、ライプニッツ式の書き方(今の教科書の dy/dx の書き方)が正しい道でした。しかし、物理ではニュートンの万有引力を認めず、デカルトの渦動説を守ったので、ヨーロッパ大陸でニュートン力学が受け入れられるのを遅らせたともいわれます。

先生として、手紙の名人として

ヨハンは、生涯にたくさんの手紙を書いた人でもあります。ライプニッツとは長いあいだ手紙をやりとりし、パリの数学者ヴァリニョンとも長く文通しました。いまでは、その手紙が当時の数学者たちの考えを知る大切な資料になっています。ヨハンは、ヨーロッパじゅうの数学者に「この問題が解けるか」と挑戦状を送る名人でもあり、最速降下線のほかにも、あちこちで問題を出して論争をしかけました。その負けずぎらいが、数学を大きく進める力にもなり、人間関係を傷つける原因にもなったのです。

とにかく弟子に恵まれた

ヨハンの教え子には、オイラーの公式とバーゼル問題がいます。オイラーはバーゼル大学で学んでいたころ、ヨハンに頼んで個人的に数学を教えてもらったと、自分の自伝に書いていると伝えられます。ヨハンは若いオイラーの才能にすぐ気づき、オイラーの父に「息子を牧師でなく数学者にさせなさい」と説得した、という話も伝わっています。

サクラちゃん

サクラちゃん

先生なのに、息子さんともけんかしちゃうんですか……。

合格先生

合格先生

そうなんだ。すごい実力と、すごい負けずぎらいが同居していた人だった。数学では大きな成果が出たけれど、家族の関係としてはお手本にしないほうがいいかもしれないね。

受験・勉強とヨハン・ベルヌーイのつながり

中学受験・高校受験:落ちる速さと「近道」の考え方

中学受験や高校受験では、直接ヨハンの名前は出ません。ただ、「いちばん短い道がいちばん速いとは限らない」という考え方は、旅人算や速さのグラフの問題で役に立ちます。道のりが短くても、途中でスピードが落ちれば遅くなる、と考えるのが、速さ・時間・道のりの問題の基本です。

大学受験:ロピタルの定理とサイクロイド

  • ロピタルの定理:学習指導要領には入っていませんが、大学入試の解答で使う人が多く、使っても減点されないことが多いです。ただし使える条件を確認すること、「記述式では、まず別の方法を考える」ことが大切です。→ ロピタルの定理の条件と例題
  • サイクロイド:数学Cの媒介変数表示で、x=a(θ−sin⁡θ)x=a(\theta-\sin\theta)、y=a(1−cos⁡θ)y=a(1-\cos\theta) が登場します。面積や弧の長さの問題でよく出ます。→ 媒介変数表示の公式と問題
  • 極限と微分:lim⁡x→0sin⁡xx=1\displaystyle\lim_{x\to0}\frac{\sin x}{x}=1 などの極限は、ロピタルの定理の確認にもなります。→ 極限とは

京大理系数学の出題分析(極限・微積分の出方)を見ると、極限や微分積分の力が合格にどれだけ関係するかが分かります。

勉強法として:ふつうの考え方を疑う

ヨハンの最速降下線は、「直線がいちばん速いはず」というあたり前を疑った問題でした。問題を解くときも、「いつものやり方でいいのか」「ほかの道はないか」と一度立ち止まる習慣をつけると、思わぬ近道が見つかります。数学の勉強の進め方は数学の勉強法(解法の暗記→演習→過去問)も参考にしてください。

ヨハン・ベルヌーイがその後の数学にあたえた影響

  • 変分法:最速降下線の問題と等周問題から、関数の形そのものを選ぶ数学「変分法」が育ち、オイラーとラグランジュの力学と変分法に受けつがれました。いまの物理学の「最小作用の原理」にもつながっています。
  • 微積分の普及:ロピタルの教科書を通じて、ヨーロッパ大陸に微積分が広まりました。
  • ベルヌーイ家の数学:息子のダニエル、ニコラウス2世、ヨハン2世など、一族から多くの数学者・物理学者が出ました。
  • 現代の技術:最短時間で目的に着く「最適制御」(ロケットの軌道、ロボットの動き、鉄道の設計)は、最速降下線の考え方の子孫です。ジェットコースターの設計やすべり台のしくみにも、サイクロイドの考え方は使われます。

1696年の1つの問題が、数百年のちの技術にまでつながっていることになります。

ヨハン・ベルヌーイに挑戦!練習問題

やさしい

  1. ロピタルの定理を使って、lim⁡x→0sin⁡3xx\displaystyle\lim_{x\to0}\frac{\sin 3x}{x} を求めなさい。
    答えと解説を見る0÷00\div0 の形。分子・分母を微分して lim⁡x→03cos⁡3x1=3\displaystyle\lim_{x\to0}\frac{3\cos3x}{1}=\mathbf{3}。
  2. 高さ5mから玉を静かに落とします。着地するときの速さは何m/sですか。重力加速度を9.8m/s²として答えなさい。
    答えと解説を見る速さは v=2gh=2×9.8×5=98≈9.9v=\sqrt{2gh}=\sqrt{2\times9.8\times5}=\sqrt{98}\approx\mathbf{9.9} m/s。(高いところから落ちるほど速くなる、は最速降下線の出発点です)

ふつう

  1. lim⁡x→01−cos⁡xx2\displaystyle\lim_{x\to0}\frac{1-\cos x}{x^2} を求めなさい。
    答えと解説を見る0÷00\div0 の形。分子・分母を微分して sin⁡x2x\dfrac{\sin x}{2x}。これも 0÷00\div0 なので、もう一度微分して cos⁡x2→12\dfrac{\cos x}{2}\to\mathbf{\dfrac12}。
  2. サイクロイド x=θ−sin⁡θx=\theta-\sin\theta、y=1−cos⁡θy=1-\cos\theta で、θ=π\theta=\pi のときの点の座標を求めなさい。
    答えと解説を見るx=π−sin⁡π=πx=\pi-\sin\pi=\pi、y=1−cos⁡π=1−(−1)=2y=1-\cos\pi=1-(-1)=2。点は (π, 2)(\pi,\ 2)。(これがいちばん高い点です)

むずかしい

  1. lim⁡x→+0xlog⁡x\displaystyle\lim_{x\to+0}x\log x を求めなさい。(ヒント:log⁡x1/x\dfrac{\log x}{1/x} と書き直す)
    答えと解説を見るlog⁡x1/x\dfrac{\log x}{1/x} は −∞+∞\dfrac{-\infty}{+\infty} の形。ロピタルの定理で、分子・分母を微分して 1/x−1/x2=−x→0\dfrac{1/x}{-1/x^2}=-x\to\mathbf{0}。
  2. ヨハンが調べた関数 y=xxy=x^x(x>0x>0)について、x→+0x\to+0 のときの極限を求めなさい。
    答えと解説を見るxx=exlog⁡xx^x=e^{x\log x}。前の問題より xlog⁡x→0x\log x\to0 なので、xx→e0=1x^x\to e^0=\mathbf{1}。

ヨハン・ベルヌーイと関係する数学者

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16〜17世紀の数学者

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読みもの(合格大作戦の数学の記事)

よくある質問

ヨハン・ベルヌーイは何をした人ですか?

ヨハン・ベルヌーイは、17〜18世紀のスイスの数学者です。最速降下線の問題を出して解いたこと、ロピタルに微積分を教えてロピタルの定理の元を作ったこと、オイラーの先生になったことなどで知られます。

最速降下線とは何ですか?

高さのちがう2点のあいだで、玉が重力だけで最短時間で落ちる道すじのことです。答えはサイクロイドという曲線で、直線ではありません。1696年にヨハンが問題を出し、ライプニッツ・ヤコブ・ニュートンらが解きました。

ロピタルの定理は本当にロピタルが見つけたのですか?

ロピタルの教科書(1696年)にのっていますが、元はヨハン・ベルヌーイの発見と考えられています。ロピタルがヨハンに授業料を払う契約をしていたと伝えられ、1922年に見つかったヨハンの講義の写しが、教科書とほぼ同じ内容でした。

ヨハン・ベルヌーイとオイラーの関係は?

ヨハンはバーゼル大学でオイラーに数学を教えた先生です。オイラーは若いころ、ヨハンに個人的に教わったと伝えられます。オイラーはのちに史上最大級の数学者になりました。

ヨハンとヤコブ・ベルヌーイはどんな関係ですか?

ヤコブは12歳上の兄で、ヨハンの最初の数学の先生でした。ヨハンが兄に並ぶ力をつけてからは、功績をめぐって対立しました。ヤコブの死後、ヨハンはバーゼル大学の数学教授の席を引き継ぎました。

ヨハン・ベルヌーイとダニエル・ベルヌーイの関係は?

ダニエルはヨハンの息子で、流体の「ベルヌーイの定理」で知られます。1734年にパリ科学アカデミーの賞を父子でともに受けたこと、ヨハンが似た本の年号を前にしたことなどから、父子の争いが伝えられています。

ヨハン・ベルヌーイは何歳で亡くなりましたか?

1748年1月1日、スイスのバーゼルで80歳で亡くなりました。1667年7月27日の生まれです。

ヨハン・ベルヌーイの墓にきざまれた言葉は?

「この時代のアルキメデス」という意味の言葉が墓碑にあると、数学史の資料に書かれています。ヨハンがそれほど高く評価されていたことを示します。

ヨハン・ベルヌーイは受験にどう関係しますか?

大学入試では、ロピタルの定理を使う極限の問題と、数学Cのサイクロイドの媒介変数表示が出ます。最速降下線の考え方は、極限・微分・媒介変数の理解を深めるよい題材です。

あわせて読みたい

出典・参考

  • J. J. O’Connor, E. F. Robertson, “Johann Bernoulli”, MacTutor History of Mathematics Archive(St Andrews 大学)
  • G. de l’Hôpital, “Analyse des infiniment petits”(1696年)
  • “Johann Bernoulli”, Wikipedia(英語版)
  • 肖像画:Johann Rudolf Huber「Johann Bernoulli」(1740年ごろ)、Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

最終更新:2026年11月3日/作成:大学受験合格大作戦