
定番 教科書によく出る定番の段 第137段
徒然草の第137段、「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは」から始まる段を、全文・現代語訳・文法でいっしょに読みます。前半の花と月の見方から、後半の祭り見物と無常の話まで、省かずに全部読みます。
解説:ミスターT先生(京都大学文学部出身の古文の先生。合格大作戦のキャラクターの合格先生に古典を叩き込んだ師匠)
この段を30秒で(あらすじと要点)
- 兼好の主張:花は満開、月は満月のときだけを見るものではない。咲きそうな梢や散った庭、雲に隠れる月にこそ趣があり、何事も「始め終はりこそをかしけれ」。教養ある人は物事をあっさり味わうが、いなかの人は祭りでも行列だけを夢中で見る。祭りのあと人が去ったさびしさに無常を感じ、死は若い人にも強い人にも思いがけず来るのだから、のんびりしてはいられない、と説く。
- 文法の要点:反語「ものかは」「ことかは」「〜んや」、強意+推量「ぬべし」、係り結び(こそ→已然形・ぞ→連体形・か→連体形)、推定「めり」、婉曲・仮定の「む」、「ぬ」の識別、存続「り」、自発の「る」。
- テストの定番:教科書によく出る段(前半の花と月の部分だけを読む教科書も多い)。書き出しの反語の訳、「咲きぬべきほどの梢」、「始め終はりこそをかしけれ」、「よき人」と「片田舎の人」の対比、古今異義語(色好む・なまめかし・やがて・ありがたし)がよく問われる。



この段で覚える文法(テストに出る順)
- 反語「ものかは」「ことかは」(〜だろうか、いや〜ない)
- 咲きぬべきほど:強意「ぬ」+推量「べし」(今にも〜しそう)
- 主張「始め終はりこそをかしけれ」と係り結び
- よき人と片田舎の人の対比、推定のめり
- 無常観:思ひかけぬは死期なり、古今異義語やがて・ありがたし
「花は盛りに」はどんな段?(兼好の美意識と無常観)
第137段は徒然草の中でも長い段で、大きく二つの部分に分かれます。前半は花と月の見方です。満開の桜や満月だけでなく、咲く前・散ったあと・雨や雲で見えない月にも趣がある、と兼好は言います。目で見るだけでなく、家の中で心に思い浮かべることも大切だ、という考えです。この「盛りよりも、その前後や欠けたものを味わう」見方は、のちの日本の美意識(わび・さびなど)につながるものとしてよく取り上げられます。
中ほどでは、「よき人」(教養ある都の人)と「片田舎の人」を比べます。例として出てくる「祭り」は、京都の賀茂祭(葵祭)です。いなかの人は行列だけを夢中で見ますが、兼好は朝から夕方まで、大通りの人や車の行き来、祭りが終わったあとのさびしさまで見てこそ「祭りを見た」ことになる、と言います。
後半は、祭りのあとのさびしさから、人の死へと話が進みます。都の人は毎日死に、だれも死から逃れられない。穴のあいた器の水、継子立ての石、戦に出る武士などのたとえを重ねて、「思ひかけぬは死期なり」と説きます。花や月の「終わり」を味わう心と、人の命のはかなさを見つめる心は、どちらも兼好の無常観から出ています。
本文と現代語訳・文法(1文ずつ)
色の見方:過去 完了・存続 推量・推定・意志 使役・受身・尊敬 断定 打消 敬語 係りの語 結びの語(色の語にふれると説明が出ます)
1
花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。
現代語訳桜の花は満開のときだけを、月はかげりなく照りわたっているときだけを見るものだろうか、いや、そうではない。
- 「ものかは」は反語(〜ものだろうか、いや〜ない)。この段の主題を示す書き出しで、テストで最もよく問われる一文。→係り結びと疑問・反語の「や・か」
- 「隈なし」は「かげりがない・くもりがない」。「隈なき」で「かげりなく照る月(満月)」のこと。
- 「盛り」は「満開」。「花」は古文ではふつう桜を指す。



出典:西川祐信 画『絵本徒然草(祐信画鑑)』下巻(国立国会図書館デジタルコレクション)
2
雨に向かひて月を恋ひ、垂れこめて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。
現代語訳雨に向かって(見えない)月を恋しく思い、すだれをたらして家にこもり、春が過ぎていくのを知らないでいるのも、やはりしみじみとして趣が深い。
- 「知らぬも」の「ぬ」は、未然形「知ら」についているので打消「ず」の連体形(下に「こと」をおぎなう)。→「ぬ」の識別(完了と打消)
- 「あはれなり」は「しみじみとした趣がある」。心の奥から感じ入る気持ちで、徒然草の大事な言葉。
- 「垂れこむ」は「すだれなどをおろして家にこもる」。見えないもの・見られないものを思うことにも趣がある、という考え。
3
咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見所多けれ。
現代語訳今にも咲きそうなころの(つぼみの)梢や、花が散ってしおれている庭などこそ、見る価値が多い。
- 「ぬべし」は、強意の「ぬ」+推量の「べし」で「今にも〜しそうだ・きっと〜だろう」。→「べし」の意味(推量・当然など)
- 「こそ」を受けて、形容詞「多し」が已然形「多けれ」で結ぶ(係り結び)。→係り結び(こそ→已然形)
- 咲く前と散ったあとを挙げて、「盛り」以外の美しさを示している。


4
歌の詞書にも、「花見にまかれりけるに、はやく散り過ぎにければ。」とも、「障ることありてまからで。」なども書けるは、「花を見て。」と言へるに劣れることかは。
現代語訳和歌の詞書(前書き)にも、「花見に出かけたところ、もうすっかり散ってしまっていたので(詠んだ歌)。」とか、「さしつかえることがあって(花見に)出かけないで(詠んだ歌)。」などと書いてあるのは、「花を見て(詠んだ歌)。」と書いてあるのに劣っているだろうか、いや、劣りはしない。
- 「書ける」「言へる」「劣れる」の「る」は、どれも四段動詞の已然形(e の音)についた存続「り」の連体形。受身の「る」とまちがえない。→「り」の接続(サ未四已)
- 「まからで」の「で」は打消の接続助詞(〜ないで)。「まかる」は「行く・出かける」をへりくだって言う語で、詞書によく使われる。→接続助詞の一覧(ば・ど・で・つつ)
- 文末の「ことかは」も反語。「詞書」は和歌の前につける、歌を詠んだ事情の説明。手元の古い本は「花見に罷りけるに」の形。
5
花の散り、月の傾くを慕ふならひはさることなれど、ことにかたくななる人ぞ、「この枝かの枝散りにけり。今は見所なし。」などは言ふめる。
現代語訳花が散り、月が(西に)傾くのを惜しむ習わしはもっともなことだが、とりわけ情趣を解さない人が、「この枝もあの枝も散ってしまった。今はもう見る価値がない。」などと言うようだ。
- 「かたくななり」は「教養がない・情趣を解さない・がんこだ」。兼好がきらう人のようす。→古今異義語の一覧(かたくななり・あはれ・をかし)
- 「ぞ」を受けて、推定の助動詞「めり」が連体形「める」で結ぶ(係り結び)。「めり」は「(見たところ)〜ようだ」。→推定の助動詞「めり」
- 「さることなれど」は「もっともなことだが」。散るのを惜しむ気持ちは認めつつ、「もう見所がない」と言う人を批判している。
6
よろづのことも、始め終はりこそをかしけれ。
現代語訳どんなことでも、始めと終わりこそおもしろい(趣がある)。
- 「をかし」は「趣がある・おもしろい」。「こそ」を受けて已然形「をかしけれ」で結ぶ。→係り結び(こそ→已然形)
- ここまでの花と月の話を、「始め終はりこそをかしけれ」と一般化してまとめた一文。この段の大事な主張。

7
男女の情けも、ひとへに逢ひ見るをば言ふものかは。
現代語訳男女の恋も、ただ会って結ばれることだけを言うのだろうか、いや、そうではない。
- 「ひとへに」は「ひたすら・ただ」。「逢ひ見る」は「男女が会う・結ばれる」。
- 「ものかは」は反語。花・月と同じように、恋も「盛り(会えたとき)」だけではない、と話を広げる。
8
逢はでやみにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜をひとり明かし、遠き雲居を思ひやり、浅茅が宿に昔をしのぶこそ、色好むとは言はめ。
現代語訳会わないままで終わってしまったつらさを思い、はかなく終わった約束を嘆き、長い夜をひとりで明かし、遠くはなれた空の下にいる人を思いやり、浅茅の生えた荒れた家で昔をなつかしむことこそ、恋の情趣を知っているとは言うのだろう。
- 「やみにし」は完了「ぬ」の連用形+過去「き」の連体形で「〜てしまった」。→完了の助動詞「つ・ぬ」
- 「こそ」を受けて、助動詞「む」が已然形「め」で結ぶ。→助動詞「む(ん)」の意味と活用
- 「色好む」は今の「好色」ではなく「恋の情趣を深く解する」。「あだなり」は「はかない・不誠実だ」、「かこつ」は「嘆く・ぐちを言う」、「浅茅が宿」は「荒れはてた家」。


9
望月の隈なきを千里の外まで眺めたるよりも、暁近くなりて待ち出でたるが、いと心深う青みたるやうにて、深き山の杉の梢に見えたる、木の間の影、うちしぐれたるむら雲隠れのほど、またなくあはれなり。
現代語訳満月がかげりなく照っているのを、はるか遠くまで眺めているよりも、明け方近くになって、待ちに待ってやっと出てきた月が、とても趣深く青みがかったようすで、深い山の杉の梢の上に見えているのや、木々の間からもれる月の光、さっと時雨を降らせた一群の雲に隠れているようすなどは、このうえなくしみじみとした趣がある。
- 「望月」は満月(陰暦十五日の月)。「暁近くなりて待ち出でたる」月は、夜おそくに出る下旬の月(有明の月)。満月と対比している。
- 「心深う」は「心深く」のウ音便。→古文の音便(イ音便・ウ音便)
- 「またなし」は「このうえない」。「むら雲」は「ひとかたまりの雲」、「うちしぐる」は「さっと時雨が降る」。
10
椎柴・白樫などの濡れたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身にしみて、心あらん友もがなと、都恋しう覚ゆれ。
現代語訳椎や白樫などの、濡れたようにつやつやした葉の上に(月の光が)きらきら光っているのこそ、身にしみて、(この趣が)分かる友がいたらなあと、都が恋しく思われる。
- 「もがな」は願望の終助詞(〜があればなあ)。→終助詞の一覧(ばや・なむ・もがな)
- 「心あらん友」の「ん(む)」は、下に名詞「友」があるので婉曲(〜ような)。「心あり」は「情趣を解する」。→「む」の婉曲(下に名詞)
- 「こそ」を受けて、動詞「覚ゆ」が已然形「覚ゆれ」で結ぶ。「覚ゆ」は「(自然に)思われる」。「恋しう」はウ音便。
11
すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨のうちながらも思へるこそ、いと頼もしうをかしけれ。
現代語訳そもそも、月や花を、そうむやみに目だけで見るものだろうか、いや、そうではない。春は家から出かけなくても、月の夜は寝室の中にいたままでも(花や月を)心に思い浮かべているのこそ、とても心ひかれ、趣がある。
- 「ものかは」は反語。この段では三度目。目で見なくても、心で味わうことができる、という主張。
- 「思へるこそ…をかしけれ」:存続「り」の連体形+係り結び(こそ→已然形)。→存続の「り」
- 「さのみ」は「そうむやみに」。「閨(ねや)」は「寝室」。「頼もし」はここでは「期待がもてる・心ひかれる」。
12
よき人は、ひとへに好けるさまにも見えず、興ずるさまもなほざりなり。片田舎の人こそ、色こくよろづはもて興ずれ。
現代語訳教養のある身分の高い人は、いちずに風流を好んでいるようにも見えず、おもしろがるようすもあっさりしている。(ところが)いなかの人に限って、しつこく何でもおもしろがるものだ。
- 「よき人」は「教養のある身分の高い人」。「片田舎の人」と対比されている。
- 「好く」は「風流を好む」。「なほざりなり」はここでは「あっさりしている・さらりとしている」で、ほめる意味。
- 「こそ」を受けて、サ変動詞「もて興ず」が已然形「もて興ずれ」で結ぶ。「色こく」は「しつこく・くどく」。→係り結びの結びの形


13
花の下には、ねぢ寄り立ち寄り、あからめもせずまもりて、酒飲み、連歌して、果ては大きなる枝、心なく折り取りぬ。泉には手足さし浸して、雪には下り立ちて跡つけなど、よろづの物、よそながら見ることなし。
現代語訳(いなかの人は)花の木の下には、体をねじるようにして近寄り、わき目もふらずにじっと見つめて、酒を飲み、連歌をして、しまいには大きな枝を、思いやりもなく折り取ってしまう。泉には手足をつけ、雪には下りて足あとをつけるなど、何でも、離れたところから見るということがない。
- 「折り取りぬ」の「ぬ」は、文末にあるので完了「ぬ」の終止形(〜てしまう)。→「ぬ」の識別(完了と打消)
- 「まもる」は今の「守る」ではなく「じっと見つめる」。「あからめ」は「わき見」。
- 「よそながら」は「離れたままで」。兼好は、物に近づきすぎず、少しはなれて味わうのがよいと考えている。
14
さやうの人の祭り見しさま、いとめづらかなりき。「見ごといと遅し。そのほどは桟敷不用なり。」とて、奥なる屋にて、酒飲み、物食ひ、囲碁・双六など遊びて、桟敷には人を置きたれば、
現代語訳そういう人が祭りを見物していたようすは、たいへん珍しいものだった。「行列(が来るの)はとても遅い。それまでは桟敷はいらない。」と言って、奥にある建物で、酒を飲み、ものを食べ、囲碁や双六などをして遊んで、桟敷には(見張りの)人を置いておいたので、
- 「めづらかなりき」の「き」は過去「き」の終止形。兼好が自分で見たことを書いている。→過去の助動詞「き・けり」の違い
- 「奥なる屋」の「なる」は、場所を表す語についた存在の「なり」(〜にある)。→断定の助動詞「なり」(存在の用法)
- 「祭り」は京都の賀茂祭(葵祭)。「桟敷」は通りに面した見物席、「見ごと」は見もの(ここでは祭りの行列)。
15
「渡り候ふ。」と言ふ時に、おのおの肝つぶるるやうに争ひ走り上りて、落ちぬべきまで簾張り出でて、押し合ひつつ、一事も見漏らさじとまもりて、「とあり、かかり。」と物ごとに言ひて、渡り過ぎぬれば、「また渡らんまで。」と言ひて下りぬ。ただ物をのみ見んとするなるべし。
現代語訳(見張りが)「(行列が)通ります。」と言うと、それぞれが肝がつぶれるほどあわてて、先を争って走って(桟敷に)上り、落ちそうになるほどすだれを外へ押し出して、押し合いながら、一つも見のがすまいとじっと見つめて、「ああだ、こうだ」と一つ一つに言って、(行列が)通り過ぎてしまうと、「また次が通るまで(休もう)」と言って下りてしまった。ただ物を見ることだけをしようとするのであろう。
- 「見漏らさじ」の「じ」は打消意志(〜まい)。「む」の打消にあたる。→助動詞「じ」(打消推量・打消意志)
- 「するなるべし」は、断定「なり」の連体形+推量「べし」で「〜のであろう」。→断定の助動詞「なり」
- 「渡る」は「(祭りの行列が)通る」。「落ちぬべきまで」は「今にも落ちそうなほど」(強意+推量)。

出典:西川祐信 画『絵本徒然草(祐信画鑑)』下巻(国立国会図書館デジタルコレクション)
16
都の人のゆゆしげなるは、眠りて、いとも見ず。若く末々なるは、宮仕へに立ち居、人の後ろにさぶらふは、さまあしくも及びかからず、わりなく見んとする人もなし。
現代語訳都の人で身分が高く立派な人は、居眠りをして、少しも見ない。若くて身分の低い者は、主人の用事で立ったり座ったりし、(主人の)後ろにひかえている者は、みっともなく(人の上に)のしかかって見ることもせず、むりに見ようとする人もいない。
- 「ゆゆしげなり」は「立派なようすだ」。「ゆゆし」は良い意味にも悪い意味にも「程度がはなはだしい」。
- 「いとも〜ず」は「少しも〜ない」。「わりなし」は「むやみだ・道理に合わない」。
- 「さぶらふ」はここでは「(主人のそばに)ひかえる・お仕えする」。都の人のふるまいを、いなかの人と対比している。
17
何となく葵かけ渡してなまめかしきに、明け離れぬほど、忍びて寄する車どものゆかしきを、それか、かれかなど思ひ寄すれば、牛飼・下部などの見知れるもあり。をかしくも、きらきらしくも、さまざまに行き交ふ、見るもつれづれならず。
現代語訳なんとなく葵の葉を一面にかけわたして優雅な感じがするところに、夜がまだ明けきらないうちに、こっそりと(桟敷の前に)寄せてくる牛車の(乗り手が)知りたくて、あれはだれか、これはだれかなどと思いめぐらすと、牛飼いや召使いなどに見覚えのある者もいる。趣深いのも、きらびやかなのも、いろいろに行き交うのは、見ていても退屈しない。
- 「明け離れぬほど」の「ぬ」は、下に名詞「ほど」があるので打消「ず」の連体形(まだ明けきらない)。→「ぬ」の識別(完了と打消)
- 「なまめかし」は今の「色っぽい」ではなく「優雅だ・上品だ」。「ゆかし」は「見たい・知りたい」。→古今異義語の一覧(なまめかし・ゆかし・つれづれ)
- 「つれづれ」は「退屈・手持ちぶさた」。序段「つれづれなるままに」と同じ語。「葵」は葵祭で家や車にかける葵の葉。


18
暮るるほどには、立て並べつる車ども、所なく並みゐつる人も、いづかたへか行きつらん、ほどなくまれになりて、車どものらうがはしさも済みぬれば、簾・畳も取り払ひ、目の前にさびしげになりゆくこそ、世のためしも思ひ知られて、あはれなれ。
現代語訳日が暮れるころには、並べてあった牛車も、すきまなく並んで座っていた人も、どこへ行ってしまったのだろうか、まもなくまばらになって、車の混雑もおさまってしまうと、(桟敷の)すだれや畳も取り払い、目の前でさびしそうになっていくのこそ、世の中のありさま(はかなさ)も自然と思い知られて、しみじみとした思いがする。
- 「か」を受けて、現在推量「らむ」が連体形「らん」で結ぶ。「今ごろ、どこへ行ってしまったのだろう」。→現在推量の助動詞「らむ」
- 「思ひ知られ」の「れ」は自発(自然と〜される)。心の動きを表す動詞につく「る」は自発が多い。→助動詞「る・らる」の4つの意味(自発・可能・受身・尊敬)
- にぎやかな祭りが終わってさびしくなるようすに、世の無常を感じている。「らうがはし」は「ごたごたしている・さわがしい」。


19
大路見たるこそ、祭り見たるにてはあれ。
現代語訳(このように、行列だけでなく)大通りのようすをすべて見てこそ、祭りを見たことになるのだ。
- 「見たるにてはあれ」の「に」は断定「なり」の連用形(〜である)。「にてはあれ」で「〜であるのだ」。→「に」の識別(断定・完了・格助詞)
- 「こそ」を受けて「あれ」(已然形)で結ぶ。始めから終わりまで味わうのが本当の祭り見物だ、という兼好の考え。
20
かの桟敷の前をここら行き交ふ人の、見知れるがあまたあるにて知りぬ、世の人数もさのみは多からぬにこそ。
現代語訳あの桟敷の前を大勢行き来する人の中に、見覚えのある人がたくさんいることで分かった。世の中の人の数も、それほど多くはないのだ(と)。
- 倒置:「知りぬ」のあとに、知った中身(世の人数も〜)が来ている。
- 「多からぬにこそ」は、打消「ず」の連体形+断定「なり」の連用形+係助詞「こそ」。下の「あれ」が省かれている(結びの省略)。→係り結びの省略(にこそ・にや)
- 「ここら」「あまた」は「たくさん」。ここから話は祭りを離れ、人の死へと進む。
21
この人みな失せなん後、わが身死ぬべきに定まりたりとも、ほどなく待ちつけぬべし。
現代語訳この人たちがみな死んでしまったあとで、自分が死ぬ順番に決まっているとしても、(その時は)まもなくやって来るにちがいない。
- 「失せなん後」は、完了(強意)「ぬ」の未然形+婉曲「む」の連体形。下に名詞「後」がある。→「なむ」の識別
- 「失す」は「死ぬ・いなくなる」。「待ちつく」は「待っていたものに出会う」で、ここでは「死の順番が来る」。
- 「〜とも」は「たとえ〜としても」。一番あとに死ぬとしても、その時はすぐ来る、という意味。
22
大きなる器に水を入れて、細き穴をあけたらんに、滴ることすこしといふとも、怠る間なく漏りゆかば、やがて尽きぬべし。
現代語訳大きな入れ物に水を入れて、細い穴をあけたとしたら、したたる量は少しだとしても、休む間もなく漏れていけば、すぐに(水は)なくなってしまうにちがいない。
- 「やがて」は古今異義語で「すぐに・そのまま」。今の「そのうち」ではない。→古今異義語の一覧(やがて・ありがたし)
- 「あけたらんに」の「ん(む)」は仮定(もし〜としたら)。「漏りゆかば」は未然形+ば で「もし漏れていけば」。→接続助詞「ば」(未然形+ば と 已然形+ば)
- 人の命が少しずつ減っていくことを、穴のあいた器の水にたとえている。

23
都の中に多き人、死なざる日はあるべからず。一日に一人二人のみならんや。
現代語訳都の中にいる大勢の人のうち、(だれも)死なない日はあるはずがない。一日に一人や二人だけであろうか、いや、それどころではない。
- 「あるべからず」は「あるはずがない」(当然の打消)。→「べし」の意味と活用
- 「ならんや」は断定「なり」+推量「む」+反語の「や」。「〜だけだろうか、いやそうではない」。→「む」と反語「〜んや」
24
鳥部野・舟岡、さらぬ野山にも、送る数多かる日はあれど、送らぬ日はなし。されば、棺をひさぐ者、作りてうち置くほどなし。
現代語訳鳥部野や舟岡、そのほかの野山にも、(死者を)送る数の多い日はあるが、送らない日はない。だから、棺を売る者は、作って置いておくひまもない。
- 「鳥部野(とりべの)」「舟岡(ふなおか)」は、京都の葬送の地(亡きがらを送る場所)。第7段「あだし野の露」にも鳥部山が出てくる。
- 「さらぬ」は「そうでない・それ以外の」。「ひさぐ」は「売る」。
- 「送らぬ日」の「ぬ」は、下に名詞「日」があるので打消「ず」の連体形。
25
若きにもよらず、強きにもよらず、思ひかけぬは死期なり。今日まで逃れ来にけるは、ありがたき不思議なり。しばしも世をのどかに思ひなんや。
現代語訳若いかどうかにも関係なく、体が強いかどうかにも関係なく、思いがけずやって来るのは死の時である。今日まで(死を)逃れてきたのは、めったにない不思議なことだ。少しの間でも、この世をのんびりしたものと思っていられるだろうか、いや、思ってはいられない。
- 「ありがたし」は「めったにない」(有り難し)。今の「感謝」の意味ではない。→古今異義語の一覧(ありがたし・やがて)
- 「思ひかけぬは死期なり」は、この段の後半の中心の言葉。「死期(しご)」は「死ぬ時」。
- 「思ひなんや」は、強意の「な」+推量「む」+反語の「や」。
26
継子立てといふものを双六の石にて作りて、立て並べたるほどは、取られん事いづれの石とも知らねども、数へ当てて一つを取りぬれば、その外は逃れぬと見れど、またまた数ふれば、かれこれ間抜き行くほどに、いづれも逃れざるに似たり。
現代語訳継子立てというものを双六の石で作って、並べているうちは、どの石が取られるかは分からないけれども、数えて当たった一つを取ってしまうと、ほかの石は(取られずに)逃れたと見えるが、またまた数えていくと、あれこれと間を抜いて取っていくうちに、どの石も逃れられないのと似ている。
- 「逃れぬと見れど」の「ぬ」は、下に「と」があるので終止形→完了(逃れた)。すぐあとの「逃れざる」(打消)と比べよう。→「ぬ」の識別(完了と打消)
- 「取られん」の「れ」は受身(取られる)。→「る・らる」の受身
- 「継子立て(ままこだて)」は、石を輪のように並べ、決まった数ごとに一つずつ取り除いていく遊び。だれもが順に死んでいくことのたとえ。


27
兵の軍に出づるは、死に近きことを知りて、家をも忘れ、身をも忘る。世を背ける草の庵には、しづかに水石をもてあそびて、これをよそに聞くと思へるは、いとはかなし。
現代語訳武士が戦に出るときは、死が近いことを知って、家のことも忘れ、自分の身のことも忘れる。(ところが)世を捨てた人の住む草の庵では、静かに庭の水や石をながめて楽しんで、(死を)自分とは関係のないことと聞いていると思っているのは、たいへんあさはかなことだ。
- 「兵(つはもの)」は「武士」。「世を背く」は「出家する・世を捨てる」。
- 「水石」は「庭の池(泉水)と石」。「よそに聞く」は「自分には関係ないこととして聞く」。
- 「はかなし」は「たよりない・あさはかだ」。武士と世捨て人を対比して、世捨て人の油断を批判している。
28
しづかなる山の奥、無常の敵競ひ来たらざらんや。その死に臨めること、軍の陣に進めるに同じ。
現代語訳静かな山の奥(だからといって)、無常の敵(=死)が先を争ってやって来ないことがあろうか、いや、必ずやって来る。(世を捨てた人も)死に向き合っていることは、戦の陣に進んでいるのと同じである。
- 「来たらざらんや」は反語。「来ないだろうか、いや来る」。打消+反語なので、意味は強い肯定になる。→打消の助動詞「ず」の活用(ざら・ざり・ざる)
- 「無常の敵」は「死」を敵にたとえた言葉。山の奥にいても、死は戦場と同じように近い、という結論。
- 「臨める」「進める」の「る」は存続「り」の連体形。

兼好が心ひかれる花と月を図で見る(盛りより、その前後)

重要な古語(単語帳)
| 古語 | 読み | 意味 |
|---|---|---|
| 盛り | さかり | (花の)満開 |
| 隈なし | くまなし | かげりがない・くもりがない |
| あはれなり | あわれなり | しみじみとした趣がある |
| 見所 | みどころ | 見る価値・見るべきところ |
| かたくななり | かたくななり | 教養がない・情趣を解さない |
| をかし | おかし | 趣がある・おもしろい |
| 色好む | いろごのむ | 恋の情趣を深く解する |
| 望月 | もちづき | 満月 |
| もがな | もがな | 〜があればなあ(願望) |
| よき人 | よきひと | 教養のある身分の高い人 |
| まもる | まもる | じっと見つめる |
| なまめかし | なまめかし | 優雅だ・上品だ |
| ゆかし | ゆかし | 見たい・知りたい |
| やがて | やがて | すぐに・そのまま |
| ありがたし | ありがたし | めったにない |
テストに出る問題(答えは押すと開く)
問1 「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは」を、反語に注意して現代語訳しなさい。
「桜の花は満開のときだけを、月はかげりなく照っているときだけを見るものだろうか、いや、そうではない。」
問2 兼好が「見所多けれ」と言っているのは、どんな梢と庭か。本文から抜き出しなさい。
「咲きぬべきほどの梢」と「散りしをれたる庭」。
問3 「咲きぬべきほど」の「ぬべき」を文法的に説明し、訳しなさい。
強意(完了)の助動詞「ぬ」の終止形+推量の助動詞「べし」の連体形。「今にも咲きそうな」。
問4 「ことにかたくななる人ぞ…言ふめる」の「める」の意味と、活用形が連体形になっている理由は?
推定(〜ようだ)の助動詞「めり」。係助詞「ぞ」の結びなので連体形。
問5 「よろづのことも、始め終はりこそをかしけれ」で、兼好は何を言っているか。
どんな物事も、盛りの時より、始まりと終わりにこそ趣がある、ということ。
問6 「色好む」「なまめかし」「やがて」の意味を答えなさい。
「色好む」=恋の情趣を深く解する、「なまめかし」=優雅だ、「やがて」=すぐに。
問7 「明け離れぬほど」の「ぬ」と、「逃れぬと見れど」の「ぬ」を、それぞれ文法的に説明しなさい。
「明け離れぬほど」は打消「ず」の連体形(下に名詞)。「逃れぬと見れど」は完了「ぬ」の終止形(下に「と」)。
問8 後半で、兼好は人の死を何にたとえているか。二つ答えなさい。
穴のあいた器から漏れていく水、継子立ての石(ほかに、無常の敵・戦の陣も)。

徒然草「花は盛りに」原文(全文・通し)
1文ずつ区切らずに、原文を通して読みたい人・音読したい人のための全文です。
花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。
雨に向かひて月を恋ひ、垂れこめて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。
咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見所多けれ。
歌の詞書にも、「花見にまかれりけるに、はやく散り過ぎにければ。」とも、「障ることありてまからで。」なども書けるは、「花を見て。」と言へるに劣れることかは。
花の散り、月の傾くを慕ふならひはさることなれど、ことにかたくななる人ぞ、「この枝かの枝散りにけり。今は見所なし。」などは言ふめる。
よろづのことも、始め終はりこそをかしけれ。
男女の情けも、ひとへに逢ひ見るをば言ふものかは。
逢はでやみにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜をひとり明かし、遠き雲居を思ひやり、浅茅が宿に昔をしのぶこそ、色好むとは言はめ。
望月の隈なきを千里の外まで眺めたるよりも、暁近くなりて待ち出でたるが、いと心深う青みたるやうにて、深き山の杉の梢に見えたる、木の間の影、うちしぐれたるむら雲隠れのほど、またなくあはれなり。
椎柴・白樫などの濡れたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身にしみて、心あらん友もがなと、都恋しう覚ゆれ。
すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨のうちながらも思へるこそ、いと頼もしうをかしけれ。
よき人は、ひとへに好けるさまにも見えず、興ずるさまもなほざりなり。片田舎の人こそ、色こくよろづはもて興ずれ。
花の下には、ねぢ寄り立ち寄り、あからめもせずまもりて、酒飲み、連歌して、果ては大きなる枝、心なく折り取りぬ。泉には手足さし浸して、雪には下り立ちて跡つけなど、よろづの物、よそながら見ることなし。
さやうの人の祭り見しさま、いとめづらかなりき。「見ごといと遅し。そのほどは桟敷不用なり。」とて、奥なる屋にて、酒飲み、物食ひ、囲碁・双六など遊びて、桟敷には人を置きたれば、
「渡り候ふ。」と言ふ時に、おのおの肝つぶるるやうに争ひ走り上りて、落ちぬべきまで簾張り出でて、押し合ひつつ、一事も見漏らさじとまもりて、「とあり、かかり。」と物ごとに言ひて、渡り過ぎぬれば、「また渡らんまで。」と言ひて下りぬ。ただ物をのみ見んとするなるべし。
都の人のゆゆしげなるは、眠りて、いとも見ず。若く末々なるは、宮仕へに立ち居、人の後ろにさぶらふは、さまあしくも及びかからず、わりなく見んとする人もなし。
何となく葵かけ渡してなまめかしきに、明け離れぬほど、忍びて寄する車どものゆかしきを、それか、かれかなど思ひ寄すれば、牛飼・下部などの見知れるもあり。をかしくも、きらきらしくも、さまざまに行き交ふ、見るもつれづれならず。
暮るるほどには、立て並べつる車ども、所なく並みゐつる人も、いづかたへか行きつらん、ほどなくまれになりて、車どものらうがはしさも済みぬれば、簾・畳も取り払ひ、目の前にさびしげになりゆくこそ、世のためしも思ひ知られて、あはれなれ。
大路見たるこそ、祭り見たるにてはあれ。
かの桟敷の前をここら行き交ふ人の、見知れるがあまたあるにて知りぬ、世の人数もさのみは多からぬにこそ。
この人みな失せなん後、わが身死ぬべきに定まりたりとも、ほどなく待ちつけぬべし。
大きなる器に水を入れて、細き穴をあけたらんに、滴ることすこしといふとも、怠る間なく漏りゆかば、やがて尽きぬべし。
都の中に多き人、死なざる日はあるべからず。一日に一人二人のみならんや。
鳥部野・舟岡、さらぬ野山にも、送る数多かる日はあれど、送らぬ日はなし。されば、棺をひさぐ者、作りてうち置くほどなし。
若きにもよらず、強きにもよらず、思ひかけぬは死期なり。今日まで逃れ来にけるは、ありがたき不思議なり。しばしも世をのどかに思ひなんや。
継子立てといふものを双六の石にて作りて、立て並べたるほどは、取られん事いづれの石とも知らねども、数へ当てて一つを取りぬれば、その外は逃れぬと見れど、またまた数ふれば、かれこれ間抜き行くほどに、いづれも逃れざるに似たり。
兵の軍に出づるは、死に近きことを知りて、家をも忘れ、身をも忘る。世を背ける草の庵には、しづかに水石をもてあそびて、これをよそに聞くと思へるは、いとはかなし。
しづかなる山の奥、無常の敵競ひ来たらざらんや。その死に臨めること、軍の陣に進めるに同じ。
徒然草「花は盛りに」現代語訳(全文・通し)
桜の花は満開のときだけを、月はかげりなく照りわたっているときだけを見るものだろうか、いや、そうではない。
雨に向かって(見えない)月を恋しく思い、すだれをたらして家にこもり、春が過ぎていくのを知らないでいるのも、やはりしみじみとして趣が深い。
今にも咲きそうなころの(つぼみの)梢や、花が散ってしおれている庭などこそ、見る価値が多い。
和歌の詞書(前書き)にも、「花見に出かけたところ、もうすっかり散ってしまっていたので(詠んだ歌)。」とか、「さしつかえることがあって(花見に)出かけないで(詠んだ歌)。」などと書いてあるのは、「花を見て(詠んだ歌)。」と書いてあるのに劣っているだろうか、いや、劣りはしない。
花が散り、月が(西に)傾くのを惜しむ習わしはもっともなことだが、とりわけ情趣を解さない人が、「この枝もあの枝も散ってしまった。今はもう見る価値がない。」などと言うようだ。
どんなことでも、始めと終わりこそおもしろい(趣がある)。
男女の恋も、ただ会って結ばれることだけを言うのだろうか、いや、そうではない。
会わないままで終わってしまったつらさを思い、はかなく終わった約束を嘆き、長い夜をひとりで明かし、遠くはなれた空の下にいる人を思いやり、浅茅の生えた荒れた家で昔をなつかしむことこそ、恋の情趣を知っているとは言うのだろう。
満月がかげりなく照っているのを、はるか遠くまで眺めているよりも、明け方近くになって、待ちに待ってやっと出てきた月が、とても趣深く青みがかったようすで、深い山の杉の梢の上に見えているのや、木々の間からもれる月の光、さっと時雨を降らせた一群の雲に隠れているようすなどは、このうえなくしみじみとした趣がある。
椎や白樫などの、濡れたようにつやつやした葉の上に(月の光が)きらきら光っているのこそ、身にしみて、(この趣が)分かる友がいたらなあと、都が恋しく思われる。
そもそも、月や花を、そうむやみに目だけで見るものだろうか、いや、そうではない。春は家から出かけなくても、月の夜は寝室の中にいたままでも(花や月を)心に思い浮かべているのこそ、とても心ひかれ、趣がある。
教養のある身分の高い人は、いちずに風流を好んでいるようにも見えず、おもしろがるようすもあっさりしている。(ところが)いなかの人に限って、しつこく何でもおもしろがるものだ。
(いなかの人は)花の木の下には、体をねじるようにして近寄り、わき目もふらずにじっと見つめて、酒を飲み、連歌をして、しまいには大きな枝を、思いやりもなく折り取ってしまう。泉には手足をつけ、雪には下りて足あとをつけるなど、何でも、離れたところから見るということがない。
そういう人が祭りを見物していたようすは、たいへん珍しいものだった。「行列(が来るの)はとても遅い。それまでは桟敷はいらない。」と言って、奥にある建物で、酒を飲み、ものを食べ、囲碁や双六などをして遊んで、桟敷には(見張りの)人を置いておいたので、
(見張りが)「(行列が)通ります。」と言うと、それぞれが肝がつぶれるほどあわてて、先を争って走って(桟敷に)上り、落ちそうになるほどすだれを外へ押し出して、押し合いながら、一つも見のがすまいとじっと見つめて、「ああだ、こうだ」と一つ一つに言って、(行列が)通り過ぎてしまうと、「また次が通るまで(休もう)」と言って下りてしまった。ただ物を見ることだけをしようとするのであろう。
都の人で身分が高く立派な人は、居眠りをして、少しも見ない。若くて身分の低い者は、主人の用事で立ったり座ったりし、(主人の)後ろにひかえている者は、みっともなく(人の上に)のしかかって見ることもせず、むりに見ようとする人もいない。
なんとなく葵の葉を一面にかけわたして優雅な感じがするところに、夜がまだ明けきらないうちに、こっそりと(桟敷の前に)寄せてくる牛車の(乗り手が)知りたくて、あれはだれか、これはだれかなどと思いめぐらすと、牛飼いや召使いなどに見覚えのある者もいる。趣深いのも、きらびやかなのも、いろいろに行き交うのは、見ていても退屈しない。
日が暮れるころには、並べてあった牛車も、すきまなく並んで座っていた人も、どこへ行ってしまったのだろうか、まもなくまばらになって、車の混雑もおさまってしまうと、(桟敷の)すだれや畳も取り払い、目の前でさびしそうになっていくのこそ、世の中のありさま(はかなさ)も自然と思い知られて、しみじみとした思いがする。
(このように、行列だけでなく)大通りのようすをすべて見てこそ、祭りを見たことになるのだ。
あの桟敷の前を大勢行き来する人の中に、見覚えのある人がたくさんいることで分かった。世の中の人の数も、それほど多くはないのだ(と)。
この人たちがみな死んでしまったあとで、自分が死ぬ順番に決まっているとしても、(その時は)まもなくやって来るにちがいない。
大きな入れ物に水を入れて、細い穴をあけたとしたら、したたる量は少しだとしても、休む間もなく漏れていけば、すぐに(水は)なくなってしまうにちがいない。
都の中にいる大勢の人のうち、(だれも)死なない日はあるはずがない。一日に一人や二人だけであろうか、いや、それどころではない。
鳥部野や舟岡、そのほかの野山にも、(死者を)送る数の多い日はあるが、送らない日はない。だから、棺を売る者は、作って置いておくひまもない。
若いかどうかにも関係なく、体が強いかどうかにも関係なく、思いがけずやって来るのは死の時である。今日まで(死を)逃れてきたのは、めったにない不思議なことだ。少しの間でも、この世をのんびりしたものと思っていられるだろうか、いや、思ってはいられない。
継子立てというものを双六の石で作って、並べているうちは、どの石が取られるかは分からないけれども、数えて当たった一つを取ってしまうと、ほかの石は(取られずに)逃れたと見えるが、またまた数えていくと、あれこれと間を抜いて取っていくうちに、どの石も逃れられないのと似ている。
武士が戦に出るときは、死が近いことを知って、家のことも忘れ、自分の身のことも忘れる。(ところが)世を捨てた人の住む草の庵では、静かに庭の水や石をながめて楽しんで、(死を)自分とは関係のないことと聞いていると思っているのは、たいへんあさはかなことだ。
静かな山の奥(だからといって)、無常の敵(=死)が先を争ってやって来ないことがあろうか、いや、必ずやって来る。(世を捨てた人も)死に向き合っていることは、戦の陣に進んでいるのと同じである。
徒然草「花は盛りに」原文と現代語訳の印刷用ページ(A4・左右に並べて)
よくある質問(徒然草の基本)
徒然草の作者は誰?
兼好法師(吉田兼好・卜部兼好)です。もとは朝廷に仕えた役人で、のちに出家しました。歌人としても知られます。
徒然草はいつの作品?
鎌倉時代の終わりごろ、1330年ごろにまとめられたとする説が有力ですが、諸説あります。
徒然草の冒頭(書き出し)は?
序段の「つれづれなるままに、日暮らし、硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」です。
徒然草はどんな作品?
序段と243の段からなる随筆で、清少納言『枕草子』、鴨長明『方丈記』と並ぶ三大随筆の一つです。無常観(すべては移り変わるという考え)、人の生き方、季節の趣、おもしろい失敗談など、話題はさまざまです。
徒然草の目次(教科書に出る段)
徒然草の入口(教科書に出る段の一覧・作者兼好法師と無常観) 「定番」は教科書によく出る段です。
- 徒然草「つれづれなるままに」(序段)の原文・現代語訳 定番
- 徒然草「いでや、この世に生まれては」(第1段)の原文・現代語訳
- 徒然草「あだし野の露消ゆる時なく」(第7段)の原文・現代語訳 定番
- 徒然草「家居のつきづきしく」(第10段)の原文・現代語訳
- 徒然草「神無月のころ」(第11段)の原文・現代語訳 定番
- 徒然草「人は己をつづまやかにし」(第18段)の原文・現代語訳
- 徒然草「折節の移り変はるこそ」(第19段)の原文・現代語訳 定番
- 徒然草「九月二十日のころ」(第32段)の原文・現代語訳 定番
- 徒然草「五月五日、賀茂の競べ馬を」(第41段)の原文・現代語訳
- 徒然草「公世の二位のせうとに」(第45段)の原文・現代語訳 定番
- 徒然草「亀山殿の御池に」(第51段)の原文・現代語訳
- 徒然草「仁和寺にある法師」(第52段)の原文・現代語訳 定番
- 徒然草「これも仁和寺の法師」(第53段)の原文・現代語訳 定番
- 徒然草「真乗院に、盛親僧都とて」(第60段)の原文・現代語訳
- 徒然草「筑紫に、なにがしの押領使」(第68段)の原文・現代語訳 定番
- 徒然草「名を聞くより」(第71段)の原文・現代語訳
- 徒然草「世に語り伝ふること」(第73段)の原文・現代語訳
- 徒然草「人の心すなほならねば」(第85段)の原文・現代語訳
- 徒然草「奥山に、猫またといふもの」(第89段)の原文・現代語訳 定番
- 徒然草「ある人、弓射ることを習ふに」(第92段)の原文・現代語訳 定番
- 徒然草「荒れたる宿の」(第104段)の原文・現代語訳
- 徒然草「高名の木登り」(第109段)の原文・現代語訳 定番
- 徒然草「友とするにわろき者」(第117段)の原文・現代語訳
- 花は盛りに(第137段・このページ) 定番
- 徒然草「能をつかんとする人」(第150段)の原文・現代語訳 定番
- 徒然草「世に従はん人は」(第155段)の原文・現代語訳
- 徒然草「相模守時頼の母は」(第184段)の原文・現代語訳
- 徒然草「一事を必ずなさんと思はば」(第188段)の意味と現代語訳 定番
- 徒然草「平宣時朝臣」(第215段)の原文・現代語訳
- 徒然草「丹波に出雲といふ所あり」(第236段)の原文・現代語訳 定番
- 徒然草「八つになりし年」(第243段)の原文・現代語訳 定番

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- 係り結びとは?ぞ・なむ・や・か・こそと結びの形
- 古文の敬語の種類(尊敬語・謙譲語・丁寧語)
- 徒然草「一事を必ずなさんと思はば」(第188段)の意味と現代語訳
- 枕草子の原文と現代語訳(教科書に出る段の一覧・三大随筆)
- 竹取物語の全文と現代語訳(全10章・文法解説つき)
- 国語の勉強まとめ(古文・漢文・漢字・百人一首)
本文は『徒然草』を、教科書で広く読まれる形にそろえ、新字体・歴史的仮名遣いに直したものです(参考にした古い本:Wikisource の徒然草、大正の『校註日本文學大系』)。徒然草は本によって語句が少しずつちがいます。段の番号は広く使われている番号(序段と第1〜243段)です。現代語訳・解説・問題・図は合格大作戦のオリジナルです。挿絵は著作権の切れた古い絵です(それぞれの絵の下に出典)。文法の用語は合格大作戦の古文文法辞典に合わせています。


