原文は教科書で広く読まれる形に整えたもの(本によって語句が少しちがいます)、現代語訳は合格大作戦のオリジナルです。
| 原文 | 現代語訳 | |
|---|---|---|
| 1 | 花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。 | 桜の花は満開のときだけを、月はかげりなく照りわたっているときだけを見るものだろうか、いや、そうではない。 |
| 2 | 雨に向かひて月を恋ひ、垂れこめて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。 | 雨に向かって(見えない)月を恋しく思い、すだれをたらして家にこもり、春が過ぎていくのを知らないでいるのも、やはりしみじみとして趣が深い。 |
| 3 | 咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見所多けれ。 | 今にも咲きそうなころの(つぼみの)梢や、花が散ってしおれている庭などこそ、見る価値が多い。 |
| 4 | 歌の詞書にも、「花見にまかれりけるに、はやく散り過ぎにければ。」とも、「障ることありてまからで。」なども書けるは、「花を見て。」と言へるに劣れることかは。 | 和歌の詞書(前書き)にも、「花見に出かけたところ、もうすっかり散ってしまっていたので(詠んだ歌)。」とか、「さしつかえることがあって(花見に)出かけないで(詠んだ歌)。」などと書いてあるのは、「花を見て(詠んだ歌)。」と書いてあるのに劣っているだろうか、いや、劣りはしない。 |
| 5 | 花の散り、月の傾くを慕ふならひはさることなれど、ことにかたくななる人ぞ、「この枝かの枝散りにけり。今は見所なし。」などは言ふめる。 | 花が散り、月が(西に)傾くのを惜しむ習わしはもっともなことだが、とりわけ情趣を解さない人が、「この枝もあの枝も散ってしまった。今はもう見る価値がない。」などと言うようだ。 |
| 6 | よろづのことも、始め終はりこそをかしけれ。 | どんなことでも、始めと終わりこそおもしろい(趣がある)。 |
| 7 | 男女の情けも、ひとへに逢ひ見るをば言ふものかは。 | 男女の恋も、ただ会って結ばれることだけを言うのだろうか、いや、そうではない。 |
| 8 | 逢はでやみにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜をひとり明かし、遠き雲居を思ひやり、浅茅が宿に昔をしのぶこそ、色好むとは言はめ。 | 会わないままで終わってしまったつらさを思い、はかなく終わった約束を嘆き、長い夜をひとりで明かし、遠くはなれた空の下にいる人を思いやり、浅茅の生えた荒れた家で昔をなつかしむことこそ、恋の情趣を知っているとは言うのだろう。 |
| 9 | 望月の隈なきを千里の外まで眺めたるよりも、暁近くなりて待ち出でたるが、いと心深う青みたるやうにて、深き山の杉の梢に見えたる、木の間の影、うちしぐれたるむら雲隠れのほど、またなくあはれなり。 | 満月がかげりなく照っているのを、はるか遠くまで眺めているよりも、明け方近くになって、待ちに待ってやっと出てきた月が、とても趣深く青みがかったようすで、深い山の杉の梢の上に見えているのや、木々の間からもれる月の光、さっと時雨を降らせた一群の雲に隠れているようすなどは、このうえなくしみじみとした趣がある。 |
| 10 | 椎柴・白樫などの濡れたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身にしみて、心あらん友もがなと、都恋しう覚ゆれ。 | 椎や白樫などの、濡れたようにつやつやした葉の上に(月の光が)きらきら光っているのこそ、身にしみて、(この趣が)分かる友がいたらなあと、都が恋しく思われる。 |
| 11 | すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨のうちながらも思へるこそ、いと頼もしうをかしけれ。 | そもそも、月や花を、そうむやみに目だけで見るものだろうか、いや、そうではない。春は家から出かけなくても、月の夜は寝室の中にいたままでも(花や月を)心に思い浮かべているのこそ、とても心ひかれ、趣がある。 |
| 12 | よき人は、ひとへに好けるさまにも見えず、興ずるさまもなほざりなり。片田舎の人こそ、色こくよろづはもて興ずれ。 | 教養のある身分の高い人は、いちずに風流を好んでいるようにも見えず、おもしろがるようすもあっさりしている。(ところが)いなかの人に限って、しつこく何でもおもしろがるものだ。 |
| 13 | 花の下には、ねぢ寄り立ち寄り、あからめもせずまもりて、酒飲み、連歌して、果ては大きなる枝、心なく折り取りぬ。泉には手足さし浸して、雪には下り立ちて跡つけなど、よろづの物、よそながら見ることなし。 | (いなかの人は)花の木の下には、体をねじるようにして近寄り、わき目もふらずにじっと見つめて、酒を飲み、連歌をして、しまいには大きな枝を、思いやりもなく折り取ってしまう。泉には手足をつけ、雪には下りて足あとをつけるなど、何でも、離れたところから見るということがない。 |
| 14 | さやうの人の祭り見しさま、いとめづらかなりき。「見ごといと遅し。そのほどは桟敷不用なり。」とて、奥なる屋にて、酒飲み、物食ひ、囲碁・双六など遊びて、桟敷には人を置きたれば、 | そういう人が祭りを見物していたようすは、たいへん珍しいものだった。「行列(が来るの)はとても遅い。それまでは桟敷はいらない。」と言って、奥にある建物で、酒を飲み、ものを食べ、囲碁や双六などをして遊んで、桟敷には(見張りの)人を置いておいたので、 |
| 15 | 「渡り候ふ。」と言ふ時に、おのおの肝つぶるるやうに争ひ走り上りて、落ちぬべきまで簾張り出でて、押し合ひつつ、一事も見漏らさじとまもりて、「とあり、かかり。」と物ごとに言ひて、渡り過ぎぬれば、「また渡らんまで。」と言ひて下りぬ。ただ物をのみ見んとするなるべし。 | (見張りが)「(行列が)通ります。」と言うと、それぞれが肝がつぶれるほどあわてて、先を争って走って(桟敷に)上り、落ちそうになるほどすだれを外へ押し出して、押し合いながら、一つも見のがすまいとじっと見つめて、「ああだ、こうだ」と一つ一つに言って、(行列が)通り過ぎてしまうと、「また次が通るまで(休もう)」と言って下りてしまった。ただ物を見ることだけをしようとするのであろう。 |
| 16 | 都の人のゆゆしげなるは、眠りて、いとも見ず。若く末々なるは、宮仕へに立ち居、人の後ろにさぶらふは、さまあしくも及びかからず、わりなく見んとする人もなし。 | 都の人で身分が高く立派な人は、居眠りをして、少しも見ない。若くて身分の低い者は、主人の用事で立ったり座ったりし、(主人の)後ろにひかえている者は、みっともなく(人の上に)のしかかって見ることもせず、むりに見ようとする人もいない。 |
| 17 | 何となく葵かけ渡してなまめかしきに、明け離れぬほど、忍びて寄する車どものゆかしきを、それか、かれかなど思ひ寄すれば、牛飼・下部などの見知れるもあり。をかしくも、きらきらしくも、さまざまに行き交ふ、見るもつれづれならず。 | なんとなく葵の葉を一面にかけわたして優雅な感じがするところに、夜がまだ明けきらないうちに、こっそりと(桟敷の前に)寄せてくる牛車の(乗り手が)知りたくて、あれはだれか、これはだれかなどと思いめぐらすと、牛飼いや召使いなどに見覚えのある者もいる。趣深いのも、きらびやかなのも、いろいろに行き交うのは、見ていても退屈しない。 |
| 18 | 暮るるほどには、立て並べつる車ども、所なく並みゐつる人も、いづかたへか行きつらん、ほどなくまれになりて、車どものらうがはしさも済みぬれば、簾・畳も取り払ひ、目の前にさびしげになりゆくこそ、世のためしも思ひ知られて、あはれなれ。 | 日が暮れるころには、並べてあった牛車も、すきまなく並んで座っていた人も、どこへ行ってしまったのだろうか、まもなくまばらになって、車の混雑もおさまってしまうと、(桟敷の)すだれや畳も取り払い、目の前でさびしそうになっていくのこそ、世の中のありさま(はかなさ)も自然と思い知られて、しみじみとした思いがする。 |
| 19 | 大路見たるこそ、祭り見たるにてはあれ。 | (このように、行列だけでなく)大通りのようすをすべて見てこそ、祭りを見たことになるのだ。 |
| 20 | かの桟敷の前をここら行き交ふ人の、見知れるがあまたあるにて知りぬ、世の人数もさのみは多からぬにこそ。 | あの桟敷の前を大勢行き来する人の中に、見覚えのある人がたくさんいることで分かった。世の中の人の数も、それほど多くはないのだ(と)。 |
| 21 | この人みな失せなん後、わが身死ぬべきに定まりたりとも、ほどなく待ちつけぬべし。 | この人たちがみな死んでしまったあとで、自分が死ぬ順番に決まっているとしても、(その時は)まもなくやって来るにちがいない。 |
| 22 | 大きなる器に水を入れて、細き穴をあけたらんに、滴ることすこしといふとも、怠る間なく漏りゆかば、やがて尽きぬべし。 | 大きな入れ物に水を入れて、細い穴をあけたとしたら、したたる量は少しだとしても、休む間もなく漏れていけば、すぐに(水は)なくなってしまうにちがいない。 |
| 23 | 都の中に多き人、死なざる日はあるべからず。一日に一人二人のみならんや。 | 都の中にいる大勢の人のうち、(だれも)死なない日はあるはずがない。一日に一人や二人だけであろうか、いや、それどころではない。 |
| 24 | 鳥部野・舟岡、さらぬ野山にも、送る数多かる日はあれど、送らぬ日はなし。されば、棺をひさぐ者、作りてうち置くほどなし。 | 鳥部野や舟岡、そのほかの野山にも、(死者を)送る数の多い日はあるが、送らない日はない。だから、棺を売る者は、作って置いておくひまもない。 |
| 25 | 若きにもよらず、強きにもよらず、思ひかけぬは死期なり。今日まで逃れ来にけるは、ありがたき不思議なり。しばしも世をのどかに思ひなんや。 | 若いかどうかにも関係なく、体が強いかどうかにも関係なく、思いがけずやって来るのは死の時である。今日まで(死を)逃れてきたのは、めったにない不思議なことだ。少しの間でも、この世をのんびりしたものと思っていられるだろうか、いや、思ってはいられない。 |
| 26 | 継子立てといふものを双六の石にて作りて、立て並べたるほどは、取られん事いづれの石とも知らねども、数へ当てて一つを取りぬれば、その外は逃れぬと見れど、またまた数ふれば、かれこれ間抜き行くほどに、いづれも逃れざるに似たり。 | 継子立てというものを双六の石で作って、並べているうちは、どの石が取られるかは分からないけれども、数えて当たった一つを取ってしまうと、ほかの石は(取られずに)逃れたと見えるが、またまた数えていくと、あれこれと間を抜いて取っていくうちに、どの石も逃れられないのと似ている。 |
| 27 | 兵の軍に出づるは、死に近きことを知りて、家をも忘れ、身をも忘る。世を背ける草の庵には、しづかに水石をもてあそびて、これをよそに聞くと思へるは、いとはかなし。 | 武士が戦に出るときは、死が近いことを知って、家のことも忘れ、自分の身のことも忘れる。(ところが)世を捨てた人の住む草の庵では、静かに庭の水や石をながめて楽しんで、(死を)自分とは関係のないことと聞いていると思っているのは、たいへんあさはかなことだ。 |
| 28 | しづかなる山の奥、無常の敵競ひ来たらざらんや。その死に臨めること、軍の陣に進めるに同じ。 | 静かな山の奥(だからといって)、無常の敵(=死)が先を争ってやって来ないことがあろうか、いや、必ずやって来る。(世を捨てた人も)死に向き合っていることは、戦の陣に進んでいるのと同じである。 |


