久留島義太は何をした人?業績・生涯・逸話をわかりやすく|和算・行列式・立方陣・ペル方程式

久留島義太は何をした人?業績・生涯・逸話をわかりやすく|和算・行列式・立方陣・ペル方程式

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久留島義太Yoshihiro Kurushima

ひとことで言うと

江戸中期の和算家で、通称久留島喜内。行列式の展開・立方陣・整数の方程式・円弧の級数を研究。酒を愛し、自分ではほとんど本を書かなかったと伝えられる。

名前久留島義太(くるしま よしひろ。Kurushima Yoshihiro)。通称は喜内、号は沾数(扇数)
生没年1690年ごろ(推定)〜1758年1月8日(宝暦7年11月29日)。没年は資料で「1757年」と書かれることもある
国日本(江戸時代。備中国の出身。のち江戸・磐城平・延岡で活動)
分野和算(行列式・方陣・整数・円理)。詰将棋の作家としても有名
主な業績行列式の展開(ラプラス展開にあたる考え方)、立方陣、ペル方程式の研究、オイラー関数にあたる考え、円弧の級数(久氏弧背術)、虫食算の紹介、詰将棋
名前がつくもの久氏弧背術・久氏三百解・久氏遺稿(弟子がまとめた書物の名)
よばれ方久留島喜内(きない)

このページのポイント

  • 関孝和の行列式のまちがいを正し、現代のラプラス展開(余因子展開)にあたる正しい展開を導いたとされる
  • 魔方陣を3次元にした立方陣(4本の立体対角線も合うもの)を、はじめて作ったとされる
  • 本はほとんど書かず、弟子の山路主住や親友の松永良弼が業績を書きとめた。酒好きで地位や名誉に無頓着だったと伝えられる

久留島義太は何をした人?(業績をひとことで)

久留島義太(くるしま よしひろ、1690年ごろ〜1758年)は、江戸時代中ごろの和算家(日本独自に発展した数学「和算」の学者)です。通称は喜内(きない)で、「久留島喜内」の名でも知られます。行列式の展開、立方陣(魔方陣を立体にしたもの)、整数の問題(ペル方程式・オイラー関数にあたる考え)、円周や円弧の長さの級数など、のちの西洋数学に通じる内容を研究した、と伝えられます。

ただし久留島義太は、自分では本をほとんど書かなかった人です。業績の多くは、弟子の山路主住(やまじ ぬしずみ)や親友の松永良弼(まつなが よしすけ)が書きとめた原稿から分かります。しかも酒が大好きで、地位や名誉にはまるで無頓着だったと伝えられます。「天才なのに本を残さなかった数学者」という、とてもめずらしい人物です。

大学受験では、久留島義太の名前は出ません。けれど、行列式の計算と性質(余因子展開)、オイラー関数とオイラーの定理、虫食算・覆面算の解き方など、久留島義太が考えたことと重なる内容は、中学受験から大学受験まで広く出ます。江戸時代の日本に、こんな数学者がいたのです。

うかるくん

うかるくん

本を書かなかった数学者って、どうして今に名前が残ったんですか?

合格先生

合格先生

弟子と友人が、先生の発見を書きとめて残したからだよ。久留島義太は、思いついたことを紙に書き散らして、それをまとめる気はあまりなかったと伝えられているんだ。

久留島義太の生涯と年表

生まれは備中国:浪人の子として

久留島義太は、備中国(今の岡山県)に生まれたとされます。もとの姓は村上、通称は喜内、号は沾数(せんすう、扇数とも書く)です。父の村上義寄は、備中松山藩の水谷家につかえた武士でしたが、水谷家が取りつぶされて、父子ともに浪人(主君を失った武士)になりました。このとき、姓を久留島に改めたと伝えられます。

生まれた年は、はっきり分かっていません。「1690年ごろ」とされることが多く、没年から逆算した推定です。資料によっては、もっと早い年をあげるものもあります。

江戸で『塵劫記』を手に入れて独学

久留島義太には決まった師がなく、独学で和算を身につけたといわれます。江戸に出たとき、露店で『塵劫記』(じんこうき、江戸時代の大ベストセラーの算術書)を手に入れ、それをもとに算法を教えはじめた、と伝えられます。

中根元圭との対決と後援

当時、江戸には中根元圭(なかね げんけい)という、関孝和の流れをくむ有名な数学者・暦学者がいました。久留島義太は、中根元圭と数学の問題で勝負をしたとされます(いわゆる「道場破り」のようなものと伝えられます)。中根元圭は、その並はずれた才能を認めて、後援者になりました。これをきっかけに、久留島義太は関孝和に始まる関流の和算をきわめていきます。

磐城平藩につかえる:1730年

1730年(享保15年)、久留島義太は陸奥国磐城平藩(今の福島県いわき市)の藩主、内藤政樹(ないとう まさき)に召しかかえられました。それから3年後、久留島義太は、親友の松永良弼を藩主に推薦しています。松永良弼は、のちに「関流の大家」とよばれる和算家で、2人は同じ藩の同僚になりました。

1747年(延享4年)、内藤家が日向国延岡(今の宮崎県延岡市)に国替え(移封)になり、久留島義太も延岡へ赴任して、約6年間を過ごしたとされます。

晩年:弟子の山路主住と、亡くなった日

江戸にもどった久留島義太は、弟子の山路主住らを指導しました。親友の松永良弼が亡くなると、研究の刺激を失ったのか、その後の新しい業績は確認されていない、といわれます。

亡くなったのは、宝暦7年11月29日です。和暦と西暦は年のはじまりがずれるため、この日は西暦では1758年1月8日にあたります(「宝暦7年=1757年」と書かれた資料と、「1758年」と書かれた資料があるのは、このためです)。68歳ごろだったとされます。

年できごと
1627年吉田光由『塵劫記』が出版される(久留島義太が江戸で手に入れたとされる本)
1690年ごろ久留島義太が備中国で生まれたとされる(推定)
1708年関孝和が亡くなる(久留島義太が十代後半のころ)
1730年磐城平藩主・内藤政樹につかえる(享保15年)
1733年ごろ親友の松永良弼を、内藤政樹に推薦する
1747年内藤家が延岡に国替え。久留島義太も延岡へ赴任(約6年)
1758年1月8日宝暦7年11月29日、江戸で亡くなる(68歳ごろ)
1763年オイラーが、のちに「オイラーのφ関数」とよばれるものを論文で発表(久留島義太の没後)
江戸後期弟子たちが『久氏弧背術』『久氏三百解』『久氏遺稿』などに業績をまとめる

久留島義太の主な業績をやさしく解説

業績1 行列式の展開:関孝和の式を正しくした

連立方程式から未知数を消していくと、最後に残る式が行列式です。関孝和は、1683年の『解伏題之法』で、行列式の考え方(交式斜乗)を使いました。ところが、関孝和の行列式のやり方には、文字の数が多いと符号をまちがえるところがありました。

久留島義太は、このまちがいを正し、のちの『大成算経』『算法発揮』とは異なる正しい展開の仕方を導いた、とされます。それが、現代の数学でいうラプラス展開(余因子展開)にあたる考え方でした。1行目の数をひとつずつ取り出して、のこりの小さな行列式にかけ、符号を+、−、+…と交互につけて足す方法です。

行列式を1行目で展開する213041102+ 2 × |4 1/0 2|= 2 × 8 = 16− 1 × |0 1/1 2|= 1 × (−1) → +1+ 3 × |0 4/1 0|= 3 × (−4) = −1216 + 1 − 12 = 51行目の数 × 小さな行列式、符号は +−+
3×3の行列式を1行目で展開する。2×(小さな行列式)、−1×(小さな行列式)、3×(小さな行列式)を符号つきで足す

図の例は、「2 1 3/0 4 1/1 0 2」という行列式で、答えは5です。久留島義太の方法は、この計算とそっくりな考え方だったと考えられています。西洋ではラプラス(ラプラス展開の名の由来)が、1772年に同じ方法を発表したので、約20年以上早い可能性があるとされます(ただし、久留島義太がいつ・どんな形でこの方法を得たかは、資料が少なく、はっきりしない部分もあります)。行列式の計算と性質でくわしく練習できます。

業績2 魔方陣から立方陣へ

1から9までを3行3列にならべて、たて・よこ・ななめの和をそろえた表が方陣(魔方陣)です。関孝和は、3×3や4×4など、さまざまな方陣の作り方を研究しました。久留島義太は、それを3次元に広げた「立方陣」を研究したとされます。

1から27までの数を、たて3・よこ3・高さ3の立方体にならべて、どの方向の列も和が同じ(42)になるようにしたものが、いちばん小さな立方陣です。図は、たて・よこ・高さの列がすべて42になる例です。

3×3×3 の立方陣のなかま1だん目1142717214247112だん目1525219518812223だん目2631361620102391から27までを1回ずつ使い、たて・よこ・高さ、どの3つの列も和は 42(1〜27の合計378 ÷ 9列 = 42)
1〜27を3×3×3にならべた立方陣の例。どのたて・よこ・高さの列も和が42。立体の対角線も合わせる立方陣は、さらにむずかしい

図は「たて・よこ・高さ」の27本の列だけを42にそろえた例です。本物の立方陣では、さらに立体の4本の対角線(立方体の角から反対側の角へ向かう線)の和もそろえます。久留島義太は、この4本の立体対角線の条件を満たす立方陣をはじめて作った人とされます。これは、西洋でフェルマーが1640年に作ったとされる立方陣よりも、さらに条件がきびしいものです。

魔方陣は、中学受験の算数でもおなじみです。方陣算(ならべた数の個数)では、数を正方形にならべたときの個数を求めます。魔方陣のきまりを知っておくと、パズルのように楽しめます。

業績3 整数の問題:ペル方程式とオイラー関数

久留島義太は、整数の問題にも深くとりくみました。とくに、次の形の方程式の整数の解を求める問題を研究したとされます。

x2−Ny2=±1x^2-Ny^2=\pm 1

これは、フェルマー(整数論の祖)が1657年ごろに問題として出した方程式で、のちにペル方程式とよばれるようになりました(実はペルという人はほとんど関係していないのですが、オイラーが人名をまちがえて広まったといわれます)。たとえばN=2N=2なら、(x,y)=(3,2)(x,y)=(3,2)がx2−2y2=9−8=1x^2-2y^2=9-8=1を満たします。

x² − 2y² = ±1 の解をならべる(x, y)x² − 2y²値(1, 1)1 − 2−1(3, 2)9 − 8+1(7, 5)49 − 50−1(17, 12)289 − 288+1(41, 29)1681 − 1682−1+1 と −1 が、かわりばんこに出てくる
x²−2y²=±1を満たす整数の組を小さい順にならべた表。(1,1)で−1、(3,2)で+1、(7,5)で−1、(17,12)で+1、(41,29)で−1と、+1と−1が交互に出る

図のとおり、解はどんどん大きくなっていきます。じつは、こうした解は「1つ見つかれば、そこから次々に作れる」という性質があります。久留島義太は、このような整数の方程式の解を求める方法を考えたとされます。

また、久留島義太は、オイラーの関数にあたるものも扱ったとされます。オイラーのφ関数φ(n)\varphi(n)は、「nn以下で、nnと互いに素(1以外に共通の約数がない)な正の整数の個数」です。たとえばn=12n=12のとき、1、5、7、11の4個なので、φ(12)=4\varphi(12)=4です。

12と「互いに素」な数は何個?12345678910111212φ(n) の表1121324254627684961041110124赤の 1・5・7・11 の4個なので φ(12)=4
12以下で12と互いに素な数は1、5、7、11の4個なので、φ(12)=4。右の表はnが1から12までのφ(n)の値

オイラーがこの関数を論文にしたのは1763年ごろです。久留島義太がこれに先んじていたといわれることもありますが、確かな資料がない言い伝えにとどまる、とされています。それでも、同じ時代の日本で、こうした整数の性質が研究されていたことは、とても興味深い事実です。くわしくはオイラー関数とオイラーの定理と1次不定方程式(整数解)も見てください。

業績4 円弧の長さと級数:久氏弧背術

円の一部(円弧)の長さは、和算では弧背(こはい)とよびます。「弦の長さや矢(弦から弧までの高さ)から、弧の長さを求める」ことは、和算の大きな課題でした。関孝和の弟子の建部賢弘は、無限級数(かぎりなく足していく式)を使ってこの問題に挑みました。

久留島義太の弧背術は、『久氏弧背術』として弟子たちにまとめられました。現代の言葉でいえば、逆三角関数 arcsin⁡x\arcsin x の級数展開にあたる式を残した、とされます。また、極値(関数が最大・最小になる値)を求める問題にもとりくみ、フェルマーの方法に近い考え方を得た、とされます。建部賢弘(円周率の級数の弟子)や、のちの安島直円(円理の大家)、和田寧(円理表をまとめた和算家)へとつながる「円理」(円や曲線の長さ・面積を級数で求める学問)の流れのなかに、久留島義太もいたのです。

業績5 虫食算と詰将棋:遊び心の天才

久留島義太は、数学を遊びとしても楽しんだ人でした。虫食算(計算式の数字が虫に食われたように消えていて、それを当てるパズル)を、日本ではじめて本に紹介したのは、久留島義太の『算梯』(さんてい)ではないか、とされています。虫食算・覆面算の解き方は、今も中学受験の人気問題です。

さらに久留島義太は、詰将棋(王手の連続で相手の王を詰ます将棋パズル)の名人でもありました。作品集に『将棋妙案』(100問)と『橘仙貼璧』(120問)があるとされ、駒の並びが絵や文字のように見える「曲詰」(きょくづめ)が得意だったといわれます。添田宗太夫・桑原君仲とともに、江戸時代の「三大曲詰作家」とよばれます。「金知恵の輪」「銀知恵の輪」とよばれる趣向も考えたそうです。

数学も詰将棋も、「ルールの中で、最も美しい答えをさがす」という点でつながっています。久留島義太にとっては、どちらも頭を使う楽しい遊びだったのかもしれません。

久留島義太の名前がつく公式・定理・用語

現代の教科書に「久留島の○○」という公式はありません。けれど、和算の世界には、久留島義太の名がついた用語や書物があります。

  • 久氏弧背術(きゅうし こはいじゅつ):円弧の長さを級数で求める方法。「久氏」は久留島氏のこと。弟子がまとめた書物の名でもあります。
  • 久氏三百解(きゅうし さんびゃくかい):久留島義太の解いた問題をまとめた書物の名とされます。
  • 久氏遺稿:久留島義太の遺した原稿をまとめた書物の名とされます。
  • 算梯(さんてい):虫食算の最初の紹介者とされる書物。
  • 立方陣:魔方陣の3次元版。久留島義太が、4本の立体対角線も合う立方陣をはじめて作ったとされます。
  • ペル方程式(x2−Ny2=±1x^2-Ny^2=\pm1):久留島義太が解き方を研究したとされる方程式。(→ 1次不定方程式(整数解))
  • オイラーのφ関数:nn と互いに素な数の個数。(→ オイラー関数とオイラーの定理)
  • 行列式の展開:現代のラプラス展開(余因子展開)にあたる考え方。(→ 行列式の計算と性質)
指し棒で説明する合格先生

合格先生

久留島義太の仕事は、「数を並べて、きまりを見つける」ことが中心だったんだ。方陣も、ペル方程式も、φ関数も、小さな数で試すとパターンが見えるよ。

久留島義太の逸話と名言

収入の多くを酒に使った

久留島義太は、酒が大好きだったと伝えられます。収入のほとんどを酒に使い、生活はとても質素だったといわれます。身なりにも、お金にも、あまりこだわらなかったようです。

藩主に教えるときも、酒がなければ教えない?

弟子の山路主住の話として、藩主の内藤政樹に数学を教えるときでさえ、酒を飲まなければ教えなかったという逸話が伝えられます。真偽は確かめられませんが、久留島義太の豪放さを語る話として、よく知られています。

仕官の約束に寝坊した?

別の逸話では、大名に召しかかえられる約束の日に寝坊して遅れてしまい、話がなくなったとされます。ただし、この話にも、確かな資料があるわけではありません。「天才なのに、どこか抜けていた人」という久留島義太の人物像が、後世の人に愛されていたことがうかがえます。

延岡の研究ノートは、つづらの内張りに

もっと有名なのは、次の話です。延岡にいた約6年のあいだに書きためた研究の紙は、江戸にもどるとき、荷物を入れる「葛籠」(つづら)の内側に張る紙として使ってしまい、1枚も残っていないと、久留島義太自身が語ったとされます。もし本当なら、私たちはものすごい量の発見を失ったことになります。やはり「伝えられます」の域を出ない話ですが、久留島義太が自分の成果を残すことにほとんど関心がなかった人物だったことを、よく表しています。

酒を飲まなければ教えない(と伝えられる態度)

久留島義太(山路主住の話として伝わる)(本人の言葉として確かめられたものではありません。名言と呼べる確かな言葉は伝わっていないとされます)

親友の死のあと、新しい業績が出なくなった

親友の松永良弼が亡くなってからは、久留島義太の新しい業績が確認されていない、とされます。同じ関流の仲間として、お互いの発見を見せ合い、刺激しあっていたのかもしれません。ひとりでは続かなかった天才という見方もあります。

サクラちゃん

サクラちゃん

研究のノートをつづらにはっちゃうなんて、もったいなさすぎます!

合格先生

合格先生

本当にもったいないね。だからこそ、書きとめて残すことの大切さを教えてくれる話でもあるんだ。受験でも、ひらめいたことは、すぐにノートに書いておこう。

受験・勉強と久留島義太のつながり

中学受験:魔方陣・方陣算・虫食算

中学受験の算数では、魔方陣、方陣算、虫食算(覆面算)がよく出ます。どれも久留島義太が親しんだ分野です。方陣算の解き方、虫食算・覆面算の解き方を練習すると、数の仕組みを考える力が育ちます。3×3の魔方陣は、「真ん中は5」と覚えておくと速く作れます。

高校受験:規則性と文字式

図の「立方陣」のような規則的な並びは、高校受験の「規則性」の問題の土台です。規則性と文字式(n番目の図形)では、小さい数で試して一般の式を作ります。久留島義太が数を並べて法則を見つけていく姿に重なります。

大学受験:行列式・整数問題・極値

勉強法として:「自分で見つけたことを、書き残す」

久留島義太の話は、「発見したことを書きとめる大切さ」を教えてくれます。勉強では、まちがえた問題と、そこで気づいたことをノートに残しておくと、あとで必ず役に立ちます。勉強の進め方は数学の勉強法(解法の暗記→演習→過去問)、暗算のくふうはインド式かけ算のやり方一覧も参考にしてください。

久留島義太がその後の数学にあたえた影響

  • 弟子の山路主住を通して、和算の中心へ:山路主住は、久留島義太らに学び、関流の宗統(本家すじ)を受けついだ人です。山路主住の弟子には、安島直円(円理を進めた弟子)がいて、久留島義太の流れは、孫弟子にあたる世代へとつながっていきました。
  • 松永良弼の著書に引用された:久留島義太の業績の多くは、親友の松永良弼の著書『方円算経』などに引用されて、のちの世に伝わりました。
  • 世界の数学史の中での位置づけ:行列式の展開、立方陣、ペル方程式の解法、級数展開など、西洋とは別の道で、似た発見に近づいていた数学者として、日本の数学史では高く評価されています。
  • 娯楽と学問をつないだ:虫食算や詰将棋は、「数学は遊べる」ことを示す例でした。この伝統は、江戸時代の算額や、現代の数学パズルにつながっています。

久留島義太は、弟子と友人が残してくれたから、名前が残った人です。そのこと自体が、数学の発見は「ひとりの天才」だけでなく、仲間とのつながりによって受けつがれていく、ということを教えてくれます。関孝和の業績と生涯から始まった関流は、久留島義太、そして建部賢弘の業績と生涯のような人々の手で、育てられていきました。

同じ18世紀のヨーロッパでは、オイラー(数の性質と記号の天才)が数論や級数で次々に発見をしていました。遠く離れた2つの国で、似た問いが同じ時代に考えられていたのです。数学は、どこの国でも「きまりを見つけたい」という人間の気持ちから生まれることを、久留島義太の仕事は教えてくれます。

久留島義太に挑戦!練習問題

やさしい

  1. 2×2の行列式 |5 2/3 4|(上の段が5と2、下の段が3と4)の値を求めなさい。
    答えと解説を見るad−bc=5×4−2×3=20−6=14。
  2. 10以下の正の整数のうち、10と互いに素(1以外に共通の約数がない)なものは何個ですか。
    答えと解説を見る10の約数は1、2、5、10。2または5の倍数でない数は1、3、7、9の4個。つまり φ(10)=4 です。

ふつう

  1. 3×3の行列式 |2 1 3/0 4 1/1 0 2| の値を、1行目で展開して求めなさい。
    答えと解説を見る2×|4 1/0 2|−1×|0 1/1 2|+3×|0 4/1 0|=2×8−1×(0−1)+3×(0−4)=16+1−12=5。(符号は+−+です)
  2. x²−2y²=1 を満たす正の整数の組(x, y)のうち、いちばん小さいものを求めなさい。
    答えと解説を見るy=1なら x²=3(整数でない)、y=2なら x²=1+8=9で x=3。よって(x, y)=(3, 2)。(9−8=1 で確かめられます)

むずかしい

  1. 36と互いに素な、36以下の正の整数は何個ありますか。
    答えと解説を見る36=2²×3²。φ(36)=36×(1−1/2)×(1−1/3)=36×1/2×2/3=12個。(2の倍数と3の倍数をのぞいた数を数えています)
  2. 1から27までの数を3×3×3の立方体にならべて、どの方向の列(3つの数)も和が等しくなるようにします。その和はいくつですか。
    答えと解説を見る1から27の合計は27×28÷2=378。同じ向きの列は全部で9本あり、それぞれ3つの数が入ります。和は378÷9=42。

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よくある質問

久留島義太は何をした人ですか?

久留島義太は、江戸時代中ごろの和算家です。行列式の展開、立方陣、ペル方程式、円弧の級数などを研究したとされます。自分ではほとんど本を書かず、弟子や親友が業績を書きとめて伝えました。

久留島義太はなぜ有名なのですか?

西洋の数学に先んじる内容を、日本で独自に研究したとされるからです。行列式の正しい展開や、4本の立体対角線が合う立方陣などが評価されています。酒好きで型破りな人柄の逸話も、よく知られています。

久留島義太は何年に生まれ、何歳で亡くなりましたか?

生年ははっきりせず、1690年ごろとされます。亡くなったのは宝暦7年11月29日で、西暦では1758年1月8日にあたります。資料によって1757年と書かれることもあり、68歳ごろだったとされます。

久留島義太は行列式の展開法をラプラスより先に見つけたのですか?

そうだったと考えられていますが、確かな資料は多くありません。久留島義太は関孝和の行列式のまちがいを正し、現代のラプラス展開にあたる展開を導いたとされます。ラプラスが同じ方法を発表したのは1772年です。

久留島義太は酒好きだったというのは本当ですか?

酒を愛し、収入の多くを酒に使ったと伝えられます。藩主に数学を教えるときも、酒を飲まなければ教えなかったという逸話もありますが、確かな資料で確かめられたものではありません。

久留島義太はなぜ本を残さなかったのですか?

自分の発見を整理して書き残すことに、あまり関心がなかったと伝えられます。延岡での研究を書いた紙を、つづらの内張りに使ってしまったという逸話もあります。業績は、弟子の山路主住や親友の松永良弼の原稿から分かります。

久留島義太は関孝和とどんな関係ですか?

直接の弟子ではありません。独学で和算を学び、関流の流れをくむ中根元圭に才能を認められて、関孝和の学問を深めました。関孝和の行列式のまちがいを正したとされます。

久留島義太は詰将棋とどんな関係がありますか?

詰将棋の名人でもありました。作品集に『将棋妙案』(100問)と『橘仙貼璧』(120問)があるとされ、駒の並びが絵のように見える曲詰が得意でした。江戸時代の三大曲詰作家の一人とされます。

久留島義太の仕事は、受験にどう関係しますか?

名前が入試に出ることはありません。しかし行列式(余因子展開)、ペル方程式、オイラー関数、魔方陣・方陣算、虫食算など、久留島義太が考えた内容は、中学受験から大学受験まで広く出題されます。

あわせて読みたい

出典・参考

  • 日本学士院編『明治前日本数学史』(久留島義太の項)
  • 『日本人名大辞典』(久留島義太の項)、コトバンク「久留島義太」
  • 日本語版ウィキペディア「久留島義太」
  • 平山諦ほか『和算の歴史』(江戸中期の和算家)

最終更新:2026年11月3日/作成:大学受験合格大作戦