ペルシア戦争とは?世界史でわかりやすく|マラトン・サラミス・原因と結果【図解】

世界史用語集 › 第2章 古代ギリシャとヘレニズム

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ペルシア戦争ぺるしあせんそう

重要度 ★★★★★ (★は合格大作戦の目安)

ひとことで言うと

ペルシア戦争とは、前5世紀に、ギリシャのポリス連合が大帝国アケメネス朝ペルシアと戦い、勝った戦争です。前499年のイオニアの反乱から始まり、マラトン・サラミス・プラタイアなどの戦いで勝ったあと、アテネが強くなって民主政が進みました。

読み方ぺるしあせんそう
英語Persian Wars(ペルシア戦争)
時代前499〜前449年(中心は前490〜前479年)
地域ギリシャ
章第2章 古代ギリシャとヘレニズム
日本語ペルシア戦争(ペルシャ戦争)
戦った相手アケメネス朝ペルシア(ダレイオス1世・クセルクセス1世)vs ギリシャのポリス連合
主な戦いマラトン(前490)・テルモピュライとサラミス(前480)・プラタイア(前479)
いっしょに覚えるイオニアの反乱・デロス同盟・ヘロドトス・三段櫂船

このページのポイント

  • 原因はイオニアの反乱(前499ごろ)。アテネが援軍を送ったことで、ペルシアがギリシャ本土に遠征した。
  • 戦いの順:マラトン(前490)→ テルモピュライ・サラミス(前480)→ プラタイア(前479)。サラミスは海戦、プラタイアは陸戦。
  • 結果は、ギリシャの勝利。デロス同盟ができ、無産市民の力が増して、アテネの民主政が進んだ。

ペルシア戦争をやさしく言うと

ペルシア戦争は、前5世紀のはじめ(前490〜前479年が中心)に、東の大帝国アケメネス朝ペルシアと、ギリシャのポリスの連合が戦った戦争です。結果は、数でおとるギリシャ側の勝ちでした。

ペルシアは当時、エジプトから中央アジアまでを支配する世界最大の帝国でした。いっぽうギリシャは、小さなポリス(都市国家)がばらばらに並んでいる地域です。「世界最強 vs 小さな町の連合」のたたかいでした。ふつうに考えれば、ギリシャに勝ち目はありません。

この戦争が世界史で重く見られるのは、勝ったことで、ギリシャ文明が大きく花開いたからです。とくにアテネは、戦争で自信と力をつけてアテネの民主政を完成へ進めました。戦争のようすは、「歴史の父」ヘロドトスの『歴史』がくわしく書き残しています。

原因イオニアの反乱(前499)小アジアのギリシャ人の町がペルシアに反抗。アテネ・エレトリアが援軍を送る経過3度のペルシアの遠征前490 マラトン → 前480 テルモピュライ・サラミス → 前479 プラタイア・ミュカレ結果ギリシャ側の勝利デロス同盟ができ、アテネが強くなる。無産市民の力が増え、民主政が進む
図1 ペルシア戦争の原因・経過・結果。イオニアの反乱から始まり、ギリシャ側の勝利で終わる。
エンリケくん

エンリケくん

ペルシアのほうがずっと大きいのに、どうして負けたんですか?

ロダン先生

ロダン先生

理由はいくつもあるんだ。戦いの場所をうまく選んだこと、市民がじぶんの国を守る気持ちで戦ったこと、そして海では船をこぐ人たち(無産市民)が大活躍したこと。順に見ていこう。

ペルシア戦争のくわしい流れ(原因・経過・結果)

① 原因:イオニアの反乱(前499年ごろ)

小アジア(今のトルコ西部)の海ぞいには、ギリシャ人の植民市が多くありました。ここをイオニア地方といいます。ミレトスなどの町は、ペルシアの支配下に入り、重い税と、ペルシアが認めた僭主(ペルシア側につく支配者)に不満をもっていました。

前499年ごろ、ミレトスを中心にイオニアのポリスが反乱をおこしました(イオニアの反乱)。本土のアテネとエレトリアが援軍を送り、反乱軍は小アジアの内陸の町サルディスを焼きました。反乱は数年でしずめられ、ミレトスも前494年に陥落します。しかし、ペルシアの王ダレイオス1世は、援軍を送ったアテネをゆるさなかったとされます。これがギリシャ本土への遠征のきっかけです。

② 第1回・第2回の遠征(前492年・前490年)

前492年の第1回遠征は、海軍が北のアトス岬で嵐にあい、失敗しました。前490年、ダレイオス1世は2度目の遠征を送り、船団でエーゲ海を渡ってエレトリアをおとしいれます。そして、アテネの北東にあるマラトンの平野に上陸しました。

アテネ軍は、ミルティアデスらの指揮で、重装歩兵の密集隊形をつくって戦い、数でまさるペルシア軍を破りました(マラトンの戦い)。この勝利で、市民の自信が高まります。伝承では、勝利を知らせるため、1人の兵士がマラトンからアテネまで走って「われ勝てり」と告げ、息絶えたといいます。これがマラソン競技の由来とされますが、この話は後の時代の記録で、本当かどうかは諸説ありです。なお、戦いの前にスパルタへ助けを求めて走った使者(ペイディッピデス)のほうは、ヘロドトスが書いています。

③ 第3回の遠征と、決戦(前480年・前479年)

ダレイオス1世は前486年に亡くなり、子のクセルクセス1世が前480年に、大軍で再び遠征しました。今度は陸と海の両方から、ヘレスポントス海峡(今のダーダネルス海峡)を橋でわたって、北から南へ進みます。

  • テルモピュライの戦い(前480):スパルタ王レオニダスらが、狭い山道でペルシア軍をふせぎました。スパルタ兵300人が有名ですが、ほかのポリスの兵もいっしょに戦ったことが知られます。やがて回り道を教えられ、ギリシャ側は敗れます。同じころ、海ではアルテミシオン沖でも戦いがありました。
  • サラミスの海戦(前480):アテネの市民は、アテネの町をはなれて避難しました。ペルシア軍はアテネを占領して、アクロポリスの神殿を焼きます。しかしその直後、テミストクレスの作戦で、ギリシャ連合艦隊がせまいサラミス海峡にペルシアの艦隊をおびきよせて、大勝しました。
  • プラタイアの戦い(前479):スパルタ王の摂政パウサニアスが率いるギリシャ連合軍が、ペルシアの陸軍に勝ちました。ミュカレ(小アジアの岬)でも、ギリシャ側が勝ったと伝わります。
エーゲ海ペルシア領(小アジア) サルディスミレトスヘレスポントステルモピュライアテネマラトンエレトリアスパルタ 前480〜479 クセルクセス前490 ダレイオス1世の遠征
図2 ペルシア戦争の地図。前490年は海から、前480年は陸(ヘレスポントス海峡をわたる)と海の両方から攻めた。
エーゲ海サロニコス湾 アテネ マラトン前490 陸の戦い サラミス前480 海の戦い プラタイア前479 陸の戦い 南にペロポネソス半島 ※ 位置関係をつかむための模式図
図3 アテネ周辺の戦場の位置関係。マラトン(前490)・サラミス(前480)・プラタイア(前479)。

④ ギリシャが勝った理由

理由は、教科書の説明をまとめると次の3つです。

  1. 戦場の選び方:せまい海峡や山道を選び、ペルシアの数の多さを活かせなくした。
  2. 市民の戦い方:自分の国を守る市民が、重装歩兵として、密集して戦った(重装歩兵)。
  3. 海の力:アテネの三段櫂船(さんだんかいせん)と、船をこいだ多くの市民が決め手になった。

ただし、ペルシア側の記録は少なく、ペルシアにとっては帝国のはしっこの小さな戦争だったという見方もあります。勝敗の理由の多くは、ギリシャ側の記録(ヘロドトスなど)にもとづくものです。これも「ギリシャ側の目から見た歴史」だということを、頭の片すみに置いておくとよいでしょう。

⑤ 結果:デロス同盟と、アテネの民主政

ペルシアがしりぞいたあとも、ギリシャ人は「ペルシアがまた来るかもしれない」と考えました。そこで前478/477年、アテネを盟主にしてデロス同盟がつくられます。同盟は、エーゲ海の島々や小アジアのポリスを守るための軍事同盟でした。やがてアテネは同盟の力を自分の帝国のようにつかい、強くなります。

国内でも変化がありました。サラミスの海戦で船をこいだのは、土地をもたない無産市民です。戦争で国を守った彼らは、政治でも発言する権利を強く求めます。こうして、アテネではペリクレスの時代に民主政が進みました。いっぽう、ギリシャ人はペルシア戦争を通じて、自分たちをヘレネス(ギリシャ人)、東の人々をバルバロイとして分けて考える気持ちが強まったといわれます。

前449年ごろ、アテネとペルシアの間でカリアスの和約が結ばれて戦争が終わったと伝えられます。ただし、この和約が実際にあったかどうかには諸説ありです。

手をかざして遠くを見るロダン先生

ロダン先生

ぼくは泳げないから、サラミスの海戦はちょっとこわいな…。でもギリシャの船団、かっこいいよね。

年表で見るペルシア戦争

前499イオニアの反乱が始まる前492第1回遠征(嵐で失敗)前490マラトンの戦い(アテネが勝つ)前480テルモピュライ・サラミスの海戦前479プラタイア・ミュカレの戦い前478/477デロス同盟ができる前449カリアスの和約(諸説あり)
図4 ペルシア戦争の年表。前499年から前479年までの約20年が戦いの中心。

戦争は前499年のイオニアの反乱から前479年のプラタイアまで、約20年続きます。戦いの名前と年を結びつけるときは、「先に陸のマラトン(490)、次に山と海のテルモピュライ・サラミス(480)、最後に陸のプラタイア(479)」と覚えるとよいでしょう。

年戦い場所勝った側
前490マラトンの戦いアテネの北東ギリシャ(アテネ)
前480テルモピュライの戦い中部ギリシャの山道ペルシア
前480サラミスの海戦アテネ近くの海峡ギリシャ連合艦隊
前479プラタイアの戦いアテネの北西ギリシャ連合軍
前479ミュカレの戦い小アジアの岬ギリシャ(伝承)

整理:ペルシア戦争の流れ

原因:前499年 イオニアの反乱(アテネが支援)
前490:マラトンの戦い 前480:テルモピュライ・サラミス 前479:プラタイア
結果:ギリシャが勝つ → デロス同盟・アテネの民主政の発展

ペルシア戦争と関係する人物・用語

人物・用語ペルシア戦争との関係
ダレイオス1世ペルシアの王。第2回遠征をおこなった(マラトンで敗れる)
クセルクセス1世ダレイオス1世の子。前480年の大遠征(サラミスで敗れる)
ミルティアデスマラトンの戦いのアテネの指揮官
テミストクレスとサラミスの海戦海軍の強化と作戦で勝利に導いたアテネの政治家
レオニダステルモピュライで戦ったスパルタ王
デロス同盟戦後、アテネを盟主にできた軍事同盟
ヘロドトス『歴史』でこの戦争を書いた
陶片追放戦争の前後に、有力な政治家が次々と追放された

ペルシア戦争の後半を戦った人々は、あとの時代のアテネ政治を動かしました。たとえばテミストクレスは、のちに陶片追放でアテネを去ります。くわしくは陶片追放のしくみをどうぞ。

サクラちゃん

サクラちゃん

ペルシア戦争のあとは、どうなったんですか?

ロダン先生

ロダン先生

アテネは強くなって、スパルタと対立するようになるんだ。その争いが、あのペロポネソス戦争につながるよ。ペルシア戦争は「ギリシャの黄金時代」の入口なんだ。

サクラちゃん

サクラちゃん

勝ったのに、次は仲間どうしでけんか…。

ペルシア戦争でまちがえやすい点

まちがえやすい点

  1. 戦いの順番:マラトン(前490)→ テルモピュライ・サラミス(前480)→ プラタイア(前479)。「マラトンは最初」と覚える。
  2. サラミスとプラタイアの混同:サラミスは海戦(前480)、プラタイアは陸戦(前479)。
  3. ダレイオス1世とクセルクセス1世:マラトンはダレイオス1世、サラミスはクセルクセス1世の時代。親子。
  4. テルモピュライの勝者:ペルシア軍が勝った戦いです(ギリシャ側は敗れたが、勇敢さで有名)。
  5. ペルシア戦争とペロポネソス戦争:前者はギリシャ vs ペルシア(前5世紀前半)、後者はアテネ vs スパルタ(前5世紀後半)。
  6. 「ギリシャ全体が一つになって戦った」とは言い切れない:ペルシア側についたポリスもあった。

入試ではこう出る

  • 共通テスト:マラトン・サラミス・プラタイア・テルモピュライの戦いの並べかえや、「サラミスの海戦はどこでの戦いか」などの正誤問題が定番です。ヘロドトスの『歴史』の史料や、地図とあわせて問われることもあります。
  • 国公立の2次・論述:「ペルシア戦争がアテネの民主政に与えた影響」がよく問われます。無産市民が三段櫂船の漕ぎ手として活躍し、発言力が増したという点をふくめて説明できると強いです。
  • 私大:イオニアの反乱、ダレイオス1世、クセルクセス1世、カリアスの和約などの語句。
  • よくあるひっかけ:ペルシア戦争の「結果」と「その後」(デロス同盟・ペロポネソス戦争)を混ぜた選択肢。

勉強法は世界史の勉強法【共通テスト対策】、論述の練習は世界史の論述の書き方(私大・2次試験編)が参考になります。

ロダン先生の「これ知ってる?」

ロダン先生

これ知ってる? マラソンの名前はマラトンから

陸上競技のマラソンは、マラトンの戦いの伝令の話から名づけられたといわれるんだ。1896年の第1回近代オリンピック(アテネ)で、この話にちなんだマラソンが正式種目になったよ。ただし、「走って死んだ」という話は後世の伝承なので、「諸説あり」と覚えておくと安心だね。

ロダン先生

これ知ってる? 「300人」だけで戦ったわけではない

映画などで有名なテルモピュライの「スパルタ300人」。じっさいは、スパルタ兵のほかに、テスピアイやテーバイなど、ほかのポリスの兵もいたことが、ヘロドトスの記録から知られているんだ。人数は、記録によって説がちがうよ。

ロダン先生

これ知ってる? ペルシア戦争は「歴史」の始まり

ヘロドトスの『歴史』は、ペルシア戦争を主題にした、西洋で最初のまとまった歴史書といわれる。「ヒストリア」は「調べること」という意味で、英語の history のもとになったんだ。日本語の「歴史」と、昔の「調べて書く」という感覚がちょっと近いよね。

練習問題

やさしい

  1. 前490年に、アテネ軍がペルシア軍を破った戦いを何というか。
    答えと解説を見る

    答え:マラトンの戦い
    アテネの北東の平野での戦いです。指揮官はミルティアデスでした。

  2. 前480年に、せまい海峡でギリシャ連合艦隊がペルシア艦隊に大勝した海戦を何というか。
    答えと解説を見る

    答え:サラミスの海戦
    テミストクレスの作戦が成功しました。

ふつう

  1. ペルシア戦争のきっかけとなった、小アジアのギリシャ人の町々の反乱を何というか。
    答えと解説を見る

    答え:イオニアの反乱(前499年ごろ)
    ミレトスを中心に反乱がおこり、アテネとエレトリアが援軍を送りました。

  2. 次の戦いを古い順に並べよ。ア サラミスの海戦 イ マラトンの戦い ウ プラタイアの戦い
    答えと解説を見る

    答え:イ → ア → ウ
    マラトン(前490)→ サラミス(前480)→ プラタイア(前479)の順です。

むずかしい

  1. 正しいか誤りか答えよ。「テルモピュライの戦いでは、スパルタ王レオニダスらが勝利して、ペルシア軍を撃退した。」
    答えと解説を見る

    答え:誤り
    ギリシャ側は敗れました。勇敢に戦って時間をかせいだことで有名です。

  2. ペルシア戦争のあと、アテネで民主政が進んだ理由を、60字ほどで説明せよ。
    答えと解説を見る

    答えの例:サラミスの海戦で、三段櫂船をこいだ無産市民が勝利に大きく貢献したため、彼らの発言力が高まり、アテネでは民主政が進んだ。(62字)

    「無産市民」「船をこぐ(海軍)」「発言力」の3点が入れば合格です。

「古代ギリシャとヘレニズム」の章の用語

この章の流れは古代ギリシャとヘレニズムの年表(国と王朝の帯図・同じころの日本つき)で、年の順に確かめられます。

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よくある質問

ペルシア戦争とは何ですか?

ペルシア戦争とは、前5世紀のはじめに、ギリシャのポリス連合が大帝国アケメネス朝ペルシアと戦った戦争です。結果はギリシャの勝利で、アテネが大きく成長しました。

ペルシア戦争はいつ、だれが戦いましたか?

前499年のイオニアの反乱から前449年ごろまでを指し、中心は前490〜前479年です。ペルシア側はダレイオス1世とクセルクセス1世、ギリシャ側はアテネ・スパルタなどが戦いました。

ペルシア戦争の原因は何ですか?

小アジアのギリシャ人の町々が前499年ごろにペルシアに反乱をおこし(イオニアの反乱)、アテネとエレトリアが援軍を送ったことです。ペルシアはこれをゆるさず、ギリシャ本土へ遠征しました。

マラトンの戦いとは何ですか?

前490年に、アテネ軍がマラトンの平野でペルシア軍を破った戦いです。指揮官はミルティアデスでした。この勝利で、アテネ市民は大きな自信を得ました。

サラミスの海戦とは何ですか?

前480年に、テミストクレスの作戦で、ギリシャ連合艦隊がせまいサラミス海峡でペルシア艦隊に大勝した海戦です。ペルシア戦争の流れを変えた戦いとされます。

ギリシャはなぜ勝てたのですか?

戦場に、せまい海峡や山道を選んだこと、自分の国を守る市民が重装歩兵として密集して戦ったこと、三段櫂船で海戦に強かったことが、理由としてあげられます。

ペルシア戦争の結果と影響は何ですか?

ギリシャが勝ち、アテネを盟主とするデロス同盟ができました。船をこいだ無産市民の発言力が増し、アテネの民主政が進みます。アテネとスパルタの対立も強まりました。

ペルシア戦争とペロポネソス戦争のちがいは何ですか?

ペルシア戦争は前5世紀前半のギリシャ対ペルシアの戦いです。ペロポネソス戦争は前5世紀後半に、アテネ側とスパルタ側のギリシャ人どうしが戦いました。

マラソンはペルシア戦争と関係がありますか?

伝承では、マラトンの勝利を知らせる使者が走ったことがマラソンの由来とされます。ただし、この話は後の時代の記録で、本当かどうかは諸説あります。

ペルシア戦争は入試でどう出ますか?

共通テストでは、マラトン・サラミス・プラタイアなどの戦いを古い順に並べる問題や、地図の問題が出ます。2次の論述では、民主政の発展との関係を説明させる問題が定番です。

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出典・参考

  • 高校「世界史探究」の教科書の一般的な記述
  • ヘロドトス『歴史』

最終更新:2026年11月3日/作成:大学受験合格大作戦