ペロポネソス戦争とは?世界史でわかりやすく|アテネとスパルタ・原因と結果【図解】

世界史用語集 › 第2章 古代ギリシャとヘレニズム

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ペロポネソス戦争ぺろぽねそすせんそう

重要度 ★★★★★ (★は合格大作戦の目安)

ひとことで言うと

ペロポネソス戦争とは、前431年から前404年まで、アテネを盟主とするデロス同盟と、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟が戦った、ギリシャ人どうしの戦争です。スパルタ側が勝ち、アテネは降伏して、ポリスの衰えが進みました。

読み方ぺろぽねそすせんそう
英語Peloponnesian War(ペロポネソス戦争)
時代前431〜前404年
地域ギリシャ
章第2章 古代ギリシャとヘレニズム
日本語ペロポネソス戦争
戦った相手アテネ(デロス同盟)vs スパルタ(ペロポネソス同盟)
結果スパルタ側の勝ち(前404年アテネ降伏)
いっしょに覚えるペリクレス・シチリア遠征・アルキビアデス・トゥキディデス・三十人政権

このページのポイント

  • アテネ(デロス同盟・海軍)vs スパルタ(ペロポネソス同盟・陸軍)。原因はアテネの強大化とスパルタの恐れ(トゥキディデス)。
  • 疫病とペリクレスの死、シチリア遠征の大敗(前413)、ペルシアの資金とアイゴスポタモイの海戦(前405)で、アテネが降伏(前404)。
  • 勝ったスパルタも長続きせず、ポリス全体が衰え、のちにマケドニアが台頭した。

ペロポネソス戦争をやさしく言うと

ペロポネソス戦争は、前431年から前404年まで、アテネを中心とするデロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネソス同盟が戦った、ギリシャ人どうしの大戦争です。結果はスパルタ側の勝ちで、アテネは降伏しました。

「ペロポネソス」とは、ギリシャ南部の大きな半島の名前で、スパルタなどのポリスがここにあります。ペルシア戦争では力を合わせたギリシャ人が、わずか数十年のうちに、2つの陣営に分かれて27年も争ったのです。

この戦争で、ポリスはたがいに疲れはて、ポリス(都市国家)の時代は終わりに向かいます。やがて北のマケドニアが力をのばし、アレクサンドロス大王の時代へつながります。歴史家トゥキディデス(トゥキュディデス)が、この戦争をくわしく記録した『戦史』を書きました。

エーゲ海イオニア海 アテネサモスナクソスビザンティオンレスボス スパルタコリントステーベ ピュロスアンフィポリスアイゴスポタモイ シチリア遠征へ アテネ側(デロス同盟)スパルタ側(ペロポネソス同盟)× 主な戦場
図1 ペロポネソス戦争の両陣営と主な戦場。アテネ側は島々と小アジア、スパルタ側はペロポネソス半島と中部ギリシャ。
エンリケくん

エンリケくん

ペルシアに勝ったのに、今度は仲間どうしで戦ったんですか…。

ロダン先生

ロダン先生

そうなんだ。「強くなりすぎたアテネ」と「それをこわがるスパルタ」。トゥキディデスは、これが戦争のいちばんの原因だと書いているよ。強い国と、それをおそれる国の対立は、今の国際政治でもよく話題になる考え方だね。

ペロポネソス戦争のくわしい流れ(原因・経過・結果)

① 原因:アテネの強大化とスパルタの不安

ペルシア戦争のあと、アテネはデロス同盟の盟主として、海の力を強めました。同盟の資金で海軍を保ち、ペリクレスの時代には、文化も栄えます。ところが、同盟からぬけようとした国を力でおさえつけたことなどで、同盟のポリスや、ほかのポリスからの不満が高まりました。

スパルタを盟主とするペロポネソス同盟には、アテネと商売のうえで争うコリントスなどが加わっていました。前433年ごろから、アテネが、コリントスの植民市だったケルキュラ(今のコルフ島)を助けたり、ポテイダイアを攻めたり、メガラへの通商をしめだす決議を出したりして、対立が深まります。トゥキディデスは「戦争の本当の原因は、アテネが大きくなったことと、それを見たスパルタの恐れだった」と書いています。こうして前431年、戦争が始まりました。

② 前期の戦い:長城壁と疫病(前431〜前421年)

スパルタ軍は、毎年のようにアテネ領のアッティカに侵入し、畑をあらしました。スパルタは強い陸軍をもっていますが、船は弱かったからです。これに対して、ペリクレスの作戦は、陸ではスパルタ軍と戦わず、市民をアテネの町と港のあいだの長城壁の中に入れ、海から食料を運んで持ちこたえる、というものでした(くわしくはペリクレスの作戦)。同時に、アテネの海軍が、ペロポネソスの海岸を攻めました。

ところが、城壁の中に人が集まりすぎたため、前430年から疫病が広がり、多くの人が亡くなります。前429年には、ペリクレス自身も疫病で亡くなりました。そのあと、民衆に人気のある指導者クレオンなど(デマゴーゴス)が力をもちます。前425年には、アテネがピュロスでスパルタ兵を捕虜にしますが、前422年のアンフィポリスの戦いで、アテネのクレオンも、スパルタの将軍ブラシダスも戦死しました。前421年にニキアスの和約が結ばれ、いったん戦いはとまります。

③ シチリア遠征:アテネの大きな失敗(前415〜前413年)

和約は長続きしませんでした。前415年、若く人気のある政治家アルキビアデスがすすめたシチリア島への遠征が、アテネの民会で決まります。ところが、出発の直前にヘルメス像がこわされる事件があり、アルキビアデスは疑われて、呼びもどされます。彼はこれを断り、なんと敵のスパルタに亡命しました。

遠征軍は、シチリアの大都市シラクサを攻めましたが、スパルタの援軍もあり、前413年に全滅にちかい大敗をしました。アテネは、多くの船と兵を失い、大きな痛手を受けます。

④ 後期の戦い:ペルシアの資金とアテネの降伏(前413〜前404年)

スパルタは、アッティカ北部のデケレイアに基地をつくって、アテネをおびやかしました。さらに、ペルシアの資金を受けて海軍をつくります。かつて、ギリシャに攻めこんだペルシアが、今度はギリシャ人どうしの争いに、お金で関わるのです。

アテネ国内では、一時的に民主政が止まって少数による政権が生まれるなど、混乱が続きました。前405年、スパルタの将軍リュサンドロスが、ヘレスポントス海峡ちかくのアイゴスポタモイの海戦でアテネの艦隊をほぼ全滅させます。前404年、アテネは降伏しました。長城壁はこわされ、デロス同盟は解散します。スパルタの後押しで、アテネには三十人政権(少数の人による支配)が置かれましたが、乱暴な政治で嫌われ、翌前403年に民主政が回復しました。

前期(前431〜前421)アルキダモス戦争・スパルタ軍が毎年アッティカへ侵入・疫病・ペリクレスの死(前429)・ニキアスの和約(前421)中期(前415〜前413)シチリア遠征・アルキビアデスらが主導・シラクサで大敗(前413)・アテネは大きな力を失う後期(前413〜前404)デケレイア戦争・ペルシアの資金でスパルタが海軍をつくる・アイゴスポタモイの海戦(前405)・アテネが降伏(前404)
図2 ペロポネソス戦争の3つの時期。前期(疫病とニキアスの和約)、シチリア遠征、後期(ペルシアの資金とアイゴスポタモイ)。

⑤ 結果と影響

  • アテネの敗北:海上の力と同盟を失った。民主政は回復したが、かつての勢いにはもどらなかった。
  • スパルタの優位は短かった:勝ったスパルタも、同盟市への支配が強すぎて、すぐに反発された。その後はテーベなどが力をもち(前371年のレウクトラの戦い)、ポリスどうしの争いが続いた。
  • ポリスの衰え:長い戦争で、人も土地も疲れはて、重装歩兵の市民中心の社会がゆらぐ。傭兵(お金で雇われる兵士)が増えた。
  • マケドニアの台頭:弱ったポリスは、前338年のカイロネイアの戦いで、北のマケドニアに敗れる(→ アレクサンドロス大王の時代へ)。
  • 思想への影響:戦争や民主政への失望が、ソクラテスの裁判や、プラトンの哲学へもつながったとされる。
アテネ側スパルタ側 強み海軍・お金・長城壁陸軍・重装歩兵政治民主政少数の市民が支配同盟デロス同盟ペロポネソス同盟戦い方陸では守り、海で戦う陸でアッティカを荒らす 海のアテネ vs 陸のスパルタ → 決着がつきにくく、長びいた
図3 アテネとスパルタの強みのちがい。海のアテネ vs 陸のスパルタの対立で、戦争が長びいた。
手をかざして遠くを見るロダン先生

ロダン先生

27年も続いた戦争。トゥキディデスは、アテネ側の将軍として戦って、そのあと、この戦争を書いたんだ。

年表で見るペロポネソス戦争

前431戦争が始まる前430〜429疫病・ペリクレスの死前421ニキアスの和約前415〜413シチリア遠征(アテネ大敗)前405アイゴスポタモイの海戦前404アテネが降伏する前403アテネで民主政が回復
図4 ペロポネソス戦争の年表。前431年の開戦から前404年のアテネの降伏まで。

年表では、前431年(開戦)、前415〜前413年(シチリア遠征)、前404年(アテネの降伏)の3つが、特に重要です。シチリア遠征の失敗が、アテネが負けた最大の分かれ目とされることが多いです。

年できごとポイント
前431開戦アテネ(デロス同盟)vs スパルタ(ペロポネソス同盟)
前429ペリクレスの死疫病が原因
前421ニキアスの和約いったん停戦
前415〜413シチリア遠征アテネが大敗
前405アイゴスポタモイの海戦アテネの艦隊が全滅に近い
前404アテネの降伏デロス同盟は解散

整理:ペロポネソス戦争の要点

  1. いつ:前431〜前404年。
  2. だれとだれ:アテネ(デロス同盟)vs スパルタ(ペロポネソス同盟)。
  3. 原因:アテネの強大化とスパルタの恐れ。
  4. 転機:シチリア遠征の失敗(前413)。ペルシアがスパルタに資金を出す。
  5. 結果:アテネ降伏。ポリス全体が衰え、のちにマケドニアが台頭。

ペロポネソス戦争と関係する人物・用語

人物・用語戦争との関係
ペリクレス開戦時のアテネの指導者。疫病で死ぬ
アルキビアデスシチリア遠征を進め、のちにスパルタへ亡命
リュサンドロススパルタの将軍。アイゴスポタモイでアテネを破る
デロス同盟アテネ側。戦争後に解散
スパルタとペロポネソス同盟スパルタ側
ヘロドトスとトゥキディデストゥキディデスが『戦史』にこの戦争を書く
ソクラテス戦争の混乱の中で活動し、のち裁判で死刑
アテネの民主政戦争中に衰え、一時とだえる
ペルシア戦争前の大戦争。ペルシアは後期にスパルタを支援

『戦史』を書いたトゥキディデスは、アテネの将軍の一人でしたが、前424年に作戦に失敗し、追放されました。そのため、戦争を外から見ることができたといわれます。『戦史』は、神々の力ではなく、人間の行動で歴史を説明しようとした作品として有名です。ただし、前411年あたりで記述が止まっています。

サクラちゃん

サクラちゃん

結局、スパルタが強かったんですか?

ロダン先生

ロダン先生

そう単純じゃないんだ。アテネは自分の失敗(シチリア遠征)と、ペルシアの資金という、2つの大きな理由で負けたと考えられているよ。スパルタも、勝ったあとの支配がうまくいかず、すぐに弱くなってしまうんだ。

ペロポネソス戦争でまちがえやすい点

まちがえやすい点

  1. ペルシア戦争とのちがい:ペルシア戦争は前5世紀前半のギリシャ vs ペルシア。ペロポネソス戦争は前5世紀後半のギリシャ人どうし。
  2. 陣営の組み合わせ:アテネ=デロス同盟、スパルタ=ペロポネソス同盟。逆にしない。
  3. 勝ったのはスパルタ側:アテネは降伏した。
  4. ペリクレスは戦争の最後まで生きていない:前429年に疫病で亡くなった。
  5. シチリア遠征は戦争の「最初」ではない:前期の和約のあと、前415年に始まった。
  6. ペルシアは「どちらにも同じ」ではない:後期はスパルタを資金で援助した。

入試ではこう出る

  • 共通テスト:開戦の年(前431)、両陣営の盟主、勝った側(スパルタ)、シチリア遠征、ペルシア戦争との比較などが、正誤問題や年代の並べかえで出ます。トゥキディデスの『戦史』の史料が示され、戦争の原因を読みとらせる問題もあります。
  • 国公立の2次・論述:「ペロポネソス戦争後のポリス社会の変化」「ポリスの衰退の原因」を、戦争の長期化・傭兵の増加・マケドニアの台頭とからめて説明させる問題が出ます。
  • 私大:ニキアスの和約、アルキビアデス、アイゴスポタモイ、三十人政権、リュサンドロスなどの語句。
  • よくあるひっかけ:ペルシア戦争とペロポネソス戦争を取りちがえた選択肢。

勉強法は世界史の勉強法【基礎編】、論述は世界史の論述の書き方(私大・2次試験編)が参考になります。

ロダン先生の「これ知ってる?」

ロダン先生

これ知ってる? 「トゥキディデスの罠」ということば

強くなってきた国(新興国)と、これまで強かった国(既存の大国)が対立して、戦争になりやすいことを、「トゥキディデスの罠」と呼ぶことがあるんだ。ペロポネソス戦争の原因についての、トゥキディデスの説明から生まれた言い方だよ。ただし、歴史の見方の一つで、研究者の中でも意見が分かれるんだ。

ロダン先生

これ知ってる? アルキビアデスは、ソクラテスの弟子

アルキビアデスは、哲学者ソクラテスと親しく、弟子のように付き合っていたと伝わるんだ。頭がよく、人気者だったけれど、あちこちの国に寝がえったので、「信用できない人」とも言われる。ふしぎな人物だよ。

ロダン先生

これ知ってる? 「ニキアスの和約」の名前の由来

前421年の和約は、アテネの政治家ニキアスの名前でよばれるんだ。ニキアスは慎重な性格で、のちのシチリア遠征では、反対していたのに指揮官にされ、最後に捕えられて亡くなったと伝わるよ(トゥキディデスが伝える話)。

練習問題

やさしい

  1. 前431年から前404年まで、アテネとスパルタを中心に戦われた戦争を何というか。
    答えと解説を見る

    答え:ペロポネソス戦争

  2. ペロポネソス戦争で、スパルタを盟主とした同盟を何というか。
    答えと解説を見る

    答え:ペロポネソス同盟
    アテネ側はデロス同盟です。

ふつう

  1. ペロポネソス戦争の途中で、アテネが大敗した、前415〜前413年の遠征を何というか。
    答えと解説を見る

    答え:シチリア遠征
    シラクサで大敗し、アテネは大きな力を失いました。

  2. ペロポネソス戦争を『戦史』に書いた歴史家はだれか。
    答えと解説を見る

    答え:トゥキディデス(トゥキュディデス)

むずかしい

  1. 正しいか誤りか答えよ。「ペロポネソス戦争は、ギリシャのポリスが力を合わせてペルシアと戦った戦争である。」
    答えと解説を見る

    答え:誤り
    ペルシアと戦ったのはペルシア戦争です。ペロポネソス戦争は、アテネとスパルタを中心に、ギリシャ人どうしが戦いました。

  2. ペロポネソス戦争のあと、ポリス社会が衰えた理由を、60字ほどで説明せよ。
    答えと解説を見る

    答えの例:戦争が長びいてポリスの人も土地も疲れ、市民の団結がゆらぎ、傭兵が増えたため、のちにマケドニアに支配される基盤となった。(64字)

    「長期の戦争で疲れた」「傭兵が増えた(市民皆兵がゆらぐ)」「マケドニアの台頭」のうち2つ以上で合格です。

「古代ギリシャとヘレニズム」の章の用語

この章の流れは古代ギリシャとヘレニズムの年表(国と王朝の帯図・同じころの日本つき)で、年の順に確かめられます。

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よくある質問

ペロポネソス戦争とは何ですか?

ペロポネソス戦争とは、前431年から前404年まで、アテネを盟主とするデロス同盟と、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟が戦った、ギリシャ人どうしの戦争です。

ペロポネソス戦争はいつ、だれが勝ちましたか?

前431年に始まり、前404年にスパルタ側が勝ちました。アテネは降伏し、長城壁はこわされ、デロス同盟は解散しました。

ペロポネソス戦争の原因は何ですか?

アテネが同盟を通じて強大になり、スパルタやコリントスなどが恐れと不満をもったためです。歴史家のトゥキディデスは、これが本当の原因だと書いています。

シチリア遠征とは何ですか?

前415年から前413年に、アテネがシチリア島のシラクサを攻めた遠征です。アルキビアデスらが進めましたが大敗し、アテネは多くの船と兵を失いました。

なぜアテネは負けたのですか?

疫病でペリクレスなどを失ったこと、シチリア遠征に大敗したこと、ペルシアの資金でスパルタが海軍を強めたことが大きな理由です。最後はアイゴスポタモイの海戦で艦隊を失いました。

ペロポネソス戦争とペルシア戦争のちがいは何ですか?

ペルシア戦争は前5世紀前半のギリシャ対ペルシアの戦争です。ペロポネソス戦争は前5世紀後半に、アテネとスパルタを中心に、ギリシャ人どうしが戦った戦争です。

ペロポネソス戦争の結果、どうなりましたか?

アテネは降伏して力を失い、勝ったスパルタも長続きしませんでした。ポリス全体が衰え、のちにマケドニアが台頭しました。

ペロポネソス戦争を書いた人はだれですか?

歴史家のトゥキディデス(トゥキュディデス)で、『戦史』に書いています。彼はアテネの将軍でしたが、追放されて戦争を外から見つめました。

ペロポネソス戦争は英語で何といいますか?

Peloponnesian War(ペロポネシアン・ウォー)です。Peloponnese は、ギリシャ南部の半島の名前です。

ペロポネソス戦争は入試でどう出ますか?

共通テストでは、開戦年、両陣営の盟主、ペルシア戦争との区別、トゥキディデスの史料が出ます。2次の論述では、戦後のポリスの衰退を説明させる問題が定番です。

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出典・参考

  • 高校「世界史探究」の教科書の一般的な記述
  • トゥキディデス(トゥキュディデス)『戦史』

最終更新:2026年11月3日/作成:大学受験合格大作戦