アレクサンドロス大王とは?世界史でわかりやすく|東方遠征・地図・ヘレニズム【図解】

世界史用語集 › 第2章 古代ギリシャとヘレニズム

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アレクサンドロス大王あれくさんどろすだいおう

重要度 ★★★★★ (★は合格大作戦の目安)

ひとことで言うと

アレクサンドロス大王とは、マケドニアの王で、前334年から東方遠征をおこない、アケメネス朝ペルシアをほろぼしてインドの入口までを征服した人物です。前323年に32歳で亡くなり、帝国は3つに分かれましたが、ギリシャ文化と東方の文化が出会うヘレニズムのきっかけをつくりました。

読み方あれくさんどろすだいおう
英語Alexander the Great(アレクサンドロス大王/アレクサンダー大王、ギリシャ語 Ἀλέξανδρος)
時代前356〜前323年(東方遠征は前334〜前324年)
地域ギリシャ
章第2章 古代ギリシャとヘレニズム
日本語アレクサンドロス大王(アレクサンダー大王)
父・師フィリッポス2世・アリストテレス
主な戦いイッソス(前333)・ガウガメラ(前331)・ヒュダスペス川(前326)
いっしょに覚える東方遠征・ディアドコイ・ヘレニズム・カイロネイアの戦い

このページのポイント

  • 父フィリッポス2世がカイロネイアの戦い(前338)でポリスをおさえ、アレクサンドロスは前334年に東方遠征を始めた。
  • イッソス(前333)・ガウガメラ(前331)で勝ち、前330年にアケメネス朝が滅亡。インドの入口まで進んで引き返した。
  • 前323年に32歳で死去。帝国は3つに分裂したが、各地のアレクサンドリアを通してヘレニズム文化が広まった。

アレクサンドロス大王をやさしく言うと

アレクサンドロス大王(アレクサンダー大王)は、古代マケドニアの王で、ギリシャからエジプト・ペルシア・インドの入口までを征服し、大帝国をつくった人物です。前356年に生まれ、前323年に、わずか32歳で亡くなりました。

父は、ギリシャのポリスをおさえて強くなったマケドニア王フィリッポス2世です。アレクサンドロスは20歳で王になると、すぐに東へ遠征を始めました。わずか10年ほどで、ペルシア戦争で長いあいだギリシャの敵だったアケメネス朝ペルシアを、ほろぼします。

この遠征によって、ギリシャの文化と東方の文化が出会い、ヘレニズム文化が生まれました。「ヘレニズム時代」は、アレクサンドロスの東方遠征(前334年)から、プトレマイオス朝エジプトの滅亡(前30年)までを指すのがふつうです。

エンリケくん

エンリケくん

32歳で、あんなに大きな国をつくったんですか!

ロダン先生

ロダン先生

すごいよね。しかも、大きな戦いでは一度も負けなかったと伝えられるんだ(伝説的な部分もあるよ)。家庭教師は、あのアリストテレス。頭のよさと、体力と、運のよさがそろっていたんだね。

アレクサンドロス大王のくわしい流れ(登場・遠征・死と後)

① 登場:マケドニアの強大化と、父の死

マケドニアは、ギリシャの北にある王国です。前4世紀なかば、フィリッポス2世のもとで、軍の改革(長い槍をもつ密集部隊や騎兵)が進み、一気に強くなりました。ペロポネソス戦争で疲れたギリシャのポリスは、まとまることができず、前338年のカイロネイアの戦いで、アテネ・テーベの連合軍がマケドニアに敗れます。このとき、18歳のアレクサンドロスも、騎兵を指揮して活躍したと伝わります。

その後フィリッポス2世は、スパルタをのぞくポリスを、コリントス同盟(ヘラス同盟)にまとめ、ペルシア遠征をめざしました。しかし前336年、暗殺されます。王になったアレクサンドロスは、20歳でした。彼は反乱をおさえ、ギリシャを従わせ、父の計画を引きつぎます。

② 東方遠征:ペルシア帝国をほろぼす

前334年、アレクサンドロスはマケドニアとギリシャの連合軍をひきいて、ヘレスポントス海峡をわたり、小アジアに入りました(兵の数は記録によってちがい、はっきりしません)。

  • グラニコス川の戦い(前334):小アジアで、ペルシアの地方の軍に勝ち、小アジアのギリシャ人の町を解放した。
  • イッソスの戦い(前333):ペルシアの王ダレイオス3世が自ら出てきた戦い。アレクサンドロスが勝ち、ダレイオスは逃げた。
  • エジプト征服(前332〜前331):シリアの海ぞいの港テュロスをおとし、エジプトに入った。エジプトでは、ペルシアの支配から解放する者として迎えられたとされる。ナイル川の河口に、自分の名前をつけた都市アレクサンドリアを建てる。
  • ガウガメラの戦い(前331):メソポタミアの平原で、ペルシアの大軍を破った。ダレイオス3世は東へ逃げ、前330年に部下に殺され、アケメネス朝は滅亡した。

そのあと、アレクサンドロスは、バビロン・スサ・ペルセポリスなどのペルシアの都市に入ります。ペルセポリスは、燃やされたと伝わります(理由は、ペルシア戦争の報復とも、宴会の勢いともいわれ、諸説あり)。

カスピ海黒海地中海ペルシア湾 ペラ(マケドニア)グラニコス川イッソステュロスアレクサンドリア ガウガメラバビロンスサペルセポリス 前334〜前332前331〜前330
図1 東方遠征の地図(西半分)。マケドニアから、小アジア・シリア・エジプトをへて、メソポタミアとペルシアの都へ。

③ インドへ、そして引き返す

ダレイオス3世の死後も、アレクサンドロスはさらに東へ進みました。バクトリア・ソグディアナ(今の中央アジア)を平定し、前327年ごろには、現地の有力者の娘ロクサネと結婚します。そして前326年、インドのパンジャーブ地方に入り、ヒュダスペス川の戦いでポロス王を破りました。

ところが、長い遠征につかれた兵士たちは、さらに東のヒュパシス川に着いたところで、進軍をこばみます。アレクサンドロスは、ついにここで進軍をあきらめて引き返しました。帰りは、インダス川を下り、ゲドロシア砂漠をとおる苦しい行軍で、多くの兵を失ったと伝わります。

カスピ海ペルシア湾アラビア海 ペルセポリスエクバタナバクトラマラカンダヒュダスペス川ここで引き返すゲドロシア砂漠スサ 前330〜前326 東へ前325〜前324 帰り道
図2 東方遠征の地図(東半分)。中央アジアからインドへ進み、ヒュパシス川で引き返した。帰りはインダス川とゲドロシア砂漠。

④ 東西の融合と、突然の死

アレクサンドロスは、征服した土地を、ギリシャ人だけで治めようとはしませんでした。ペルシアの王の服や儀式を取り入れ、ペルシア人の貴族を役人に登用します。前324年には、スサで、部下のギリシャ・マケドニアの将軍たちとペルシア人の女性の集団結婚式を行い、自分もダレイオス3世の娘と結婚したと伝わります。この考え方は「東西融合」の政策とよばれます。いっぽう、マケドニア人の兵士の中には、これに不満をもつ者もいました。

また、各地に、自分の名前をつけた都市(アレクサンドリア)をたくさんつくり、ギリシャ人を住まわせました。これらの都市が、ギリシャ文化の広がりの拠点になります。

前323年、アレクサンドロスはバビロンで、急な熱病で亡くなりました(32歳)。病気、毒殺、飲みすぎなど、死因には諸説あり、はっきりしません。後継者を決めないまま亡くなったため、ディアドコイ(後継者)たちの争いが始まります。

⑤ 結果:三つの王国とヘレニズム世界

後継者たちの長い争いのすえ、帝国は、おもに3つの王国に分かれました。

アレクサンドロスの帝国前323 大王の死 → 後継者(ディアドコイ)の争い アンティゴノス朝マケドニア・ギリシャのちにローマにほろぼされる プトレマイオス朝エジプト都はアレクサンドリア前30年にローマにほろぼされる セレウコス朝シリア・メソポタミア・イランの一部東方を失い、のちにローマの支配へ 三つの王国のもとで ヘレニズム文化が広まる
図4 大王の死後に3つの王国に分かれた。アンティゴノス朝・プトレマイオス朝・セレウコス朝。

この3つの王国では、ギリシャ語(コイネー)が共通のことばとして使われ、ギリシャ文化と東方の文化がまざるヘレニズム文化が広まります。エジプトのアレクサンドリアには、研究所ムセイオンと大きな図書館が置かれ、学問が栄えました。

地球儀を指さすロダン先生

ロダン先生

ぼくは世界一周したことがあるけど、アレクサンドロスのルートはまだ全部は回っていないんだ。インドまで行きたいな。カレーの本場だしね。

年表で見るアレクサンドロス大王

前356アレクサンドロスが生まれる前338カイロネイアの戦い(父フィリッポス2世)前336父が暗殺され、20歳で王に前334東方遠征が始まる前333/331イッソス・ガウガメラの戦い前330ダレイオス3世の死(アケメネス朝の滅亡)前326インドへ進むが、兵士が進軍を拒む前323バビロンで死去(32歳)
図3 アレクサンドロス大王の年表。前356年の誕生から前323年の死まで。

年表のなかで、入試にいちばん出るのは前334年(東方遠征の開始)、前330年ごろ(アケメネス朝の滅亡)、前323年(死去)の3つです。前338年のカイロネイアの戦いは、父フィリッポス2世の勝利でポリスの独立が終わったことを示します。

年戦い・できごとポイント
前334グラニコス川の戦い東方遠征の最初の勝利
前333イッソスの戦いダレイオス3世が逃げる
前331ガウガメラの戦いペルシアの大軍を破る
前330ダレイオス3世の死アケメネス朝が滅亡
前326ヒュダスペス川の戦いインドのポロス王を破る
前323バビロンで死去ディアドコイの争いが始まる

整理:アレクサンドロス大王の要点

  1. だれ:マケドニア王。父はフィリッポス2世、師はアリストテレス。
  2. いつ:前336年即位、前334年に東方遠征、前323年に32歳で死去。
  3. どこまで:ギリシャ・エジプト・ペルシアからインドの入口まで。
  4. 政策:東西融合(スサの集団結婚)、各地にアレクサンドリアを建設。
  5. 影響:帝国は3つに分裂。ヘレニズム文化がおこる。

アレクサンドロス大王と関係する人物・用語

人物・用語アレクサンドロスとの関係
フィリッポス2世父。マケドニアを強くし、カイロネイアでポリスに勝つ
アリストテレス少年のころの家庭教師
ダレイオス3世ペルシアの最後の王。イッソス・ガウガメラで敗れる
ヘレニズム文化遠征の結果うまれた東西融合の文化
ペルシア戦争昔の戦い。大王の遠征は、その報復の面もあるとされる
ポリス(都市国家)大王の登場でポリスの独立は失われる
ペロポネソス戦争ポリスの衰えがマケドニアの台頭を許した
ディアドコイ後継者。大王の死後に争った将軍たち

日本語では「アレクサンドロス大王」と呼ぶのが教科書のならわしで、英語では Alexander the Great(アレクサンダー大王)、ペルシア語やアラビア語では「イスカンダル」といいます。ギリシャ文字では「Αλέξανδρος」と書きます。文字の読み方は、ギリシャ文字の読み方一覧を見てみましょう。また、アレクサンドリアで活躍した数学者のユークリッドは、ヘレニズム時代の人です。

サクラちゃん

サクラちゃん

アレクサンドロス大王は、なぜ、ペルシアのやり方を取り入れたんですか?

ロダン先生

ロダン先生

広い国を、ギリシャ人だけで治めるのは無理だったからなんだ。ペルシア人の役人や習慣を使うほうが、うまくいく。それが東西融合だよ。でも、マケドニア人の兵士には「ペルシア人びいきだ」と不満をもつ人もいたんだ。

アレクサンドロス大王でまちがえやすい点

まちがえやすい点

  1. マケドニアはギリシャのポリスではない:ギリシャの北の王国で、ポリスを従えた側。
  2. カイロネイアの戦い(前338)の主役は父:フィリッポス2世がポリス連合に勝った。アレクサンドロスの遠征は、その後(前334)。
  3. ダレイオス1世とダレイオス3世:マラトンの戦いの王はダレイオス1世。アレクサンドロスに敗れたのはダレイオス3世。
  4. ヘレニズムとヘレニズム時代:文化を「ヘレニズム文化」、時代を「ヘレニズム時代」という。
  5. 大王の帝国は「ギリシャ文化だけ」の国ではない:東方の文化もまざった。
  6. 大王の死後、帝国はすぐ分裂した:後継者を決めずに亡くなったため。

入試ではこう出る

  • 共通テスト:東方遠征の開始年(前334)、イッソス・ガウガメラの戦い、アケメネス朝の滅亡、大王の死後の分裂(プトレマイオス朝・セレウコス朝など)が、地図や年代の並べかえとともに出ます。
  • 国公立の2次・論述:「アレクサンドロスの東方遠征がもたらした影響」を、東西文化の融合(ヘレニズム文化)・ギリシャ語の広がり・各地のアレクサンドリアとからめて説明させる問題が定番です。
  • 私大:コリントス同盟、グラニコス川、ガウガメラ、ディアドコイ、コイネー、ムセイオンなどの語句。
  • よくあるひっかけ:カイロネイアの戦いの勝者を、大王にした選択肢。

勉強の進め方は世界史の勉強法【共通テスト対策】、論述の書き方は世界史の論述の書き方(私大・2次試験編)を参考にしてください。

ロダン先生の「これ知ってる?」

ロダン先生

これ知ってる? ゴルディオスの結び目

伝承では、アレクサンドロスは、小アジアのゴルディオンで、「これをほどいた者はアジアの王になる」といわれる複雑な結び目を、剣で断ち切ったといわれるんだ。「難しい問題を、思いきった方法で解決する」ことを、今でも「ゴルディオスの結び目を断つ」と表現するよ。ただし、話は後の時代の伝承で、はっきりしない部分もあるんだ。

ロダン先生

これ知ってる? 愛馬ブケファロス

大王の愛馬は「ブケファロス」という名前で、少年のアレクサンドロスが、だれも乗りこなせなかったこの馬を、影におびえているのを見ぬいて、乗りこなしたという話が有名だよ。これも伝承なので、「諸説あり」と覚えておこう。

ロダン先生

これ知ってる? 世界じゅうにアレクサンドリア

大王は各地に「アレクサンドリア」という名前の都市をつくったと伝わるんだ。いちばん有名なのは、エジプトのアレクサンドリア。ほかにも、アフガニスタンのカンダハル(アレクサンドリアが語源といわれる)など、名前の名残りがある都市があるよ。

練習問題

やさしい

  1. 前334年に東方遠征をおこない、ペルシア帝国をほろぼしたマケドニア王はだれか。
    答えと解説を見る

    答え:アレクサンドロス大王
    父はフィリッポス2世です。

  2. アレクサンドロスが、エジプトのナイル川の河口に建てた都市を何というか。
    答えと解説を見る

    答え:アレクサンドリア
    のちにヘレニズム文化の中心になりました。

ふつう

  1. 前333年に、アレクサンドロスがペルシア王ダレイオス3世を破った戦いを何というか。
    答えと解説を見る

    答え:イッソスの戦い
    前331年のガウガメラの戦いでも、ペルシア軍に勝ちました。

  2. アレクサンドロスの死後、帝国が分かれてできた王国を1つあげよ。
    答えと解説を見る

    答え:プトレマイオス朝(エジプト)・セレウコス朝(シリアなど)・アンティゴノス朝(マケドニア)のどれか

むずかしい

  1. 正しいか誤りか答えよ。「カイロネイアの戦い(前338年)でギリシャのポリス連合を破ったのは、アレクサンドロス大王である。」
    答えと解説を見る

    答え:誤り
    このときの王は父のフィリッポス2世です。アレクサンドロスは騎兵の指揮官として参加しましたが、王として東方遠征を始めるのは前334年です。

  2. アレクサンドロスの東方遠征が、東西の文化交流を進めた理由を、60字ほどで説明せよ。
    答えと解説を見る

    答えの例:遠征の結果、ギリシャからインドの入口までが一つの帝国になり、各地にアレクサンドリアなどが建てられ、ギリシャ語と文化が東方に広まったため。(67字)

    「広い地域が一つになった」「ギリシャ文化・ギリシャ語が広がった」の2点が入れば合格です。

「古代ギリシャとヘレニズム」の章の用語

この章の流れは古代ギリシャとヘレニズムの年表(国と王朝の帯図・同じころの日本つき)で、年の順に確かめられます。

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よくある質問

アレクサンドロス大王とはどんな人ですか?

アレクサンドロス大王とは、マケドニアの王で、前334年から東方遠征をおこない、アケメネス朝ペルシアをほろぼしてインドの入口までを征服した人物です。前323年に32歳で亡くなりました。

アレクサンドロス大王はいつの人ですか?

前356年に生まれ、前336年に20歳で王になり、前323年にバビロンで亡くなりました。東方遠征は前334年に始まりました。

アレクサンドロス大王は何をしましたか?

東方遠征で、小アジア・シリア・エジプト・ペルシアを征服し、インドの入口まで進みました。各地にアレクサンドリアという都市をつくり、東西融合の政策もおこないました。

アレクサンドロス大王の家庭教師はだれですか?

哲学者のアリストテレスです。父のフィリッポス2世が、少年のアレクサンドロスの教師としてまねいたと伝わります。

東方遠征で重要な戦いは何ですか?

グラニコス川(前334)、イッソス(前333)、ガウガメラ(前331)の戦いが重要です。ガウガメラのあとダレイオス3世が殺され、アケメネス朝が滅亡しました。

アレクサンドロス大王はどうして亡くなりましたか?

前323年、バビロンで急な熱病にかかり、32歳で亡くなりました。病気や毒殺など死因には諸説があり、はっきりしません。

アレクサンドロス大王の死後、どうなりましたか?

後継者(ディアドコイ)たちが争い、帝国はアンティゴノス朝・プトレマイオス朝・セレウコス朝などに分かれました。ギリシャ文化と東方文化がまざるヘレニズム文化が広まりました。

東西融合とは何ですか?

アレクサンドロスが、ペルシアの習慣や役人を取り入れ、前324年のスサの集団結婚式などでギリシャ人とペルシア人の結びつきを進めた政策のことです。

アレクサンドロス大王は英語で何といいますか?

Alexander the Great(アレクサンダー・ザ・グレート)です。ペルシア語やアラビア語では、イスカンダルとよばれます。

アレクサンドロス大王は入試でどう出ますか?

共通テストでは、東方遠征の年・戦い・大王の死後の王国が、地図や並べかえで出ます。2次の論述では、東方遠征の影響やヘレニズム文化との関係を説明させる問題が定番です。

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出典・参考

  • 高校「世界史探究」の教科書の一般的な記述
  • アッリアノス『アレクサンドロス東征記』
  • プルタルコス『英雄伝』(アレクサンドロスの伝)

最終更新:2026年11月3日/作成:大学受験合格大作戦