陶片追放とは?世界史でわかりやすく|クレイステネス・オストラキスモス・追放された人【図解】

世界史用語集 › 第2章 古代ギリシャとヘレニズム

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陶片追放とうへんついほう

重要度 ★★★★★ (★は合格大作戦の目安)

ひとことで言うと

陶片追放とは、古代アテネで、僭主になりそうな有力者を陶片への投票で10年間国外に出した制度です。ギリシャ語でオストラキスモスといい、伝承ではクレイステネスが考えました。罪を裁く刑罰ではなく、権力の集中を防ぐ安全装置でした。

読み方とうへんついほう
英語ostracism(ギリシャ語 ὀστρακισμός オストラキスモス)、陶片は ostrakon(複数形 ostraka)
時代前5世紀を中心に(最初の例は前488/487年ごろ)
地域ギリシャ
章第2章 古代ギリシャとヘレニズム
日本語陶片追放(とうへんついほう)
考案者(伝承)クレイステネス
追放の期間10年(財産・市民権は残る)
いっしょに覚える僭主・クレイステネスの改革・テミストクレス・民会

このページのポイント

  • 陶片(オストラコン)に追放したい人の名前を書き、最も多かった人を10年間国外へ。刑罰ではなく、財産と市民権は残る。
  • 目的は僭主の出現を防ぐこと。ペイシストラトスの僭主政治の経験から、クレイステネスが整えたと伝わる。
  • アリステイデス・テミストクレス・キモンなど有名人も追放された。前5世紀後半に使われなくなった。

陶片追放をやさしく言うと

陶片追放(とうへんついほう)は、古代アテネで、危ない人物を投票で10年間、国の外へ出す制度です。ギリシャ語ではオストラキスモス、英語では ostracism(オストラシズム)といいます。名前を書くのにこわれた焼き物のかけら(陶片=オストラコン)を使ったので、この名前がつきました。

ねらいは「僭主(せんしゅ)を出さないこと」です。僭主とは、法ではなく力で政治を取って、ひとりじめする支配者のことです。ペイシストラトスの僭主政治を経験したアテネの人々は、権力が1人に集まりすぎる前に、その人をいったん遠ざけようと考えました。

大事なのは、これが刑罰ではないことです。裁判はなく、罪も問いません。追放されても財産は没収されず、10年たてば市民として帰れました。「悪いことをしたから罰する」のではなく、「強くなりすぎたから、しばらく離れてもらう」という、政治のための安全装置だったのです。

① 民会で「やるか」を決める毎年1回、市民が「今年は陶片追放をするか」を投票② アゴラで陶片に名前を書く追放したい人の名前を、こわれた焼き物のかけらに書く③ 票を数える最も多く名前が書かれた人が対象④ 10年間、国外へ期限つき。財産も市民権も残り、10年後に帰れる
図1 陶片追放のしくみ。民会で実施を決め、アゴラで陶片に名前を書き、最も多い人が10年間国外へ。
エンリケくん

エンリケくん

投票で人を追い出すんですか! 悪いことをしていなくても?

ロダン先生

ロダン先生

そうなんだ。悪人かどうかは関係ない。強すぎる人は国をこわすかもしれないという、予防の考え方なんだよ。

エンリケくん

エンリケくん

ちょっとこわい制度ですね…。でも、1人に全部決められるのもこわいか。

陶片追放のくわしい流れ(なぜ生まれたか・やり方・結果)

① なぜ生まれたか:僭主政治への恐れ

アテネでは前6世紀に、ソロンの改革のあと、貴族と平民の争いが続きました。その混乱の中で、前561年ごろペイシストラトスが僭主として権力を握ります。彼は一度追われても何度ももどり、長く支配しました。その死後、子のヒッピアスが跡をつぎましたが、前510年に追放されます。

「また僭主が出たらどうするか」。この心配に答えたのが、前508/507年ごろのクレイステネスの改革でした。彼は10の新しい部族をつくり、500人評議会を整えて、市民が決める政治の土台を築きます。陶片追放も、伝承ではこのクレイステネスが考えた制度とされます。ただし、実際に法ができた年や、最初に使われた年には諸説ありです。アリストテレスの書いた記録(『アテナイ人の国制』)では、最初の追放は前488/487年ごろで、僭主の親せきだったヒッパルコスがその対象でした。

② 実際のやり方

手順は次のとおりと伝えられます。

  1. 民会で「やるか、やらないか」を決める:毎年、一定の時期に開かれる民会で、今年は陶片追放をするかどうかを投票しました。やらないと決まれば、その年は何も起きません。
  2. アゴラで陶片に名前を書く:やると決まると、後日、アゴラ(広場)の一角に柵をつくり、市民が集まりました。各自が、追放したい人の名前を陶片に書いて入れます。
  3. 票を数える:一定数以上の票が集まらなければ不成立でした。必要な数は、古代の記録で6000票と伝わりますが、「全部で6000票」か「1人に6000票」かは解釈が分かれます(諸説あり)。
  4. 最も多い人が追放される:その人は10日以内に国を出て、10年間もどれません。ただし財産は残り、市民権も失いません。
ΘΕΜΙΣΤΟΚΛΗΣ ΝΕΟΚΛΕΟΥΣ テミストクレス(ネオクレスの子)と書かれた陶片(イメージ図) 陶片=ギリシャ語で オストラコン 投票用の紙のかわり
図2 陶片(オストラコン)。こわれた焼き物のかけらに名前を書いて投票した。紙のかわりに、道ばたに散らばる陶器の破片を使えた。

なぜ陶片だったのでしょうか。古代の地中海では、紙にあたるパピルスは高価でした。いっぽう、割れた壺のかけらは町じゅうに落ちていて、ただで手に入ります。ひっかいて文字を書くこともできたのです。20世紀以降のアテネの発掘では、名前の書かれた陶片が数千点以上見つかっています。中には、同じ筆跡の陶片がまとまって出てきた例もあり、「あらかじめ書いたものを配った人がいたのではないか」と考えられています(諸説あり)。

③ 追放された人々

追放された人には、有名な政治家が多くいます。年は説によって少しずれることがあるので、「前○世紀の前半」くらいの目安で覚えれば十分です。

  • アリステイデス(前482年ごろ):サラミスの海戦の前に追放されましたが、のちに呼びもどされました。「正義の人」と呼ばれた、と伝わります。
  • テミストクレス(前471年ごろ):サラミスの海戦の立役者でしたが、のちに追放され、最後はペルシア領に逃れたと伝わります。
  • キモン(前461年):スパルタと仲のよい政治家で、ペリクレスの側と対立して追放されました。
  • ヒュペルボロス(前417年ごろ):最後の例とされる人物です。

アリステイデスにはこんな伝承があります。字の書けない農民が、アリステイデスと知らずに「アリステイデス、と書いてくれ」と頼みました。「その人に何か恨みでも?」と聞くと、「いや、みんなが『正義の人』『正義の人』とほめるのが、うるさくてね」と答えたというのです。あくまで後世の話ですが、陶片追放が「悪人狩り」ではなく、人気や力そのものを警戒する制度だったことをよく表しています。

前6世紀 僭主ペイシストラトスの支配1人の力が強すぎて、市民が自由に決められなかった 「二度と僭主を出すな」という気持ち僭主の子は追放したが、再び現れる心配が残った クレイステネスの改革(前508/507ごろ)10部族制・500人評議会など、市民が決める政治を整えた ↓ 陶片追放(前488/487ごろ最初)
図4 陶片追放が生まれた流れ。僭主政治の経験 → 二度と出させないという思い → クレイステネスの改革 → 陶片追放。

④ のちにどうなったか

陶片追放が最後に使われたのは、前417年ごろのヒュペルボロスの例とされます。ペロポネソス戦争のさなか、有力者のニキアスとアルキビアデスが争っていました。伝承では、この2人が手を組んで、ヒュペルボロスに票が集まるように仕向けたといいます。ふさわしくない人物が追放されたことで、制度への信頼がうすれ、このあと実際に使われることは二度とありませんでした。その後は、法にそむいた提案を裁く別のしくみなどが使われるようになります。

本を持って説明するロダン先生

ロダン先生

陶片はもう1つ、とても大事なんだ。文字の読み書きができた市民がたくさんいた証拠にもなるんだよ。

年表と地図で見る陶片追放

前487ヒッパルコス(僭主の親せき)前484クサンティッポス(ペリクレスの父)前482アリステイデス前471ごろテミストクレス前461キモン前443トゥキディデス(政治家)前417ごろヒュペルボロス(最後の例とされる)
図3 陶片追放された人々(年は説によってずれる)。前487年のヒッパルコスから前417年ごろのヒュペルボロスまで。

この年表で目立つのは、前5世紀の前半に、有名な人物が次々と追放されていることです。ちょうどペルシア戦争の流れのころで、国のかじ取りをめぐって激しい争いがありました。強い意見を持つ人ほど、人気があるぶん、陶片に名前を書かれやすかったのです。

同じ前5世紀のアテネで、陶片追放は次のように位置づけられます。

年代アテネでの出来事陶片追放との関係
前561ごろペイシストラトスが僭主になる追放制度が生まれる原因
前510僭主ヒッピアスの追放「二度と僭主を出さない」思い
前508/507クレイステネスの改革制度の考案者とされる(伝承)
前488/487最初の陶片追放(ヒッパルコス)実際に使われ始める
前480サラミスの海戦追放された人が呼びもどされる
前471ごろテミストクレスの追放英雄でも追放された
前417ごろヒュペルボロスの追放最後の例とされる

整理:陶片追放の5つのポイント

  1. だれが:アテネの成年男性市民が投票する(アテネの民主政のしくみの一部)。
  2. いつ:前5世紀を中心に行われた。考案者は伝承ではクレイステネス。
  3. なにを:陶片に名前を書き、最も多い人を10年間国外へ。
  4. なぜ:僭主の出現を防ぐため。
  5. 注意:刑罰ではない。財産・市民権は残る。

陶片追放と関係する人物・用語

用語・人物陶片追放との関係
クレイステネスの改革制度の考案者とされる。民主政の土台をつくった
ペイシストラトスの僭主政治追放制度が生まれた原因
アテネの民主政陶片追放はその安全装置
サラミスの海戦テミストクレスが活躍。のちに追放された
ペリクレスの政治対立したキモンが追放された
デロス同盟キモンの時代にアテネが同盟の盟主として成長
ポリスの市民投票できたのは成年男性の市民だけ

英語の ostracize(のけ者にする)は、この制度が語源です。今も「仲間はずれにする」という意味で使われます。ギリシャ語の文字そのものに興味がある人は、ギリシャ文字の読み方一覧もどうぞ。陶片に書かれた名前の文字が読めるようになります。

サクラちゃん

サクラちゃん

追放した人は、どうやってもどってくるんですか?

ロダン先生

ロダン先生

10年たてば、そのまま帰れるんだ。大きな戦争が起きて、「あの人の力が必要だ」と、10年より前に呼びもどされた人もいるよ。アリステイデスがそうだったと伝わるんだ。

サクラちゃん

サクラちゃん

追い出したのに、困ったら呼ぶんですね!

陶片追放でまちがえやすい点

まちがえやすい点

  1. 刑罰だと思う:罪を裁く制度ではありません。財産は残り、市民権も失わず、10年後に帰れました。
  2. 追放期間を「一生」と書く:期間は10年です。
  3. 民会の議決と混同する:「今年やるか」を決める投票は民会で、名前を書く投票はアゴラで行いました。
  4. 考案者を「ソロン」や「ペリクレス」にする:伝承では考案者はクレイステネスです。時代が早いソロンや、あとのペリクレスではありません。
  5. 陶片追放の対象を「悪人」とする:目的は、僭主になりそうな有力者を遠ざけること。人気や力が強すぎる人が対象でした。
  6. ずっと続いたと思う:前5世紀後半ごろに使われなくなりました。

入試ではこう出る

  • 共通テスト:「陶片追放を始めた改革者はだれか(クレイステネス)」「その目的は何か(僭主の出現を防ぐ)」を選ぶ問題が基本です。「投票で国外追放した」を、史料や文の正誤の形で問われることもあります。
  • 用語の穴うめ:オストラキスモス(陶片追放)、僭主、クレイステネス、10年といった組み合わせ。
  • 国公立の2次・論述:「クレイステネスの改革の内容と目的」を、10部族制・500人評議会・陶片追放の3つをあげて説明させる問題がよく出ます。陶片追放だけでなく、「僭主を防ぐ」という目的まで書けると強いです。
  • 私大:陶片追放された人物(テミストクレスなど)とその理由を問う問題。

論述の書き方は世界史の論述の書き方(私大・2次試験編)、共通テストの対策は世界史の勉強法【共通テスト対策】を見てください。

ロダン先生の「これ知ってる?」

ロダン先生

これ知ってる? 「オストラシズム」は今も使われる

陶片追放の ostracism は、今の英語でも「のけ者にすること」「村八分」の意味で使われるんだ。オストラコン(陶片)は、日本語の「牡蠣(かき)の殻」にあたる語(ostreon、オイスターのもと)と同じ仲間だよ。かたい殻やかけらのことなんだ。

ロダン先生

これ知ってる? 偽の票のたくらみも見つかっている

同じ筆跡で書かれた陶片が、井戸の中からまとめて見つかったことがあるんだ。だれかが「この名前を書いて入れて」と配ったのではないかと考えられているよ。2000年以上前から、投票の不正をたくらむ人はいたのかもしれない(はっきりしない部分もあるんだ)。

ロダン先生

これ知ってる? じつはカレーにも使える?

陶片で投票するのは楽しそうだけど、ぼくの好物のカレーは皿に盛らないと食べにくいんだよね。割れた壺のかけらでは、こぼれてしまいそうだ。

練習問題

やさしい

  1. 古代アテネで、僭主になりそうな人物を投票で国外に出した制度を何というか。
    答えと解説を見る

    答え:陶片追放(オストラキスモス)
    陶片(オストラコン)に名前を書いて投票したので、この名前になりました。

  2. 陶片追放で追放された人は、何年間、国外に出なければならなかったか。
    答えと解説を見る

    答え:10年間
    財産は残り、市民権も失いませんでした。

ふつう

  1. 陶片追放を考えたと伝えられる、前508/507年ごろの改革者はだれか。
    答えと解説を見る

    答え:クレイステネス
    10部族制や500人評議会もつくりました。

  2. 陶片追放の目的として最も適切なものを、次から選べ。ア 悪人を罰する イ 僭主の出現を防ぐ ウ 奴隷を解放する エ 外国から人を追い出す
    答えと解説を見る

    答え:イ
    罪を裁く制度ではなく、権力がひとりに集まるのを防ぐ制度でした。

むずかしい

  1. 正しいか誤りか答えよ。「陶片追放で追放された人は、財産をすべて没収され、市民権も失った。」
    答えと解説を見る

    答え:誤り
    追放は10年の期限つきで、財産は残り、市民権も失いませんでした。刑罰ではなく、政治のための安全装置です。

  2. 陶片追放がつくられた理由を、アテネの歴史にふれながら60字ほどで説明せよ。
    答えと解説を見る

    答えの例:アテネは前6世紀にペイシストラトスの僭主政治を経験したため、僭主になりそうな有力者を投票で10年間国外へ出し、権力の集中を防ごうとした。(68字)

    「僭主政治の経験」と「権力の集中を防ぐ」の2点が入れば合格です。

「古代ギリシャとヘレニズム」の章の用語

この章の流れは古代ギリシャとヘレニズムの年表(国と王朝の帯図・同じころの日本つき)で、年の順に確かめられます。

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あわせて読みたい(合格大作戦の記事)

よくある質問

陶片追放とは何ですか?

陶片追放とは、古代アテネで、僭主になりそうな有力者を投票で10年間国外に出した制度です。陶片(オストラコン)に名前を書いて投票したので、この名前がつきました。

陶片追放はいつ、だれが始めましたか?

伝承では、前508/507年ごろの改革者クレイステネスが考えたとされます。記録に残る最初の追放は前488/487年ごろです。制度ができた年には諸説あります。

なぜ陶片追放が必要だったのですか?

アテネがペイシストラトスの僭主政治を経験したためです。力が強すぎる人を早めに遠ざけ、権力が一人に集まるのを防ぐねらいがありました。

どうやって投票したのですか?

まず民会で、今年は陶片追放をするかを決めます。行うと決まれば、アゴラで陶片に追放したい人の名前を書き、最も多く名前が書かれた人が追放されました。

追放されるとどうなりますか?

10年間、アテネを離れなければなりません。ただし財産は没収されず、市民権も失わず、期限が終われば帰国できました。罰ではなく政治のための制度です。

陶片追放された有名な人はだれですか?

アリステイデス、テミストクレス、キモンなどがいます。テミストクレスはサラミスの海戦の立役者でしたが、のちに追放され、ペルシア領に逃れたと伝わります。

陶片追放と刑罰のちがいは何ですか?

刑罰は罪を裁いて罰を与えますが、陶片追放は裁判がなく、罪も問いません。権力が強くなりすぎた人を、期限つきで遠ざける政治的な制度でした。

陶片追放は英語で何といいますか?

ostracism(オストラシズム)です。ギリシャ語のオストラキスモスが語源で、今の英語では「のけ者にすること」という意味でも使われます。

陶片追放はなぜ使われなくなったのですか?

前417年ごろ、有力者の策略でヒュペルボロスが追放されたと伝わります。ふさわしくない人が追放されたことで、制度への信頼がなくなり、使われなくなったとされます。

陶片追放は入試でどう出ますか?

共通テストでは、考案者(クレイステネス)と目的(僭主の出現を防ぐ)が基本です。2次の論述では、クレイステネスの改革の内容と目的を説明させる問題が出ます。

あわせて読みたい

出典・参考

  • 高校「世界史探究」の教科書の一般的な記述
  • アリストテレス(とされる)『アテナイ人の国制』
  • プルタルコス『英雄伝』(アリステイデス・テミストクレスの伝)

最終更新:2026年11月3日/作成:大学受験合格大作戦