テオドシウス帝とは?世界史でわかりやすく|キリスト教の国教化と帝国の東西分裂【図解】

世界史用語集 › 第3章 古代ローマ

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テオドシウス帝ておどしうすてい

重要度 ★★★★★ (★は合格大作戦の目安)

ひとことで言うと

テオドシウス帝とは、キリスト教(ニケーア派)をローマ帝国の国教とし(380年・392年)、帝国全体を1人で治めた最後の皇帝です。395年に亡くなり、帝国は東西に分かれました。公認はコンスタンティヌス、国教化はテオドシウスです。

読み方ておどしうすてい
英語Theodosius I
時代379年〜395年(在位)
地域ローマ
章第3章 古代ローマ
在位379〜395年(帝国全体を治めたのは394〜395年)
2つの大事な出来事キリスト教の国教化(380年・392年)・帝国の東西分裂(395年)
関わった人アンブロシウス(ミラノ司教)・グラティアヌス・ウァレンス
いっしょに覚えるアドリアノープルの戦い・コンスタンティノープル公会議(381年)

このページのポイント

  • 380年にニケーア派を国教とし、392年にほかの宗教の祭りを禁止した。公認(コンスタンティヌス)とは別。
  • 390年、ミラノ司教アンブロシウスに責められて悔い改めた。教会の力が強まる流れを示す話。
  • 395年、死後に2人の息子に分けられ、帝国は東西に分裂。西は476年に滅亡、東は1453年まで続いた。

テオドシウス帝をやさしく言うと

テオドシウス帝(テオドシウス1世、在位379〜395)は、キリスト教をローマ帝国の国教にした皇帝です。そして、帝国全体を1人で治めた最後の皇帝として知られ、亡くなったあと、帝国は東と西に分かれました(395年)。

2つの大きな出来事を、まとめて覚えましょう。

  • 国教化:380年にニケーア派(アタナシウス派)のキリスト教を国の宗教とし、392年にほかの宗教の祭りを禁止した。
  • 東西分裂:395年、2人の息子に帝国を分けて残した。このあと、東西が1人の皇帝に治められることは、もうありませんでした。
黒海地中海アフリカ 西ローマ帝国東ローマ帝国 息子ホノリウス息子アルカディウス ローマミラノ(395年没) コンスタンティノープル
図1 395年の東西分裂。バルカン半島の西寄りを通る線で、西ローマ帝国と東ローマ帝国に分かれた(模式図)。
エンリケくん

エンリケくん

キリスト教を国教にした皇帝は、コンスタンティヌスじゃないんですか?

ロダン先生

ロダン先生

よく出る引っかけだよ。コンスタンティヌスは「公認」、テオドシウスは「国教」。公認が先、国教があと。このセットを覚えておけば大丈夫だ。

テオドシウス帝のくわしい流れ(国教化から東西分裂まで)

① 即位:大きな敗戦のあとで

テオドシウスは、属州ヒスパニア(今のスペイン)の出身の軍人です。375年ごろ、フン人に追われたゴート人が帝国の中に入ってきました。378年のアドリアノープルの戦いで、東の皇帝ウァレンスがゴート人に敗れて戦死します。この危機のなか、西の皇帝グラティアヌスが、379年にテオドシウスを東の皇帝にしました。テオドシウスは、ゴート人の一部を、同盟者として帝国の中に住まわせて、戦いをしずめました(382年)。

② 380年:ニケーア派を国教に

380年、テオドシウスは、テッサロニキで勅令を出し、「帝国のすべての人々は、ローマの教会が伝える信仰(ニケーア派)に従え」と命じました。これが、キリスト教の国教化の始まりとされます。翌381年には、コンスタンティノープルで公会議を開き、ニケーア公会議(325年)で決まった教えを確認し、三位一体の教えを固めました。

③ 392年:ほかの宗教を禁止

テオドシウスは、その後、昔ながらのローマの神々への祭り(異教)を、少しずつ禁止していきました。392年にはその祭りを全面的に禁止します。教科書では、この392年をキリスト教の国教化の年として説明することも多いです。ミラノ勅令(313年)では「みんなの宗教の自由を認めた」ことと比べると、大きな変化です。

④ ミラノ司教アンブロシウスとの対決

390年、テッサロニキで反乱が起き、テオドシウスは軍を送って多くの市民を殺させました。ミラノの司教アンブロシウスは、この行いを強く責め、「悔い改めるまで、教会の礼拝に入れない」としました。皇帝は、人々の前で罪を悔い改めたと伝えられます。皇帝でも、教会の前では1人の信者だったことを示す話として有名で、のちの中世の「教会と国王の関係」にもつながります。

⑤ 394〜395年:再統一と、東西分裂

394年、テオドシウスは西で皇帝を名のった人物をたおし、ふたたび帝国全体を1人で治める皇帝になりました。ところが翌395年、ミラノで病気で亡くなります。帝国は、長男アルカディウスが東、次男ホノリウスが西を受けつぐことになりました。2人とも若く、実際の政治は周りの有力者や将軍が動かしていたといわれます。

テオドシウス自身は「分裂させよう」としたというより、息子たちに分けて残したのでしょう。ところが、このあと帝国が1人の皇帝のもとにまとまることは、ありませんでした。西ローマ帝国は、ゲルマン人の侵入で弱まり、476年にほろびます。東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は、コンスタンティノープルを都に、1453年まで続きました。

地図と年表で見るテオドシウス帝

375フン人に追われ、ゴート人が移動378アドリアノープルの戦いで皇帝戦死380ニケーア派を国教とする勅令381コンスタンティノープル公会議392ほかの宗教の祭りを禁止394帝国を1人で治める395死去。帝国が東西に分かれる476西ローマ帝国がほろびる1453東ローマ(ビザンツ)帝国がほろびる
図2 テオドシウス帝の時代の年表。380年の国教化と395年の東西分裂が最大のポイント。
年表の巻物を広げるロダン先生

ロダン先生

380年(国教)、392年(異教を禁止)、395年(東西分裂)。テオドシウスの年号は、この3つを押さえよう。

西ローマ帝国東ローマ帝国皇帝ホノリウス(弟)アルカディウス(兄)都ミラノのちラヴェンナコンスタンティノープル特色ゲルマン人の侵入で弱っていく経済が豊かで守りもかたい言語・文化ラテン語ローマの文化ギリシャ語ギリシャの文化その後476年にほろびる1453年まで続く(ビザンツ帝国)
図3 東西に分かれた後のちがい。西は476年にほろび、東は1453年まで続いた。

整理:テオドシウス帝

国教化:380年ニケーア派を国教に・392年ほかの宗教を禁止。東西分裂:395年、死後に2人の息子に分けて残し、東西が別々になった。そのあと:西は476年に滅亡、東は1453年まで続く。

テオドシウス帝と関係する人物・用語

用語テオドシウス帝との関係
コンスタンティヌス帝キリスト教を公認(国教にしたのはテオドシウス)
ミラノ勅令公認。国教化との区別が大事
ニケーア公会議381年に、その教えを確認した
ディオクレティアヌス帝四帝分治制。東西分裂とは別
軍人皇帝時代3世紀の混乱。4世紀の立て直しのもと
コロナトゥス(コロヌス制)4世紀の社会のしくみ

古代ローマの年号の練習には、ローマ数字一覧表(1〜3000)と書き方の法則が役に立ちます。395年は「CCCXCV」と書きます。

サクラちゃん

サクラちゃん

ローマ帝国が東西に分かれたあと、「ローマ」は2つあったんですか?

ロダン先生

ロダン先生

そうとも言えるね。西は476年にほろんだけれど、東は「ローマ帝国」を名のり続けた。今の歴史では、東を「ビザンツ帝国」と呼ぶことが多いよ。ギリシャ語を話し、キリスト教の教会(東方教会)が中心になった国だ。

テオドシウス帝でまちがえやすい点

まちがえやすい点

  1. 公認と国教を逆にする:公認はコンスタンティヌス(313年)、国教はテオドシウス(380・392年)。
  2. 東西分裂を四帝分治制と混ぜる:四帝分治制はディオクレティアヌス(293年)。東西分裂は395年、テオドシウスの死後。
  3. 395年に西ローマ帝国がほろびたと思う:395年は東西に分かれた年。西ローマ帝国の滅亡は476年。
  4. テオドシウス2世と混ぜる:テオドシウス2世は、5世紀前半の東の皇帝(テオドシウス法典を編集させた)。
  5. テオドシウスが「帝国を2つに分けるつもり」だったと決めつける:2人の息子に分けて残したことが、東西分裂のはじまりとなった。

テオドシウス帝は入試ではこう出る

  • 共通テスト:「キリスト教の国教化=テオドシウス」「公認=コンスタンティヌス」の区別が、定番の引っかけです。395年の東西分裂も問われます。
  • 国公立の2次・論述:キリスト教の迫害・公認・国教化の流れや、ローマ帝国の東西分裂とその後(西は滅亡、東は存続)を説明させる問題が考えられます。
  • 私大:アンブロシウス、アドリアノープルの戦い、異教の禁止、東西分裂の細かい年代など。

勉強の進め方は世界史の勉強法その2【共通テスト対策】と世界史の論述の書き方(私大・2次試験編)を見てください。

ロダン先生の「これ知ってる?」

ロダン先生

これ知ってる? オリンピックを終わらせた皇帝?

古代オリンピアの祭典は、393年にテオドシウスが廃止した、と伝えられることがあるんだ。異教の祭りを禁止したことと結びつけた話だよ。ただ、実際にはっきりした命令があったのかは、確かではないとされる。「諸説あり」の話なんだ。

ロダン先生

これ知ってる? 皇帝が教会の前で悔い改めた

390年のテッサロニキの事件のあと、ミラノのアンブロシウス司教が皇帝を責めて、皇帝が人々の前で悔い改めたといわれる。のちに「教会が国王よりえらい」という考えの先ぶれとして語られるんだ。中世の「カノッサの屈辱」と並べて覚えると、きれいに整理できるよ。

ロダン先生

これ知ってる? 「ローマ」はまだ続いていた

西ローマ帝国がほろんだ476年は「ローマ帝国の終わり」と習うけれど、東のローマ帝国は、その後も約1000年続いた。ビザンツの人々は、自分たちをずっと「ローマ人」と呼んでいたんだよ。

地球儀を指さすロダン先生

ロダン先生

395年に東と西に分かれて、1000年以上別々の道を歩んだ。西はヨーロッパへ、東はビザンツへ。世界史の分かれ道だね。

練習問題

やさしい

  1. キリスト教(ニケーア派)をローマ帝国の国教とした皇帝はだれか。
    答えと解説を見る

    答え:テオドシウス帝
    380年にニケーア派を国教とし、392年にほかの宗教の祭りを禁止しました。

  2. 395年に、ローマ帝国は何と何に分かれたか。
    答えと解説を見る

    答え:西ローマ帝国と東ローマ帝国
    2人の息子に分けて残されました。

ふつう

  1. 西ローマ帝国がほろびた年を答えよ。
    答えと解説を見る

    答え:476年
    395年は東西が分かれた年で、滅亡の年ではありません。

  2. テオドシウス帝に罪を悔い改めさせた、ミラノの司教はだれか。
    答えと解説を見る

    答え:アンブロシウス

むずかしい

  1. 正しいか誤りか答えよ。「ミラノ勅令によって、キリスト教はローマ帝国の国教となった。」
    答えと解説を見る

    答え:誤り
    ミラノ勅令(313年)は公認です。国教にしたのは、テオドシウス帝(380年・392年)です。

  2. 395年にローマ帝国が東西に分かれた経緯と、その後の西と東のちがいを、60字ほどで説明せよ。
    答えと解説を見る

    答えの例:テオドシウス帝の死後、2人の息子に分けられて東西に分かれ、西は476年に滅亡し、東はビザンツ帝国として存続した。

    「テオドシウスの死後に息子へ」「西は滅亡、東は存続」の2点が入れば合格です。

「古代ローマ」の章の用語

この章の流れは古代ローマの年表(国と王朝の帯図・同じころの日本つき)で、年の順に確かめられます。

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よくある質問

テオドシウス帝とはどんな皇帝ですか?

379年から395年までのローマ皇帝です。キリスト教(ニケーア派)を国教とし、ほかの宗教の祭りを禁止しました。帝国全体を1人で治めた最後の皇帝で、死後に帝国は東西に分かれました。

キリスト教を国教にしたのはだれですか?

テオドシウス帝です。380年にニケーア派を国の宗教とし、392年にほかの宗教の祭りを禁止しました。公認(313年)はコンスタンティヌス帝で、別の出来事です。

公認と国教化はどうちがいますか?

公認は、キリスト教も信じてよいと認めること(313年・ミラノ勅令)。国教化は、キリスト教を国の公式の宗教として、ほかの宗教を禁止していくこと(380年・392年)です。

ローマ帝国はいつ東西に分かれましたか?

395年です。テオドシウス帝が亡くなり、長男アルカディウスが東、次男ホノリウスが西を受けついだことで、東西に分かれました。以後は1人の皇帝のもとに戻りませんでした。

東西分裂と四帝分治制はどうちがいますか?

四帝分治制は、ディオクレティアヌスが1つの帝国を4人で治めたしくみ(293年)。東西分裂は、395年に帝国が東ローマと西ローマの2つに分かれたことです。

西ローマ帝国はいつほろびましたか?

476年です。ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルが、最後の皇帝を退位させました。395年は、東西が分かれた年で、滅亡の年ではありません。

東ローマ帝国はどうなりましたか?

コンスタンティノープルを都に、ギリシャ語とギリシャ正教の文化をもつビザンツ帝国として、1453年まで続きました。西が滅んだあとも、約1000年続いた国です。

アンブロシウスとはだれですか?

4世紀のミラノの司教です。390年のテッサロニキでの市民の殺害について、テオドシウス帝を責め、悔い改めさせたと伝えられます。教会の力が強まる流れを示す人物です。

アドリアノープルの戦いとは何ですか?

378年に、ゴート人が東の皇帝ウァレンスを破って戦死させた戦いです。大敗のあと、テオドシウスが東の皇帝になりました。ゲルマン人の大移動の時代の始まりを示す事件でもあります。

テオドシウス帝は入試でどう出ますか?

共通テストでは、国教化(テオドシウス)と公認(コンスタンティヌス)の区別、395年の東西分裂が出ます。論述では、キリスト教の公認から国教化への流れや、西は滅亡・東は存続の対比が問われます。

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出典・参考

  • 高校「世界史探究」の教科書の一般的な記述

最終更新:2026年11月3日/作成:大学受験合格大作戦