世界史用語集 › 第3章 古代ローマ
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コンスタンティヌス帝こんすたんてぃぬすてい
重要度 ★★★★★ (★は合格大作戦の目安)
ひとことで言うと
コンスタンティヌス帝とは、313年にキリスト教を公認し(ミラノ勅令)、330年に新しい都コンスタンティノープルへ遷都したローマ皇帝です。325年にニケーア公会議を開き、金貨ソリドゥスで貨幣を安定させ、324年に東西を再び1人で治めました。
| 読み方 | こんすたんてぃぬすてい |
|---|---|
| 英語 | Constantine the Great (Constantine I) |
| 時代 | 306年〜337年(在位) |
| 地域 | ローマ |
| 章 | 第3章 古代ローマ |
| 在位 | 306〜337年(単独の皇帝は324年から) |
| おもな事業 | ミラノ勅令(313)・ニケーア公会議(325)・コンスタンティノープル遷都(330) |
| お金・農民 | 金貨ソリドゥス・コロヌスの逃亡禁止(332) |
| いっしょに覚える | ミルウィウス橋の戦い・リキニウス・コンスタンティヌスの寄進状 |
このページのポイント
- 306年に皇帝と呼ばれ、312年にミルウィウス橋の戦いに勝ち、324年に単独の皇帝になった。
- 313年にミラノ勅令でキリスト教を公認(国教化はテオドシウス)。325年にニケーア公会議を開いた。
- 330年にコンスタンティノープルに遷都。金貨ソリドゥスの発行、コロヌスの逃亡禁止(332年)もした。
コンスタンティヌス帝をやさしく言うと
コンスタンティヌス帝(在位306〜337。「コンスタンティヌス大帝」とも)は、キリスト教を公認し、新しい都コンスタンティノープルをつくったローマ皇帝です。四帝分治制のあとの内乱に勝ち、324年に帝国の東西を再び1人で治めました。
彼の事業は、のちの世界を大きく変えました。キリスト教はローマの宗教になり、ヨーロッパの中心の宗教へと育っていきます。また、新しい都コンスタンティノープルは、その後、約1100年間、ビザンツ帝国の都として栄えました。
エンリケくん
1100年も続く都をつくったなんて、すごいですね!
ロダン先生
そうなんだ。都をうつした理由は、場所がとてもよかったから。黒海と地中海をつなぐ海峡のそばで、ヨーロッパとアジアの境目にある。ぼくも船で通ったとき、地形のすばらしさに感動したよ。(泳げないから、橋を渡ってのほうがいいけどね。)
コンスタンティヌス帝のくわしい流れ(即位から死まで)
① 306年:皇帝に推される
コンスタンティヌスは、四帝分治制をつくったディオクレティアヌス帝の時代の副帝コンスタンティウスの息子です。305年にディオクレティアヌスが引退し、306年に父がブリタニアで亡くなると、その軍隊が息子を皇帝と呼びました。ここから、皇帝を名のる人が何人も並び立つ内乱になります。
② 312年:ミルウィウス橋の戦い
312年、コンスタンティヌスはローマ市の近くで、ライバルのマクセンティウスと戦い、勝ちました(ミルウィウス橋の戦い)。伝承では、戦いの前に、空に十字(または、キリストを表す「キー・ロー」の印)が現れ、「この印で勝て」と告げられたといわれます。この話は、書いた人によって内容がちがい、本当のところは分かりません。
③ 313年:キリスト教の公認
313年、コンスタンティヌスは東の皇帝リキニウスとミラノで会い、キリスト教をふくむ、すべての宗教の自由を認める方針を決めました。これがミラノ勅令(キリスト教の公認)です。このあとコンスタンティヌスは、教会に土地を与えたり、大きな教会堂を建てたりして、キリスト教を手厚く守りました。
④ 324年:単独の皇帝に
やがてリキニウスと対立し、324年に戦って勝ちます。こうして、コンスタンティヌスは東西の全体を1人で治める皇帝になりました。
⑤ 325年:ニケーア公会議
教会の中で「イエスは神と同じなのか」をめぐる争いが起きると、コンスタンティヌスは、325年に各地の司教を集めて会議を開きました。これがニケーア公会議(アタナシウス派とアリウス派)です。皇帝が教会の会議を開いたことは、国と教会が深く結びつく始まりでした。
⑥ 330年:コンスタンティノープルに遷都
コンスタンティヌスは、黒海の入口にあるギリシャ人の古い町ビザンティオンを、330年に新しい都としました。名前は「コンスタンティヌスの町」(コンスタンティノープル)で、「新しいローマ」とも呼ばれました。東は豊かで、軍事のうえでも重要な地域だったからです。のちにこの町は、西ローマ帝国がほろびたあとも、東ローマ(ビザンツ)帝国の都として続きます。
⑦ お金と農民の制度
コンスタンティヌスは、金貨ソリドゥスを発行しました。この金貨は質が安定していて、その後、ビザンツ帝国で長く使われます。また332年には、逃げた小作人(コロヌス)をつれもどす法を出し、農民を土地に結びつける方向を強めました(コロナトゥス(コロヌス制))。
⑧ 337年:死去
337年、コンスタンティヌスは亡くなりました。死の直前に洗礼を受けたと伝えられます。信仰がどのくらい深かったのかについては、研究者の意見が分かれています(政治的な計算もあったとみる人もいます)。帝国は息子たちに分けられました。そのあと、テオドシウス帝が一時期帝国を再統一し、395年に東西に分かれます。
地図と年表で見るコンスタンティヌス帝

ロダン先生
コンスタンティノープルは、今のイスタンブル。ヨーロッパとアジアのあいだにあって、まさに世界のまん中だよ。
整理:コンスタンティヌス帝を一言で
「キリスト教を公認し(313年)、コンスタンティノープルに遷都し(330年)、金貨ソリドゥスで貨幣を安定させた皇帝」。ほかに、ニケーア公会議(325年)・コロヌス制の強化(332年)も大事。
コンスタンティヌス帝と関係する人物・用語
| 用語 | コンスタンティヌス帝との関係 |
|---|---|
| ディオクレティアヌス帝 | 四帝分治制をつくった。コンスタンティヌスはその後を継ぐ |
| ミラノ勅令 | キリスト教を公認した(313年) |
| ニケーア公会議 | 皇帝が開いた、教会の会議(325年) |
| コロナトゥス(コロヌス制) | 農民を土地に結びつける制度 |
| テオドシウス帝 | キリスト教を国教にした皇帝 |
| 軍人皇帝時代 | その大混乱を立て直すことが、時代の課題だった |
古代ローマの数の書き方は、ローマ数字一覧表(1〜3000)と書き方の法則にまとめています。コンスタンティヌスの名前を「Constantinus I」と書くとき、「I」はローマ数字の1です。
サクラちゃん
コンスタンティヌスはキリスト教徒だったんですか?
ロダン先生
そこは意見が分かれるんだ。公認して大事にしたのは確かだけれど、洗礼を受けたのは死の直前だと伝えられている。だから、信仰というより政治的な判断だったと考える研究者もいるんだよ。教科書では「公認した皇帝」と覚えておけば大丈夫。
コンスタンティヌス帝でまちがえやすい点
まちがえやすい点
- キリスト教を国教にした皇帝と思う:コンスタンティヌスは「公認」(313年)。国教にしたのはテオドシウス帝(380年・392年)。
- ミラノ勅令を1人で出したと思う:コンスタンティヌスと、東のリキニウスの2人が決めた方針。
- 遷都先の名前を取りちがえる:ビザンティオン → コンスタンティノープル(330年)→ 今のイスタンブル。
- ニケーア公会議を開いたのは教皇と思う:開いたのは皇帝コンスタンティヌス(325年)。
- 遷都で帝国が東西に分かれたと思う:東西に分かれるのは395年。コンスタンティヌスの時代は、まだ1つの帝国。
コンスタンティヌス帝は入試ではこう出る
- 共通テスト:ミラノ勅令(313年、キリスト教公認)、コンスタンティノープルへの遷都(330年)、ニケーア公会議(325年)が、年代や人物と組み合わせて問われます。国教化(テオドシウス)との区別が最大のポイントです。
- 国公立の2次・論述:「ローマ帝国とキリスト教の関係の変化」(迫害 → 公認 → 国教)を説明させる問題がよく出ます。ディオクレティアヌス・コンスタンティヌス・テオドシウスの3人を並べて整理しておきましょう。
- 私大:ソリドゥス金貨、ミルウィウス橋の戦い、コロヌスの逃亡禁止、「コンスタンティヌスの寄進状」など。
勉強の進め方は世界史の勉強法その2【共通テスト対策】と世界史の論述の書き方(私大・2次試験編)を見てください。
ロダン先生の「これ知ってる?」
これ知ってる? 「コンスタンティヌスの寄進状」はにせもの
中世のヨーロッパで、「コンスタンティヌスがローマ教皇にローマ市と西方の支配権をゆずった」という文書が信じられていたんだ。ところが、ルネサンス期の学者ロレンツォ=ヴァッラが、ことばづかいを調べて、後の時代につくられたにせ文書だと証明した。文書を調べる力で、歴史がひっくり返った有名な例だよ。
これ知ってる? 今のイスタンブルの名前のもと
「イスタンブル」の名は、ギリシャ語の「(その)町へ」という言い回しから来たという説が有名だけれど、実はかなり議論があるんだ。コンスタンティノープルの名前は、1930年代まで外国ではよく使われたよ。町の名前の変化も、歴史の1ページなんだね。
これ知ってる? 日曜日を「休みの日」にした
コンスタンティヌスは、321年に日曜日を休みの日と定める法を出したといわれる。今の「日曜日は休み」の習慣のもとになった、といわれることもあるよ。ただし、これも教会の習慣などが重なってできたものなんだ。

ロダン先生
ビザンツ帝国の1100年は、コンスタンティヌスから始まったと考えると、世界史の流れがぐっとつながるよ。
練習問題
やさしい
- 313年にキリスト教を公認したローマ皇帝はだれか。
答えと解説を見る
答え:コンスタンティヌス帝
東のリキニウスと協力して決めました(ミラノ勅令)。 - 330年にコンスタンティヌス帝が新しい都にした町の名を答えよ。
答えと解説を見る
答え:コンスタンティノープル
もとはギリシャ人の町ビザンティオンで、今のイスタンブルです。
ふつう
- コンスタンティヌスが325年に開いた、教会の会議を何というか。
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答え:ニケーア公会議
- コンスタンティヌスが発行した、質が安定した金貨の名を答えよ。
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答え:ソリドゥス金貨
のちにビザンツ帝国で長く使われました。
むずかしい
- 正しいか誤りか答えよ。「コンスタンティヌス帝は、キリスト教をローマ帝国の国教とした。」
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答え:誤り
コンスタンティヌスはキリスト教を公認(313年)しましたが、国教にしたのはテオドシウス帝です(380年・392年)。 - コンスタンティヌス帝がコンスタンティノープルに遷都した理由を、60字ほどで説明せよ。
答えと解説を見る
答えの例:東方は豊かで、黒海と地中海を結ぶ海峡に面して軍事・交通の上で重要であり、東のペルシアなどへの備えにもなったから。
「東方の豊かさ」と「海峡・軍事・交通の要地」のどちらかが入れば合格です。
「古代ローマ」の章の用語
- 共和政ローマ(世界史) ★★★★★高校受験
- パトリキとプレブス(世界史) ★★★★★
- コンスルと元老院(世界史) ★★★★★
- 護民官(世界史) ★★★★★
- 十二表法(世界史) ★★★★★
- リキニウス・セクスティウス法(世界史) ★★★★★
- ホルテンシウス法(世界史) ★★★★★
- ポエニ戦争(世界史) ★★★★★
- ハンニバル(世界史) ★★★★★
- ラティフンディア(世界史) ★★★★★
- グラックス兄弟(世界史) ★★★★★
- スパルタクスの反乱(世界史) ★★★★★
- 三頭政治(世界史) ★★★★★
- カエサル(世界史) ★★★★★
- アウグストゥス(世界史) ★★★★★高校受験
- ローマの平和(世界史) ★★★★★
- 五賢帝(世界史) ★★★★★
- カラカラ帝とアントニヌス勅令(世界史) ★★★★★
- 軍人皇帝時代(世界史) ★★★★★
- ディオクレティアヌス帝(世界史) ★★★★★
- ミラノ勅令(世界史) ★★★★★
- ニケーア公会議(世界史) ★★★★★
- テオドシウス帝(世界史) ★★★★★高校受験
- コロナトゥス(世界史) ★★★★★
この章の流れは古代ローマの年表(国と王朝の帯図・同じころの日本つき)で、年の順に確かめられます。
← 前の語:ディオクレティアヌス帝(世界史) | 次の語:ミラノ勅令(世界史) →
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東大・京大・早慶・関関同立 - ローマ数字一覧表(1〜3000)と書き方の法則
古代ローマの数字
よくある質問
コンスタンティヌス帝とはどんな人ですか?
306年から337年までのローマ皇帝です。313年にキリスト教を公認し、330年に新しい都コンスタンティノープルをつくったことで知られます。324年からは、帝国の東西を1人で治めました。
コンスタンティヌス帝は何をしましたか?
キリスト教の公認(313年)、ニケーア公会議の開催(325年)、コンスタンティノープルへの遷都(330年)、金貨ソリドゥスの発行、コロヌスの逃亡を禁じる法(332年)が主な事業です。
コンスタンティヌス帝はキリスト教を国教にしましたか?
していません。国教にしたのはテオドシウス帝です。コンスタンティヌスは、313年のミラノ勅令でキリスト教を公認し、教会を保護しました。
ミルウィウス橋の戦いとは何ですか?
312年にローマ市の近くで、コンスタンティヌスがライバルのマクセンティウスをたおした戦いです。伝承では、戦いの前に空に十字が現れ、「この印で勝て」と告げられたといわれます。
なぜコンスタンティノープルに遷都したのですか?
東方が豊かで、軍事や交通の面でも大事な場所だったからです。黒海と地中海をつなぐ海峡に面し、ヨーロッパとアジアの境目にあって、守りやすく、交易にも向いていました。
コンスタンティノープルは今のどこですか?
今のトルコのイスタンブルです。もとはギリシャ人の植民市ビザンティオンで、330年にコンスタンティヌスが新しい都として開きました。ビザンツ帝国の都として長く栄えました。
ソリドゥス金貨とは何ですか?
コンスタンティヌス帝が発行した、質が安定した金貨です。3世紀の貨幣の乱れのあと、貨幣を安定させる役目をはたし、その後ビザンツ帝国で長く使われました。
コンスタンティヌスはキリスト教徒でしたか?
意見が分かれます。公認して教会を保護したのは確かですが、洗礼を受けたのは亡くなる直前と伝えられます。信仰というより政治的な判断だったとみる研究者もいます。
「コンスタンティヌスの寄進状」とは何ですか?
コンスタンティヌスがローマ教皇に西方の支配権をゆずった、とする文書です。中世には信じられましたが、ルネサンス期のロレンツォ=ヴァッラが、後の時代のにせ文書だと証明しました。
コンスタンティヌス帝は入試でどう出ますか?
共通テストでは、ミラノ勅令(公認)、遷都、ニケーア公会議などが年代や人物と組み合わせて問われます。国教化(テオドシウス)との区別が最大のポイントで、論述では公認から国教化への流れが問われます。
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出典・参考
- 高校「世界史探究」の教科書の一般的な記述
- エウセビオス『コンスタンティヌスの生涯』(ミルウィウス橋の戦いの前の出来事の伝承)
最終更新:2026年11月3日/作成:大学受験合格大作戦


