五賢帝とは?世界史でわかりやすく|5人の順番・業績・養子皇帝制【図解】

世界史用語集 › 第3章 古代ローマ

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五賢帝ごけんてい

重要度 ★★★★★ (★は合格大作戦の目安)

ひとことで言うと

五賢帝とは、96年から180年までローマ帝国を治めた5人の皇帝(ネルウァ・トラヤヌス・ハドリアヌス・アントニヌス=ピウス・マルクス=アウレリウス)です。有能な人を養子にして位をゆずる養子皇帝制で、ローマが最も栄え安定した時代をつくりました。

読み方ごけんてい
英語the Five Good Emperors
時代96年〜180年(ローマ帝国の最盛期)
地域ローマ
章第3章 古代ローマ
5人ネルウァ・トラヤヌス・ハドリアヌス・アントニヌス=ピウス・マルクス=アウレリウス
位のつなぎ方養子皇帝制(有能な人を養子にして位をゆずる)
覚え方「ネ・ト・ハ・ア・マ」
いっしょに覚えるローマの平和(パクス=ロマーナ)・ハドリアヌスの長城・『自省録』

このページのポイント

  • 五賢帝は「ネ・ト・ハ・ア・マ」の5人。96年から180年までの約84年間で、ローマの平和の後半にあたる。
  • 位は実の子ではなく、有能な人を養子にして継がせた(養子皇帝制)。最後のマルクスだけが実の子に継がせて終わった。
  • トラヤヌスで領土が最大(117年ごろ)。ハドリアヌスは守りを固め、マルクスは哲人皇帝として『自省録』を書いた。

五賢帝をやさしく言うと

五賢帝は、96年から180年までのローマ帝国を治めた5人の皇帝です。ネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス=ピウス、マルクス=アウレリウス=アントニヌスの5人で、ローマ帝国がいちばん安定して栄えた時代をつくりました。

「賢帝」は「かしこい皇帝」という意味です。この呼び名は、あとの時代の人が、この時代をふり返ってつけたものです。5人は親子ではなく、前の皇帝が「この人なら任せられる」と思う人を養子にして、位をゆずるというやり方でつながっていました(養子皇帝制ともいいます)。

ネルウァ(96〜98)子がなく、有能な将軍トラヤヌスを養子にしたトラヤヌス(98〜117)属州出身。領土が最大に。ハドリアヌスを後継にハドリアヌス(117〜138)守りを固めた。アントニヌス=ピウスを養子にアントニヌス=ピウス(138〜161)平和な時代。マルクスを養子にしていたマルクス=アウレリウス(161〜180)哲学者の皇帝。実の子コモドゥスに位をゆずった
図1 五賢帝は、実の子ではなく、有能な人を養子にして位をつないだ。最後のマルクスだけが実の子に位をゆずった。

この時代は、アウグストゥスが始めた元首政の最盛期で、ローマの平和(パクス=ロマーナ)の後半にあたります。なぜ「賢帝」と呼ばれるのか、理由は次の3つです。

  • 国を安定させた:後継ぎをめぐる争いが少なく、内乱がほとんど起きませんでした。
  • 元老院と仲よくやった:皇帝がむやみに元老院議員をおそれさせたり、処刑したりしませんでした。
  • 国境と内政を大事にした:道路・水道・神殿などをつくり、属州の町も豊かになりました。
エンリケくん

エンリケくん

5人も覚えるんですか…。順番にコツはありますか?

ロダン先生

ロダン先生

頭文字を並べて「ネ・ト・ハ・ア・マ」と覚えるといいよ。ネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス、マルクスの順なんだ。

エンリケくん

エンリケくん

ネ・ト・ハ・ア・マ! これなら言えます。

五賢帝のくわしい流れ(5人の業績)

① ネルウァ(在位96〜98):つなぎ役の老皇帝

96年、暴君として知られたドミティアヌス帝が暗殺され、元老院が推したのが年配の元老院議員ネルウァでした。ネルウァには子がなく、軍の信頼が厚いトラヤヌスを養子にして後継ぎとしました。在位は2年ほどと短いのですが、この「有能な人を養子にする」やり方が、五賢帝の時代の土台になりました。

② トラヤヌス(在位98〜117):領土が最大に

トラヤヌスは、属州ヒスパニア(今のスペイン)の出身です。イタリア半島の外の生まれで皇帝になった、最初の人とされます。ドナウ川の北のダキア(今のルーマニアのあたり)をたおして、106年に属州としました。東ではパルティアと戦い、メソポタミアにまで進みました。こうして117年ごろ、ローマ帝国の領土は最大になりました。ローマ市にはトラヤヌスの広場と、ダキア戦争の様子をほりこんだ記念柱が残っています。

③ ハドリアヌス(在位117〜138):広げるより守る

ハドリアヌスは、トラヤヌスが広げすぎた領土の東側(メソポタミア)を手放し、国境を固めることを選びました。ブリタニア(今のイギリス)の北のはしには、国境を守るハドリアヌスの長城をつくり始めました(122年ごろ)。また皇帝としては珍しく、帝国じゅうの属州をたびたび見て回りました。ギリシャ文化が大好きで、アテネに建物を寄付したことでも知られます。

一方、ユダヤではバル=コクバの乱(132〜135年)が起き、きびしくしずめられました。このあとユダヤ人はエルサレムに住めなくなり、各地に散らばっていきます(ディアスポラ)。

④ アントニヌス=ピウス(在位138〜161):平和な23年

「ピウス」は「敬虔な(神や親を大切にする)」という意味のあだ名です。目立った戦争がなく、国内は静かでした。歴史に派手な事件が少ないこと自体が、この時代の安定を表しているといわれます。

⑤ マルクス=アウレリウス=アントニヌス(在位161〜180):哲学者の皇帝

マルクスは、ストア派という哲学を学んだ人で、「哲人皇帝」と呼ばれます。戦いの陣中で、自分に言いきかせるために書いたノートが『自省録』です(ギリシャ語で書かれました)。ところがこの時代は、ドナウ川の北からゲルマン人が攻めこみ、東ではパルティアと戦い、さらに疫病もはやりました。マルクスは、ほとんど戦場で過ごしたといわれます。

180年にマルクスが亡くなると、位は実の子のコモドゥスが継ぎました。コモドゥスは政治に熱心でなく、192年に暗殺されます。そのあとは内乱が続き、カラカラ帝を出したセウェルス朝をへて、軍人皇帝時代という大混乱の時代に入っていきます。

年表と在位の長さで見る五賢帝

96ドミティアヌス暗殺。ネルウァ即位98トラヤヌス即位106ダキアを属州にする117領土が最大に。ハドリアヌス即位122ハドリアヌスの長城をつくり始める135ユダヤ人の反乱をしずめる161マルクス=アウレリウス即位180マルクス死去。五賢帝の時代が終わる192コモドゥス暗殺。内乱の時代へ
図2 五賢帝の時代の年表。96年から180年までが五賢帝の時代。
100年120年140年160年180年 ネルウァ約2年トラヤヌス19年ハドリアヌス21年アントニヌス23年マルクス19年コモドゥス12年
図3 5人の在位の長さ。トラヤヌス〜マルクスは約20年ずつ。灰色はコモドゥス。
年表の巻物を広げるロダン先生

ロダン先生

五賢帝の時代は、ぜんぶで84年。その間、帝位をめぐる大きな内乱はほとんど起きなかった。ローマの長い歴史の中でも、とても静かな時代なんだ。

皇帝在位覚えること
ネルウァ96〜98トラヤヌスを養子に。五賢帝の最初
トラヤヌス98〜117属州出身の最初の皇帝。領土が最大
ハドリアヌス117〜138ハドリアヌスの長城。国境を固める
アントニヌス=ピウス138〜161平和。大きな戦争がない
マルクス=アウレリウス161〜180哲人皇帝。『自省録』。ゲルマン人の侵入

整理:五賢帝の3つの特色

①養子皇帝制:有能な人を養子にして位をゆずる。②国の安定:内乱がほとんどなく、元老院と協調。③領土の最大と防衛:トラヤヌスで最大、ハドリアヌス以降は守りを固める。

五賢帝と関係する人物・用語

用語五賢帝との関係
ローマの平和(パクス=ロマーナ)前27年〜後180年ごろ。五賢帝はその後半
アウグストゥス(元首政)五賢帝がうけついだ「元首」という形の政治
カラカラ帝とアントニヌス勅令五賢帝のあとのセウェルス朝の皇帝
軍人皇帝時代五賢帝の時代のあとの混乱の50年
ラティフンディア(大土地経営)帝国の経済のささえ。のちに行きづまる
ディオクレティアヌス帝混乱をおさめて新しい体制をつくった

古代ローマの数の書き方を知りたい人は、ローマ数字一覧表(1〜3000)も見てみてください。ローマ数字は、ローマの碑文や記念碑にもよく使われました。

サクラちゃん

サクラちゃん

五賢帝のあとは、どうして悪くなったんですか?

ロダン先生

ロダン先生

1つは、コモドゥスで「実の子が継ぐ」にもどり、有能な人を選ぶしくみが切れたこと。もう1つは、国境の外から攻められる回数がふえて、軍の力が強くなりすぎたこと。くわしくは軍人皇帝時代の流れで話すよ。

五賢帝でまちがえやすい点

まちがえやすい点

  1. 「ローマの平和」と五賢帝を同じにする:ローマの平和は、アウグストゥス(前27年)から五賢帝の終わり(後180年)までの約200年。五賢帝はその後半の約84年。
  2. 領土が最大になった皇帝を取りちがえる:最大はトラヤヌス(117年ごろ)。次のハドリアヌスは、広げた領土の一部を手放した。
  3. ハドリアヌスの長城を「万里の長城」と混ぜる:ハドリアヌスの長城はブリタニア(今のイギリス)。万里の長城は中国。
  4. 「養子だから血がつながらない」だけで終わる:養子にするのは、有能な人を選ぶため。この選び方がうまくいったから「賢帝」の時代が続いた。
  5. 5人の順番をまちがえる:ネ・ト・ハ・ア・マ。最初はネルウァ、最後はマルクス。

五賢帝は入試ではこう出る

  • 共通テスト:5人の名前と業績の組み合わせ(トラヤヌス=最大領土、ハドリアヌス=長城、マルクス=『自省録』)がよく問われます。養子皇帝制の説明も、文の正誤の形で出ます。
  • 国公立の2次・論述:「ローマの平和」の特色と、そのあとの「3世紀の危機」へつながる流れを説明させる問題があります。五賢帝の安定 → コモドゥス → 内乱という順に整理しておきましょう。
  • 私大:バル=コクバの乱、ダキア、ストア派、ハドリアヌスの旅行など、ことばの暗記が中心です。

勉強の進め方は世界史の勉強法その2【共通テスト対策】で、論述の書き方は世界史の論述の書き方(私大・2次試験編)で見てください。

ロダン先生の「これ知ってる?」

ロダン先生

これ知ってる? 五賢帝という名前は後の時代のもの

当時の人が自分たちを「五賢帝の時代」と呼んでいたわけではないんだ。ルネサンス期のマキァヴェリが、ネルウァからマルクスまでをよい皇帝として取り上げたことで有名になった、と説明されることが多いよ。

ロダン先生

これ知ってる? ハドリアヌスはひげを生やした

それまでのローマの皇帝は、ひげをそっていることが多かった。ハドリアヌスはギリシャ文化が好きで、ひげを生やしたといわれる。そのあとの皇帝たちも、ひげ姿の肖像が増えていくんだ。コインや彫刻の顔を見ると、時代が分かるよ。

ロダン先生

これ知ってる? マルクスの『自省録』は日記のようなもの

『自省録』は、人に読ませるために書いた本ではなく、皇帝が自分をはげますために書いたノートだといわれる。世界でいちばんいそがしい人が、毎日「感情に流されないように」と自分に言いきかせていたと思うと、なんだか親しみがわくよね。

本を持って説明するロダン先生

ロダン先生

ローマの皇帝が書いた本が、今でも読めるなんて、すごいことなんだ。ぼくも旅行のとき、かばんにこっそり入れているよ。

練習問題

やさしい

  1. 五賢帝の最初の皇帝と、最後の皇帝はだれか。
    答えと解説を見る

    答え:最初はネルウァ、最後はマルクス=アウレリウス=アントニヌス
    「ネ・ト・ハ・ア・マ」の順です。

  2. ローマ帝国の領土が最大になった、五賢帝の2人目の皇帝はだれか。
    答えと解説を見る

    答え:トラヤヌス
    117年ごろ、ダキアやメソポタミアまで広がりました。

ふつう

  1. ブリタニアの北の国境を守るために長城をつくり始めた皇帝はだれか。
    答えと解説を見る

    答え:ハドリアヌス
    ハドリアヌスの長城です。国境を守ることを大事にしました。

  2. 五賢帝のうち、ストア派の哲学者で『自省録』を書いたのはだれか。
    答えと解説を見る

    答え:マルクス=アウレリウス=アントニヌス
    「哲人皇帝」と呼ばれました。

むずかしい

  1. 正しいか誤りか答えよ。「五賢帝のあとの位は、すべて実の子がついだ。」
    答えと解説を見る

    答え:誤り
    ネルウァからアントニヌス=ピウスまでは養子で位を継ぎました。実の子(コモドゥス)が継いだのは、最後のマルクスのあとです。

  2. 五賢帝の時代にローマ帝国が安定したのはなぜか。「養子」ということばを使って、50字ほどで説明せよ。
    答えと解説を見る

    答えの例:皇帝が有能な人を養子にして位をゆずり、後継ぎ争いが少なく、元老院とも協調して国境と内政を安定させたから。(52字)

    「養子(有能な人を選ぶ)」と「後継ぎ争いが少ない」の2点が入れば合格です。

「古代ローマ」の章の用語

この章の流れは古代ローマの年表(国と王朝の帯図・同じころの日本つき)で、年の順に確かめられます。

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よくある質問

五賢帝とは何ですか?

五賢帝とは、96年から180年までのローマ帝国を治めた5人の皇帝で、ネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス=ピウス、マルクス=アウレリウスです。ローマ帝国が最も安定して栄えた時代の皇帝たちです。

五賢帝はだれとだれですか?順番も教えてください。

ネルウァ(96〜98)、トラヤヌス(98〜117)、ハドリアヌス(117〜138)、アントニヌス=ピウス(138〜161)、マルクス=アウレリウス(161〜180)の順です。頭文字をとって「ネ・ト・ハ・ア・マ」と覚えます。

五賢帝はいつの時代ですか?

96年から180年までの約84年間です。ローマの平和(パクス=ロマーナ)と呼ばれる、帝国が安定した時代の後半にあたります。

養子皇帝制とは何ですか?

皇帝が実の子ではなく、能力のある人を養子にして位をゆずるやり方です。後継ぎ争いが少なくなり、五賢帝の安定した時代が続きました。最後のマルクスが実の子コモドゥスに位をゆずって終わりました。

なぜ「賢帝」と呼ばれるのですか?

国内が安定し、元老院とも協調し、国境や内政を大事にしたからです。この呼び名は、あとの時代の人がつけたもので、当時の人が使っていた名前ではありません。

ローマ帝国の領土が最大になったのはいつですか?

トラヤヌス帝の時代の117年ごろです。ダキアを属州にし、東ではメソポタミアにまで進みました。次のハドリアヌスは、広げすぎた東の領土を手放しました。

ハドリアヌスの長城とは何ですか?

ハドリアヌス帝がブリタニア(今のイギリス)の北のはしにつくり始めた、国境を守るための長城です。122年ごろに着工しました。中国の万里の長城とは別のものです。

マルクス=アウレリウス帝はどんな人ですか?

ストア派の哲学を学んだ「哲人皇帝」です。戦陣で自分をはげますために書いたノートが『自省録』で、ギリシャ語で書かれました。在位中は、ゲルマン人の侵入や疫病に悩まされました。

五賢帝のあと、ローマ帝国はどうなりましたか?

180年にマルクスの実の子コモドゥスが継ぎ、192年に暗殺されて内乱になりました。その後のセウェルス朝をへて、3世紀には皇帝が次々と入れかわる軍人皇帝時代の危機に入ります。

五賢帝は入試でどう出ますか?

共通テストでは、5人の順番と業績の組み合わせ、最大領土、養子皇帝制の説明が正誤問題でよく出ます。2次や論述では、ローマの平和の特色と、そのあとの3世紀の危機へのつながりが問われます。

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出典・参考

  • 高校「世界史探究」の教科書の一般的な記述
  • マルクス=アウレリウス『自省録』
  • マキァヴェリ『ローマ史論(ディスコルシ)』(「五賢帝」の呼び名が広まったとされる)

最終更新:2026年11月3日/作成:大学受験合格大作戦