ミラノ勅令とは?世界史でわかりやすく|313年のキリスト教公認と国教化の違い【図解】

世界史用語集 › 第3章 古代ローマ

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ミラノ勅令みらのちょくれい

重要度 ★★★★★ (★は合格大作戦の目安)

ひとことで言うと

ミラノ勅令とは、313年にコンスタンティヌスとリキニウスが決めた、キリスト教を公認する方針です。キリスト教をふくむすべての宗教の自由を認め、教会の財産を返しました。「公認」であって「国教化」ではなく、国教化は4世紀末のテオドシウス帝です。

読み方みらのちょくれい
英語Edict of Milan
時代313年
地域ローマ
章第3章 古代ローマ
年313年
だれが西の皇帝コンスタンティヌスと東の皇帝リキニウス
内容キリスト教をふくむ信教の自由を認める・教会の財産を返す(公認)
注意「国教化」ではない(国教化は380年・392年のテオドシウス帝)

このページのポイント

  • 313年、西の皇帝コンスタンティヌスと東の皇帝リキニウスが、キリスト教をふくむ信教の自由を認めた(公認)。
  • 流れは「303年の大迫害 → 311年の寛容令 → 313年の公認 → 380年・392年の国教化」。
  • 公認と国教化は別。国教にしたのはテオドシウス帝。ミラノ勅令は1つの正式な勅令ではなく合意とも考えられている。

ミラノ勅令をやさしく言うと

ミラノ勅令は、313年に、西の皇帝コンスタンティヌスと東の皇帝リキニウスが決めた、「キリスト教を公認する」方針です。それまでのローマ帝国では、キリスト教徒は何度もきびしい迫害を受けてきました。それが、この勅令で「信仰してもよい」と認められました。

ここで大事なのは、「公認」と「国教」はちがうということです。

  • 公認:キリスト教も、ほかの宗教と同じように、信じることを認める(313年)。
  • 国教:キリスト教を国の公式の宗教として、ほかの宗教より上にする(380年・392年、テオドシウス帝)。
311年313年380年だれがガレリウスコンスタンティヌスとリキニウステオドシウス内容キリスト教の礼拝を許すすべての宗教の自由を認め教会の財産を返すニケーア派のキリスト教を国教にする呼び名寛容令ミラノ勅令(公認)テッサロニキ勅令(国教化)意味迫害をやめるキリスト教を認めるほかの宗教はしだいに禁止
図1 311年・313年・380年のちがい。ミラノ勅令は「公認」で、「国教化」はテオドシウス帝。
エンリケくん

エンリケくん

公認と国教、いつもごちゃごちゃになります…。

ロダン先生

ロダン先生

コツは「ミラノは公認、テオドシウスは国教」と、人と言葉をセットにすること。「認める」と「国の宗教にする」では、ずいぶん意味がちがうんだ。

ミラノ勅令のくわしい流れ(原因・経過・結果)

① 原因:キリスト教徒は迫害されていた

キリスト教は、1世紀にパレスチナで生まれ、ローマ帝国の中に広がりました。ところがキリスト教徒は、皇帝や、ローマの神々への祭りに参加しなかったため、「神々の怒りを呼ぶ」と疑われ、ときどき迫害を受けました。最後で最大の迫害は、ディオクレティアヌス帝の303年の大迫害です。教会がこわされ、聖書が焼かれ、信者が捕まりました。

それでも信者は増え続け、迫害では信仰を止められないことが、はっきりしてきました。

② 311年:寛容令

東の皇帝ガレリウスは、病気が重くなった311年に寛容令を出しました。「キリスト教徒が集まって礼拝することを許す」という内容で、迫害をやめた宣言です。ただし、しぶしぶ認めた形でした。

③ 313年:ミラノ勅令

312年にコンスタンティヌスがローマ市の近くでライバルをたおすと、313年にミラノで東の皇帝リキニウスと会いました。2人が決めた方針は、次のとおりです。

  • キリスト教徒をふくむ、すべての人が、自分の信じる宗教を選んでよい(信教の自由)。
  • 迫害のときに取り上げた、教会の建物や土地を返す。

リキニウスは、東の町ニコメディアで、この内容を人々に知らせました。ラテン語やギリシャ語の文書が、古代の歴史家の本に残っています。なお、1つの正式な「勅令」の形ではなく、2人の皇帝の合意と、それを知らせる文書だったと考える研究者もいます(そのため「ミラノ勅令」ではなく、「ミラノ協定」などと呼ぶこともあります)。

④ 結果:キリスト教が帝国で力を持った

公認されたキリスト教は、コンスタンティヌスの保護もあって、急速に力を持ちます。教会に土地が与えられ、大きな教会堂が建ち、325年には皇帝のよびかけでニケーア公会議が開かれました。

やがて4世紀の終わりに、テオドシウス帝が380年にニケーア派のキリスト教を国教とし、392年にほかの宗教の祭りを禁止します。こうして、迫害 → 公認 → 国教という変化が完成しました。

なお、コンスタンティヌスとリキニウスは、その後対立し、324年にリキニウスが敗れました。

公認のあとも、すぐにすべてが決まったわけではありません。4世紀なかばの皇帝ユリアヌス(在位361〜363)は、昔ながらのローマの神々の祭りを立て直そうとし、キリスト教びいきをやめました。のちに「背教者」と呼ばれます。しかし在位が短く、流れは変わりませんでした。

⑤ ミラノ勅令が大事とされる理由

ミラノ勅令は、「迫害される宗教」だったキリスト教が、「帝国と手を結ぶ宗教」へ変わる出発点だからです。のちのヨーロッパでは、キリスト教が人々の考え方・学問・政治の土台になりました。世界史の流れの中では、中世ヨーロッパ世界の最初の一歩とも考えられています。

年表と地図で見るミラノ勅令

64ネロ帝のころの迫害(伝承)250ごろデキウス帝がキリスト教徒を迫害303ディオクレティアヌスの大迫害311ガレリウスの寛容令313ミラノ勅令(公認)380テオドシウスが国教にする392異教の祭りを禁止する
図2 キリスト教とローマ帝国の関係。迫害から公認、国教化へと変わった。
年表の巻物を広げるロダン先生

ロダン先生

「迫害(303)→ 寛容令(311)→ 公認(313)→ 国教(380・392)」。この流れを、年号といっしょに覚えると一気に得点できるよ。

黒海地中海アフリカ ミラノ西の皇帝コンスタンティヌス ニコメディア東の皇帝リキニウス ローマ 313年:2人の皇帝が同じ方針をとった
図3 313年、西の皇帝コンスタンティヌスと東の皇帝リキニウスが同じ方針をとった(模式図)。

整理:ミラノ勅令

いつ:313年。だれが:コンスタンティヌス(西)とリキニウス(東)。何を:キリスト教をふくむ信教の自由を認め、教会の財産を返す(公認)。ポイント:「国教化」ではない。国教化は380年・392年のテオドシウス帝。

ミラノ勅令と関係する人物・用語

用語ミラノ勅令との関係
ディオクレティアヌス帝大迫害をした。ミラノ勅令の前の時代
コンスタンティヌス帝ミラノ勅令の中心人物。キリスト教を保護
ニケーア公会議公認のあと、皇帝が開いた教会の会議
テオドシウス帝キリスト教を国教にした皇帝
軍人皇帝時代デキウスやウァレリアヌスが迫害した時代
リキニウス・セクスティウス法名前が似ているが別。前4世紀のローマの法律

ローマ帝国の年号は、ローマ数字一覧表(1〜3000)と書き方の法則の練習にもなります。313年は「CCCXIII」と書きます。

サクラちゃん

サクラちゃん

リキニウスって、「リキニウス・セクスティウス法」と同じ人ですか?

ロダン先生

ロダン先生

ちがうよ! 名前が似ているけれど、リキニウス・セクスティウス法は紀元前4世紀の護民官の法律。ミラノ勅令のリキニウスは4世紀の皇帝で、600年以上あとの別人なんだ。法律のほうはリキニウス・セクスティウス法で確認してね。

ミラノ勅令でまちがえやすい点

まちがえやすい点

  1. 国教化と混ぜる:ミラノ勅令は「公認(認める)」。国教化は380年(392年)のテオドシウス帝。
  2. コンスタンティヌス1人の勅令と思う:東の皇帝リキニウスとの合意。
  3. キリスト教だけを認めたと思う:すべての宗教の自由を認める内容で、キリスト教を特別扱いしたわけではない。
  4. 最後の迫害をした皇帝と混ぜる:大迫害(303年)はディオクレティアヌス。ミラノ勅令の前の時代。
  5. リキニウスを同じ名前の古い法律と混ぜる:皇帝のリキニウスと、前4世紀の「リキニウス・セクスティウス法」は別。

ミラノ勅令は入試ではこう出る

  • 共通テスト:「313年」「キリスト教を公認」「コンスタンティヌス」と、国教化の「テオドシウス」を組み合わせる問題が、毎年のようにねらわれます。年代の並べかえも定番です。
  • 国公立の2次・論述:「キリスト教がローマ帝国で公認され、国教になるまで」を説明させる問題が出ます。迫害(303)→ 公認(313)→ 国教(380・392)の順に書きましょう。
  • 私大:ガレリウスの寛容令、リキニウス、ニコメディア、ラクタンティウスなどのことば。

勉強の進め方は世界史の勉強法【基礎編】(教科書・一問一答・用語集の使い方)を、論述は世界史の論述の書き方(私大・2次試験編)を見てください。

ロダン先生の「これ知ってる?」

ロダン先生

これ知ってる? 「ミラノ勅令」という名前は、あとの時代のもの

313年の方針は、古代の歴史家(ラクタンティウスやエウセビオス)の本に文書が残っているよ。ただ、「ミラノの勅令」という名前は、あとの時代につけられたもの。実際は「2人の皇帝の合意」と、東の町ニコメディアで出された通知だと考えられているんだ。

ロダン先生

これ知ってる? カタコンベは、隠れ家ではなく墓

ローマの地下にある「カタコンベ」は、迫害されたキリスト教徒の隠れ家だったと思われがちだけど、おもにお墓として使われた場所だと考えられているんだ。信者が礼拝をしたこともあったけれど、いつも隠れ家だったわけではないんだね。

ロダン先生

これ知ってる? 十字架のしるしの話

コンスタンティヌスが戦いの前に、「この印で勝て」と告げられた、という伝承があるよ。書いた人によって、空に現れたのが十字か、キリストを表す文字の印かなど、細かい話がちがうんだ。だから「伝承では」と覚えておくといいよ。

腕を組んで考えるロダン先生

ロダン先生

「認める」と「国の宗教にする」は、ぜんぜんちがう。この区別ができると、ローマ帝国とキリスト教の流れが、一本の線になるんだ。

練習問題

やさしい

  1. 313年にキリスト教を公認した方針を何というか。
    答えと解説を見る

    答え:ミラノ勅令
    コンスタンティヌスとリキニウスが決めました。

  2. ミラノ勅令を決めた、西と東の2人の皇帝はだれか。
    答えと解説を見る

    答え:西のコンスタンティヌス、東のリキニウス

ふつう

  1. 311年に、キリスト教徒の礼拝を許す寛容令を出した皇帝はだれか。
    答えと解説を見る

    答え:ガレリウス
    ディオクレティアヌスの大迫害のあとです。

  2. キリスト教をローマ帝国の国教とした皇帝はだれか。
    答えと解説を見る

    答え:テオドシウス帝
    380年にニケーア派を国教とし、392年に異教の祭りを禁止しました。

むずかしい

  1. 正しいか誤りか答えよ。「ミラノ勅令により、キリスト教はローマ帝国の国教となった。」
    答えと解説を見る

    答え:誤り
    ミラノ勅令は「公認」です。国教になったのは、4世紀末のテオドシウス帝のときです。

  2. ローマ帝国とキリスト教の関係の変化を、3つの出来事を使って60字ほどで説明せよ。
    答えと解説を見る

    答えの例:ディオクレティアヌスの大迫害の後、313年のミラノ勅令でキリスト教が公認され、4世紀末にテオドシウス帝が国教とした。

    「大迫害」「ミラノ勅令(公認)」「テオドシウス(国教)」の3つが入れば合格です。

「古代ローマ」の章の用語

この章の流れは古代ローマの年表(国と王朝の帯図・同じころの日本つき)で、年の順に確かめられます。

← 前の語:コンスタンティヌス帝(世界史) | 次の語:ニケーア公会議(世界史) →

あわせて読みたい(合格大作戦の記事)

よくある質問

ミラノ勅令とは何ですか?

313年にコンスタンティヌス帝とリキニウス帝が決めた、キリスト教を公認する方針です。キリスト教をふくむすべての宗教の自由を認め、迫害で取り上げた教会の財産を返しました。

ミラノ勅令はいつ、だれが出しましたか?

313年に、西の皇帝コンスタンティヌスと東の皇帝リキニウスが、ミラノで会って決めました。東の町ニコメディアでは、リキニウスがその内容を知らせました。

ミラノ勅令でキリスト教は国教になりましたか?

なっていません。ミラノ勅令は「公認」で、信じてよいと認めたものです。国教にしたのは、4世紀末のテオドシウス帝です(380年・392年)。

公認と国教化のちがいは何ですか?

公認は、キリスト教も信じてよいと認めること。国教化は、キリスト教を国の公式の宗教として、ほかの宗教より上に置くことです。

なぜミラノ勅令が出されたのですか?

長い迫害でも、キリスト教徒は減りませんでした。迫害では信仰を止められないことが分かり、311年に寛容令が出され、313年に正式に認められました。コンスタンティヌスの政治的な考えもあったといわれます。

311年の寛容令とは何ですか?

東の皇帝ガレリウスが、病気のときに出した命令で、キリスト教徒が集まって礼拝することを許しました。迫害をやめるきっかけで、のちのミラノ勅令へつながります。

ミラノ勅令の内容は何ですか?

キリスト教をふくむ、すべての人が自分の信じる宗教を選んでよいこと、迫害のときに取り上げた教会の建物や土地を返すことです。

ミラノ勅令は本当に「勅令」だったのですか?

1つの正式な勅令ではなく、2人の皇帝の合意と、それを知らせる文書だったと考える研究者もいます。そのため「ミラノ協定」などと呼ぶこともあります。

ミラノ勅令のあと、キリスト教はどうなりましたか?

コンスタンティヌスの保護で急速に力を持ち、325年にはニケーア公会議が開かれました。380年にテオドシウス帝がニケーア派を国教とし、392年にはほかの宗教の祭りを禁止しました。

ミラノ勅令は入試でどう出ますか?

共通テストでは、313年・公認・コンスタンティヌスと、国教化のテオドシウスとの区別がよく問われます。論述では、迫害・公認・国教化の流れを説明させる問題が出ます。

あわせて読みたい

出典・参考

  • 高校「世界史探究」の教科書の一般的な記述
  • ラクタンティウス『迫害者たちの死について』
  • エウセビオス『教会史』(313年の文書の記録)

最終更新:2026年11月3日/作成:大学受験合格大作戦