ディオクレティアヌス帝とは?世界史でわかりやすく|専制君主政・四帝分治制【図解】

世界史用語集 › 第3章 古代ローマ

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ディオクレティアヌス帝でぃおくれてぃあぬすてい

重要度 ★★★★★ (★は合格大作戦の目安)

ひとことで言うと

ディオクレティアヌス帝とは、284年に即位して軍人皇帝時代の混乱をおさめたローマ皇帝です。皇帝を「ドミヌス(主人)」と呼ばせる専制君主政と、正帝・副帝の4人で帝国を治める四帝分治制を始め、305年に自分から引退しました。

読み方でぃおくれてぃあぬすてい
英語Diocletian / the Tetrarchy / Dominate
時代284年〜305年(在位)
地域ローマ
章第3章 古代ローマ
在位284〜305年
2つの改革専制君主政(ドミナートゥス)・四帝分治制(テトラルキア)
ほかの出来事最高価格令(301年)・キリスト教徒の大迫害(303年)・305年に引退
いっしょに覚える正帝(アウグストゥス)・副帝(カエサル)・ドミヌス

このページのポイント

  • 284年即位。軍人皇帝時代の混乱をおさめ、皇帝の力を高める専制君主政(ドミナートゥス)を始めた。
  • 293年に四帝分治制(テトラルキア)。正帝2人・副帝2人で治めるが、まだ1つの帝国(東西に分かれるのは395年)。
  • 301年に最高価格令、303年にキリスト教徒の大迫害。305年に自分から引退し、そのあと内乱になった。

ディオクレティアヌス帝をやさしく言うと

ディオクレティアヌス帝(在位284〜305)は、軍人皇帝時代の大混乱をおさめたローマ皇帝です。軍人から皇帝になった人で、国を立て直すために、2つの大きな改革をしました。

  • 専制君主政(ドミナートゥス):皇帝を「ドミヌス(主人)」と呼ばせ、皇帝の力をはっきりと強くした政治。
  • 四帝分治制(テトラルキア):帝国を東西に分け、4人の皇帝で治めるしくみ。
西の半分東の半分 マクシミアヌス正帝(アウグストゥス)都:ミラノディオクレティアヌス正帝(アウグストゥス)都:ニコメディア コンスタンティウス副帝(カエサル)都:トリーアガレリウス副帝(カエサル)都:シルミウム 副帝は、のちに正帝へ 全体の最高位は、東の正帝ディオクレティアヌス
図1 四帝分治制。正帝2人と副帝2人の4人で帝国を治める。副帝は、のちに正帝になる計画だった。

たとえば、1人の校長先生だけで大きな学校を見るのは大変です。そこで学校を2つのブロックに分け、それぞれに先生と副担当をつけた、というイメージです。ディオクレティアヌスは、帝国が広すぎて1人の皇帝では守りきれないと考えたのです。

エンリケくん

エンリケくん

皇帝が4人もいたら、ケンカになりませんか?

ロダン先生

ロダン先生

いい点に気づいたね。そのとおり、のちに争いになるんだ。でも、ディオクレティアヌスが元気なうちは、一番えらい人が全体をまとめていたから、うまくいっていたんだよ。

ディオクレティアヌス帝のくわしい流れ(改革の中身)

① 284年:軍隊に推されて皇帝になる

ディオクレティアヌスは、ダルマティア(今のクロアチアのあたり)の身分の低い家の出身とされます。軍人として出世し、284年に軍隊に皇帝として推されました。これまでの軍人皇帝と同じ始まり方ですが、彼は長く皇帝の地位を保ち、帝国を立て直しました。

② 専制君主政:皇帝の力を高める

アウグストゥスのアウグストゥスの元首政では、皇帝は「市民の第一人者(プリンケプス)」という形をとり、元老院を一応たてていました。ところがディオクレティアヌスは、皇帝を「ドミヌス(主人)」と呼ばせ、豪華な衣を着て、人々にひざまずかせる儀式を行いました。皇帝を神に近い存在として見せ、軍隊による皇帝の暗殺や反乱を防ぐねらいがありました。これを専制君主政といいます。

くらべる点元首政専制君主政皇帝の呼び名プリンケプス(市民の第一人者)ドミヌス(主人)と呼ばせた元老院形の上で尊重力が弱まる皇帝の儀式かんたんひざまずく礼ぜいたくな衣政治の中心ローマ市国境に近い都市はじまりアウグストゥス(前27年)ディオクレティアヌス(284年)
図3 元首政と専制君主政のちがい。皇帝の呼び名や儀式、政治の中心が変わった。

③ 四帝分治制:4人で治める

286年、ディオクレティアヌスはマクシミアヌスを共同の「正帝(アウグストゥス)」にし、西を任せました。293年には、2人の下に「副帝(カエサル)」を置いて、4人で帝国を治める体制を整えます。4人は、それぞれ国境に近い都市(ニコメディア、ミラノ、シルミウム、トリーア)を拠点にしました。敵が攻めてきたら、すぐに対応できるようにするためです。ローマ市は、帝国の首都としての役目が小さくなりました。

④ 行政と税の改革

属州を細かく分けて数を増やし、いくつかをまとめた「管区」をつくりました。軍の指揮をとる役人と、政治をとる役人を分けて、地方の将軍が力を持ちすぎないようにしました。また、人と土地を調べて税をとるしくみを整えました。この税のとり方は、のちに農民を土地に結びつけるコロナトゥス(コロヌス制)につながったといわれます。

物価の上がりすぎをおさえるため、301年に最高価格令を出しました。これは、品物や賃金の上限を決める法令です。しかし、守られず、成功しなかったとされます。

⑤ キリスト教徒の大迫害(303年)

ディオクレティアヌスは、もともとローマの神々を大切にし、皇帝への忠誠を重んじる人でした。303年に、キリスト教会をこわし、聖書を焼き、信者を逮捕する命令を出しました。ローマ帝国の最後で最大の迫害です。しかし、信者は減らず、のちにミラノ勅令(キリスト教の公認)で迫害は終わります。

⑥ 305年:自分から引退した

305年、ディオクレティアヌスは、皇帝の位を自分からはなれ、アドリア海ぞいの故郷(今のクロアチアのスプリト)にある宮殿で暮らしました。皇帝が生きているうちに、自分から退くのは、とても珍しいことでした。ところが、そのあと4人の間で争いが起きます。306年には、副帝コンスタンティウスの息子コンスタンティヌスが軍隊に皇帝に推され、内乱のすえ、324年に単独の皇帝になりました。

地図と年表で見るディオクレティアヌス帝

黒海地中海アフリカ ミラノトリーアシルミウムニコメディア ローマ 正帝の都副帝の都
図2 四帝分治制の4人の都(模式図)。どれも国境に近い都市。ローマ市は首都の役目が小さくなった。
手をかざして遠くを見るロダン先生

ロダン先生

4人の都は、どれも国境の近く。「ローマにいる皇帝」から、「国境を守る皇帝」に変わったのが、この時代なんだよ。

284軍隊に推されて皇帝になる286マクシミアヌスを共同の正帝に293四帝分治制(テトラルキア)301最高価格令(物価の上限)303キリスト教徒の大迫害305自分から引退する306コンスタンティヌスが皇帝に推される324コンスタンティヌスが単独の皇帝に
図4 ディオクレティアヌス帝の時代の年表。284年に即位し、305年に自分から引退した。

整理:ディオクレティアヌス帝の改革

①専制君主政:皇帝を「主人(ドミヌス)」と呼ばせ、皇帝の力を強める。②四帝分治制:正帝2人+副帝2人で帝国を治める。③行政・税の改革:属州を細かく分け、軍と行政を分ける。④その他:最高価格令(301年)、キリスト教徒の大迫害(303年)。

ディオクレティアヌス帝と関係する人物・用語

用語ディオクレティアヌス帝との関係
軍人皇帝時代この混乱を終わらせた
アウグストゥス(元首政)専制君主政との対比で出る
コンスタンティヌス帝四帝分治制のあとの内乱に勝った
ミラノ勅令大迫害のあと、キリスト教を公認
コロナトゥス(コロヌス制)税のしくみと関係が深い
テオドシウス帝最後に帝国を東西に分けた皇帝

ローマの数字の勉強には、ローマ数字一覧表(1〜3000)と書き方の法則が役に立ちます。305年は「CCCV」と書きます。

サクラちゃん

サクラちゃん

ディオクレティアヌスは、帝国を2つに分けたんですか?

ロダン先生

ロダン先生

よくまちがえる点だね。彼は「分けて治めた」けれど、まだ1つの帝国だったんだ。帝国が東西の2つに完全に分かれるのは395年、テオドシウス帝の死んだあとだよ。

ディオクレティアヌス帝でまちがえやすい点

まちがえやすい点

  1. 四帝分治制を「帝国の東西分裂」と混ぜる:四帝分治制は、1つの帝国を4人で分けて治めるしくみ。東西が別の国になるのは395年。
  2. 正帝と副帝を逆にする:「正帝=アウグストゥス」が上、「副帝=カエサル」が下。副帝が正帝になる計画だった。
  3. 専制君主政の始まりをコンスタンティヌスと思う:始まりはディオクレティアヌス。コンスタンティヌスはそれを受けついだ。
  4. 最高価格令が成功したと思う:物価はおさえきれず、うまくいかなかったとされる。
  5. キリスト教を公認した皇帝と混ぜる:ディオクレティアヌスは、最後で最大の迫害をした皇帝。公認はコンスタンティヌス(ミラノ勅令、313年)。

ディオクレティアヌス帝は入試ではこう出る

  • 共通テスト:専制君主政(ドミヌス)、四帝分治制(テトラルキア)の説明が、文の正誤や用語の組み合わせで問われます。元首政との比較もよく出ます。
  • 国公立の2次・論述:「元首政から専制君主政へ」の変化や、3世紀の危機から4世紀の帝国の立て直しまでを説明させる問題が考えられます。
  • 私大:最高価格令、大迫害、副帝(カエサル)・正帝(アウグストゥス)などのことば。

論述では、世界史の論述の書き方(私大・2次試験編)が参考になります。「元首政との比較」は、表にして覚えておきましょう。

ロダン先生の「これ知ってる?」

ロダン先生

これ知ってる? 引退後のディオクレティアヌスは野菜づくり?

引退した宮殿で、野菜を育てて暮らしたと伝えられているよ。「皇帝に戻ってほしい」と頼まれたとき、「わたしの育てた野菜を見てくれたら、そんなことは言わないだろう」と答えた、という話もある。でも、これは後の世の話で、本当かどうかははっきりしないんだ。

ロダン先生

これ知ってる? 宮殿は今も町になっている

引退後に暮らした宮殿は、クロアチアのスプリトという町にあって、今も町の中心の一部として使われているんだ。古代ローマ皇帝の宮殿の中に、お店や家が入っていて、世界遺産にもなっているよ。

ロダン先生

これ知ってる? 「カエサル」が皇帝の位をさすようになる

ユリウス=カエサルの名前は、皇帝の称号になった。この時代には「副帝」の意味で使われ、のちにドイツ語の「カイザー」やロシア語の「ツァーリ」のもとにもなったんだ。人名が称号になるなんて、すごいよね。

親指を立てるロダン先生

ロダン先生

ディオクレティアヌスは、ローマの混乱をおさめた立役者。派手さはないけれど、とても大事な人なんだ。

練習問題

やさしい

  1. 284年に皇帝となり、軍人皇帝時代の混乱をおさめた皇帝はだれか。
    答えと解説を見る

    答え:ディオクレティアヌス帝

  2. ディオクレティアヌスが、皇帝を「主人(ドミヌス)」と呼ばせた政治を何というか。
    答えと解説を見る

    答え:専制君主政(ドミナートゥス)

ふつう

  1. 2人の正帝と2人の副帝で帝国を治めるしくみを何というか。
    答えと解説を見る

    答え:四帝分治制(テトラルキア)
    293年に整えられました。

  2. ディオクレティアヌスが、物価の上限を決めて出した法令を何というか。
    答えと解説を見る

    答え:最高価格令
    301年に出されましたが、成功しなかったとされます。

むずかしい

  1. 正しいか誤りか答えよ。「ディオクレティアヌスは、四帝分治制によってローマ帝国を東西の2つの国に分けた。」
    答えと解説を見る

    答え:誤り
    四帝分治制は、1つの帝国を4人で分けて治めるしくみです。東西に分かれるのは395年のテオドシウス帝の死後です。

  2. 元首政と専制君主政のちがいを、皇帝の呼び名に注目して60字ほどで説明せよ。
    答えと解説を見る

    答えの例:元首政では皇帝は「市民の第一人者(プリンケプス)」の形をとったが、専制君主政では「主人(ドミヌス)」と呼ばせ、皇帝の力を強めた。

    「プリンケプス(第一人者)」と「ドミヌス(主人)」の2語が入れば合格です。

「古代ローマ」の章の用語

この章の流れは古代ローマの年表(国と王朝の帯図・同じころの日本つき)で、年の順に確かめられます。

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よくある質問

ディオクレティアヌス帝とはどんな人ですか?

284年から305年までローマ皇帝だった人です。軍人皇帝時代の混乱をおさめ、専制君主政と四帝分治制で帝国を立て直しました。キリスト教徒を最後で最大の迫害にかけた皇帝としても知られます。

専制君主政(ドミナートゥス)とは何ですか?

皇帝を「ドミヌス(主人)」と呼ばせ、皇帝の力を強くした政治です。元首政では皇帝は「市民の第一人者」の形をとりましたが、専制君主政では、儀式を豪華にして元老院の力を弱めました。

四帝分治制(テトラルキア)とは何ですか?

帝国を東西に分け、それぞれに正帝(アウグストゥス)と副帝(カエサル)を置いた、4人で治めるしくみです。293年に整えられました。副帝は、のちに正帝になる計画でした。

正帝と副帝のちがいは何ですか?

正帝(アウグストゥス)が上の位で、副帝(カエサル)が下の位です。正帝が引退したら副帝が正帝になり、新しい副帝が立つという計画でした。

なぜ四帝分治制にしたのですか?

帝国が広すぎて、1人の皇帝では、北や東の国境を守りきれなかったためです。4人の都は国境に近い場所に置かれ、すぐに敵に対応できるようにしました。

最高価格令とは何ですか?

301年にディオクレティアヌスが出した、物価や賃金の上限を決める法令です。物価の上昇をおさえようとしましたが、守られず、成功しなかったとされます。

ディオクレティアヌスはなぜキリスト教徒を迫害したのですか?

ローマの神々や皇帝への忠誠を大切にした皇帝が、国の安定のためにキリスト教会を取りしまろうとしたからです。303年にはキリスト教会をこわして聖書を焼く命令を出しました。

ディオクレティアヌスは、どのように引退しましたか?

305年に、自分から皇帝をやめて故郷に近いスプリト(今のクロアチア)の宮殿に引退しました。皇帝が生きているうちに自分から退くのは、とても珍しいことでした。

ディオクレティアヌスの後、何が起きましたか?

4人の皇帝の間で争いが起き、306年にコンスタンティヌスが皇帝に推されました。内乱の末、324年にコンスタンティヌスが単独の皇帝になりました。

ディオクレティアヌス帝は入試でどう出ますか?

共通テストでは、専制君主政と四帝分治制の説明、元首政との比較が正誤問題で出ます。論述では、3世紀の危機から専制君主政への流れを説明させる問題が考えられます。

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出典・参考

  • 高校「世界史探究」の教科書の一般的な記述

最終更新:2026年11月3日/作成:大学受験合格大作戦