カラカラ帝とアントニヌス勅令とは?世界史でわかりやすく|212年の市民権【図解】

世界史用語集 › 第3章 古代ローマ

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カラカラ帝とアントニヌス勅令からからてい

重要度 ★★★★★ (★は合格大作戦の目安)

ひとことで言うと

アントニヌス勅令とは、212年にカラカラ帝が、帝国の自由人のほとんどにローマ市民権をあたえた命令です。これでローマ市民と属州の人々の区別がほぼなくなりました。奴隷は対象外で、出した理由は諸説あり、はっきりしません。

読み方からからてい
英語Caracalla / Constitutio Antoniniana
時代212年(アントニヌス勅令)・カラカラ帝の在位198〜217年
地域ローマ
章第3章 古代ローマ
出した人カラカラ帝(本名マルクス=アウレリウス=アントニヌス)
内容帝国の自由人のほとんどにローマ市民権をあたえる
王朝セウェルス朝(193〜235)
いっしょに覚える同盟市戦争・カラカラ浴場・奴隷は対象外

このページのポイント

  • 212年、カラカラ帝がアントニヌス勅令を出し、帝国の自由人のほとんどにローマ市民権をあたえた。奴隷は対象外。
  • 市民権は、同盟市戦争(前91〜前88)でイタリア半島の自由人に広がり、212年に帝国全体へ。最後の大きな一歩がカラカラ。
  • 理由は税収を増やすためなど諸説あり。市民権は「特別な身分」でなくなり、価値が下がった。

カラカラ帝とアントニヌス勅令をやさしく言うと

カラカラ帝は、3世紀はじめのローマ皇帝(在位198〜217。単独の皇帝は211年から)です。本名は「マルクス=アウレリウス=アントニヌス」といいます。「カラカラ」は、ガリアの長い上着「カラカルラ」をよく着ていたことから来たあだ名です。

カラカラ帝がいちばん有名なのは、212年に出した「アントニヌス勅令」です。これは、帝国の中の自由人のほとんどに、ローマ市民権をあたえるという命令でした。それまでは、ローマ市民になれるのは一部の人だけでした。それが「帝国に住む自由人なら、だれでもローマ市民」に変わったのです。

身分212年より前212年以降イタリアなどの市民ローマ市民(特別な身分)ローマ市民属州の自由人(多くの人)市民権なし市民とは区別ローマ市民権をもらえる奴隷市民権なし市民権なし(変わらず)市民権の意味めずらしく価値が高いふつうのことに価値は下がった
図1 212年の前と後。属州の自由人もローマ市民になれた。奴隷は対象外。

「ローマ市民」とは、ローマの法律で守られ、軍団兵になれ、公職につけるなどの特別な身分でした。この身分が、共和政ローマの時代から少しずつ広がり、最後に帝国じゅうに広がったことになります。

エンリケくん

エンリケくん

ローマ市民になると、いいことがあったんですか?

ロダン先生

ロダン先生

ローマの法律で守られるし、軍団の兵士にもなれた。有名なのは、使徒パウロが「わたしはローマ市民だ」と言って、裁判で守られた話だよ。それだけ市民権は大事な身分だったんだ。

アントニヌス勅令のくわしい流れ(背景・内容・影響)

① 背景:市民権はゆっくり広がってきた

ローマは、はじめ小さな都市国家でした。十二表法(ローマ最初の成文法)ができたころ、市民はローマ市に住む人々だけです。そのあと、ローマが征服した土地の人々にも、少しずつ市民権があたえられました。前91〜前88年の同盟市戦争では、ローマと同盟していたイタリアの町々が「同じ市民にしてほしい」と求めて戦い、結局、イタリア半島の自由人に市民権が広がりました。

帝政になっても、属州の有力者や、軍隊の兵士(補助軍)が除隊のときに市民権をもらうなど、広がりは続きました。五賢帝の時代には、属州出身の人が元老院議員や皇帝になるまでになっています。

② カラカラ帝と父セウェルス

五賢帝のあと、192年にコモドゥスが暗殺されて内乱になりました。これをおさめたのが、北アフリカ(今のリビア)の属州出身の将軍セプティミウス=セウェルスです(在位193〜211)。セウェルスは軍隊を大事にし、兵士の給料を上げました。この王朝をセウェルス朝といいます。

息子のカラカラは198年に共同皇帝になり、211年に父が亡くなると、弟のゲタを殺して単独の皇帝になりました。血なまぐさい始まりですが、そのカラカラが、市民権の歴史に残る決定をします。

③ 212年のアントニヌス勅令

勅令の内容は、帝国内の自由人にローマ市民権をあたえるというものです。奴隷はふくまれません。降伏した人々の一部がのぞかれたとする説もあります。

なぜ出したのかは、はっきりしません(諸説あり)。よく挙げられる説は次のとおりです。

  • 税を増やすため:相続にかかる税などは、市民だけが払うものでした。市民が増えれば税収が増える、という考えです(この説を伝える古い歴史書があります)。
  • 帝国を1つにまとめるため:みんなが同じ「ローマ市民」なら、帝国の一体感が高まります。
  • 神々への感謝のため:弟を殺したあと、神々に感謝する気持ちを示したという説です。

④ 勅令のあと:市民権の価値は下がった

ほとんどの人が市民になったので、「市民であること」の特別さは薄れました。かわりに、ローマ社会では上層の人と下層の人の差が大きくなり、裁判や刑罰でもあつかいがちがうようになっていきます。

カラカラは215年に、新しい銀貨アントニニアヌスをつくりました。この貨幣の銀は、だんだん少なくなっていき、3世紀の物価高の原因の1つといわれます。また216年には、巨大な公衆浴場カラカラ浴場が完成しました。ローマ市に、今も遺跡が残っています。

217年、カラカラは東方への遠征の途中で、兵士に暗殺されました(親衛隊の長官マクリヌスのたくらみとされます)。セウェルス朝は235年に終わり、軍人皇帝時代と呼ばれる大混乱が始まります。

年表で見る市民権の広がりとカラカラ帝

前5世紀十二表法。市民の法ができる前91〜88同盟市戦争。イタリアの人々に市民権前49ポー川の北の人々にも市民権後96〜180五賢帝。属州出身の元老院議員も増える212アントニヌス勅令。帝国の自由人に235〜軍人皇帝時代。市民権の価値は下がる
図2 ローマ市民権が広がる流れ。212年のアントニヌス勅令が最後の大きな一歩。
年表の巻物を広げるロダン先生

ロダン先生

市民権は、ローマ市の人 → イタリア半島の人 → 帝国じゅうの自由人、と何百年もかけて広がったんだ。その最後の一歩がカラカラ帝だよ。

193セプティミウス=セウェルス即位198カラカラが共同皇帝になる211父が死去。弟ゲタを殺して単独の皇帝に212アントニヌス勅令を出す215新しい銀貨アントニニアヌスをつくる216カラカラ浴場ができる217遠征中に暗殺される235セウェルス朝が終わる
図3 カラカラ帝の時代の年表。212年の勅令のほか、新しい銀貨や浴場もつくった。

整理:アントニヌス勅令

だれが:カラカラ帝。いつ:212年。何を:帝国の自由人にローマ市民権。ふくまれない人:奴隷。意味:ローマ市民と属州民の区別がなくなった。

カラカラ帝・アントニヌス勅令と関係する人物・用語

用語カラカラ帝との関係
共和政ローマ市民権の考え方が生まれた時代
ローマの平和(パクス=ロマーナ)市民権が広がる土台となった安定の時代
五賢帝の時代属州出身者が活躍し、市民権が広がった時代
軍人皇帝時代セウェルス朝のあとの混乱
ディオクレティアヌス帝混乱をおさめた皇帝。税の制度を整える
コロナトゥス(コロヌス制)3世紀以降に広がる、小作人を土地に結びつける制度

ローマの数の書き方は、ローマ数字一覧表(1〜3000)と書き方の法則にまとめています。212年は「CCXII」と書きます。

サクラちゃん

サクラちゃん

みんなが市民になったら、税はどうなったんですか?

ロダン先生

ロダン先生

それがむずかしいところなんだ。カラカラの狙いは税だったともいわれるけれど、確かな記録は少ない。だから教科書は「市民権を広げた」ことを大事にして、理由は「諸説あり」にしているよ。

カラカラ帝・アントニヌス勅令でまちがえやすい点

まちがえやすい点

  1. 奴隷にも市民権をあたえたと思う:対象は帝国の自由人。奴隷は対象外。
  2. 「アントニヌス」を五賢帝のアントニヌス=ピウスと混ぜる:勅令の名は、カラカラの本名「アントニヌス」から。五賢帝の1人とは別人。
  3. 市民権を最初にひろげた人と思う:イタリア半島の人々には、前1世紀の同盟市戦争のころにすでに広がっていた。カラカラは「帝国全体」に広げた最後の大きな一歩。
  4. 理由を1つに決める:税のため、というのは有力な説の1つ。ほかの説もあり、はっきりしない(諸説あり)。
  5. 212年を「セウェルス朝の始まり」と思う:セウェルス朝の始まりは193年。212年は2人目の皇帝カラカラの時代。

カラカラ帝・アントニヌス勅令は入試ではこう出る

  • 共通テスト:「212年に帝国の全自由人にローマ市民権」という内容が、文の正誤や年代の並べかえで問われます。奴隷が対象外であること、皇帝の名前も大事です。
  • 国公立の2次・論述:「ローマ市民権の拡大」を、共和政のころの同盟市戦争から、帝国全体への広がりまで通して説明させる問題が考えられます。
  • 私大:セウェルス朝、カラカラ浴場、アントニヌス勅令などのことばを問う問題です。

勉強の進め方は世界史の勉強法【基礎編】(教科書・一問一答・用語集の使い方)を見てください。

ロダン先生の「これ知ってる?」

ロダン先生

これ知ってる? カラカラ浴場は、1日じゅう遊べた

ローマの公衆浴場は、お風呂だけでなく、運動場や図書室、庭園もあった。カラカラ浴場もそんな大きな施設で、市民の社交の場だったんだ。ぼくは泳げないから、プールは見るだけだけどね。

ロダン先生

これ知ってる? 父セウェルスの遺言と伝わる話

セウェルスは、息子たちに「仲よくして、兵士を豊かにして、ほかの人はほうっておけ」と言い残した、と古い歴史書が伝えているよ。でも、これは伝承で、本当かどうかははっきりしない。ただ、この時代に軍隊が強くなっていくことをよく表した話として、有名なんだ。

ロダン先生

これ知ってる? 「ローマ市民だ」と言った使徒パウロ

新約聖書の『使徒行伝』には、パウロが「わたしはローマ市民である」と言って、むち打ちをまぬがれる場面がある。ローマ市民には、法の保護があったことが分かるよ。パウロは生まれながらのローマ市民だったとされているんだ。

本を持って説明するロダン先生

ロダン先生

アントニヌス勅令の原文は、断片しか残っていない。だから、歴史の先生たちは、古い歴史書や写本を手がかりに研究しているんだ。

練習問題

やさしい

  1. 212年に、帝国の自由人のほとんどにローマ市民権をあたえた皇帝はだれか。
    答えと解説を見る

    答え:カラカラ帝
    本名はマルクス=アウレリウス=アントニヌスです。

  2. カラカラ帝が出した、帝国の自由人にローマ市民権をあたえる命令を何というか。
    答えと解説を見る

    答え:アントニヌス勅令
    カラカラの本名「アントニヌス」にちなむ名前です。

ふつう

  1. アントニヌス勅令でも、ローマ市民権をもらえなかった身分は何か。
    答えと解説を見る

    答え:奴隷
    市民権の対象は、帝国の自由人です。

  2. カラカラ帝を出した王朝の名を答えよ。
    答えと解説を見る

    答え:セウェルス朝
    北アフリカ出身のセプティミウス=セウェルスが193年に始めました。

むずかしい

  1. 正しいか誤りか答えよ。「アントニヌス勅令で、ローマ市民権は初めて属州の人にあたえられた。」
    答えと解説を見る

    答え:誤り
    属州の人にも、それ以前から市民権があたえられていました。前1世紀の同盟市戦争後には、イタリア半島の自由人に広がっています。212年は、帝国じゅうの自由人にまで広げた点が大事です。

  2. アントニヌス勅令の内容と意味を、60字ほどで説明せよ。
    答えと解説を見る

    答えの例:カラカラ帝が212年、帝国内の自由人のほとんどにローマ市民権を与え、ローマ市民と属州民の区別がほぼなくなった。

    「212年」「自由人にローマ市民権」「区別がなくなる」の3点が入れば合格です。

「古代ローマ」の章の用語

この章の流れは古代ローマの年表(国と王朝の帯図・同じころの日本つき)で、年の順に確かめられます。

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よくある質問

カラカラ帝とはどんな皇帝ですか?

カラカラ帝は、3世紀はじめ(在位198〜217)のローマ皇帝です。セウェルス朝の2人目で、212年にアントニヌス勅令を出し、ローマ市民権を帝国の自由人に広げたことで有名です。

アントニヌス勅令とは何ですか?

212年にカラカラ帝が出した、帝国の自由人のほとんどにローマ市民権をあたえる命令です。名前は、カラカラの本名がマルクス=アウレリウス=アントニヌスだったことにちなみます。

アントニヌス勅令はいつ、だれが出しましたか?

212年に、カラカラ帝が出しました。セウェルス朝の皇帝で、父セプティミウス=セウェルスの死後、弟ゲタを殺して単独の皇帝になった人です。

なぜカラカラ帝はローマ市民権を広げたのですか?

はっきりしません(諸説あり)。市民だけが払う税を増やすため、帝国の一体感を高めるため、神々への感謝のためなどの説があります。教科書では、市民権の拡大という結果を大事にします。

市民権をもらえなかった人はいますか?

奴隷は対象外でした。降伏した人々の一部がのぞかれたとする説もあります。対象は、帝国に住む自由人のほとんどです。

勅令のあと、ローマ帝国はどうなりましたか?

ローマ市民と属州の人々の区別はほぼなくなり、市民権の特別さは薄れました。217年にカラカラが暗殺され、235年のセウェルス朝の終わりのあと、軍人皇帝時代の大混乱に入ります。

ローマ市民権は、それまでどう広がってきましたか?

はじめはローマ市の人だけでしたが、征服した土地の人々にも広がりました。前91〜前88年の同盟市戦争でイタリア半島の自由人に広がり、212年に帝国全体の自由人に広がりました。

カラカラ浴場とは何ですか?

カラカラ帝のとき、216年に完成した巨大な公衆浴場です。浴場のほか、運動場や図書室などがあり、ローマ市に今も遺跡が残っています。

カラカラ帝は英語で何といいますか?

Caracalla(カラカラ)で、アントニヌス勅令は Constitutio Antoniniana(コンスティトゥティオ・アントニニアナ)またはAntonine Constitutionといいます。

カラカラ帝とアントニヌス勅令は入試でどう出ますか?

共通テストでは、212年・帝国の自由人に市民権・奴隷は対象外という内容が正誤問題で出ます。論述では、市民権の拡大の流れや、帝国の一体化との関係が問われます。

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出典・参考

  • 高校「世界史探究」の教科書の一般的な記述
  • カッシウス=ディオ『ローマ史』(カラカラ帝の記述)
  • 『使徒行伝』(ローマ市民権をもつパウロの記事)

最終更新:2026年11月3日/作成:大学受験合格大作戦