左袒(さたん)の意味と由来|史記の原文・書き下し文・現代語訳とイラストで読むお話【故事成語】

左袒(さたん)の意味と由来|史記の原文・書き下し文・現代語訳とイラストで読むお話【故事成語】

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左袒さたん

ひとことで言うと

味方すること・賛成すること。漢の周勃が北軍の兵に「劉氏の味方は左の肩をぬげ」と命じ、兵がみな左の肩をぬいだ話から。

読み方さたん
意味味方すること。ある人や意見に賛成すること。もとは「左の肩をぬぐ」こと。
出典『史記』呂太后本紀(同じ場面が『漢書』高后紀にも)
お話呂太后の死後、太尉の周勃が北軍の兵に「呂氏の為にする者は右袒せよ、劉氏の為にする者は左袒せよ」と命じ、兵はみな左袒した
似た言葉味方する・賛成する・肩を持つ・与する
反対の言葉反対する・敵対する・中立
漢文の句法「為」の読み・否定(非)・禁止(毋)・受身(為A所B)

このページのポイント

  • 「左袒」は味方すること・賛成すること。「〜に左袒する」の形で使うかたい言葉です
  • 出典は『史記』呂太后本紀。周勃が「劉氏の為にする者は左袒せよ」と命じ、北軍の兵はみな左の肩をぬいだ
  • 「袒」はころもへん。「左担」と書いたり「左派」の意味にとったりしないように

「左袒」の意味と読み方

「左袒」はさたんと読みます。意味は「味方すること」「ある意見や人に賛成すること」です。「A案に左袒する」「どちらにも左袒しない」のように使います。

「袒(たん)」は、着物のそでから腕をぬいで、肩をあらわにすることです。「左袒」は、もとは左の肩をぬぐという動作のことでした。中国の漢の時代、ある将軍が兵たちに「劉氏の味方をする者は左の肩をぬげ」と命じ、兵がみな左の肩をぬいだことから、「左袒」が「味方する」という意味になりました。

「袒」は肩をぬいで、味方の印に右袒(うたん)右の肩をぬぐ左袒(さたん)左の肩をぬぐ呂氏の味方劉氏の味方=兵はみな
「右袒」は呂氏の味方、「左袒」は劉氏の味方の印。兵はみな左袒しました
うかるくん

うかるくん

肩をぬぐのが「味方する」なんて、ふしぎな言葉ですね。

ミスターT先生

ミスターT先生

そうだね。これは『史記』呂太后本紀の、漢の王朝の運命が決まった場面から生まれた言葉なんだ。肩をぬぐのは、その場でだれの目にもはっきり分かる印だった。どちらの味方か、一目で分かるようにしたわけだね。

今の日本語では、次のように使います。

  • ○会議では、多くの人が部長の案に左袒した。
  • ○審判は、どちらのチームにも左袒することなく、公平に判定した。
  • ○その学者は、新しい説に左袒する論文を発表した。

どれも「どちらか一方の味方をする・賛成する」という場面です。かたい書き言葉で、新聞や評論、論文などで見かけることの多い言葉です。

絵で読む「左袒」のお話

話の舞台は、紀元前180年の漢の都・長安です。漢を建てた高祖(劉邦)がなくなったあと、皇后だった呂后(呂太后)が力をにぎり、自分の一族の呂氏を次々に王にしていました。その呂太后が病気でなくなると、都では「劉氏(高祖の一族)」と「呂氏」のどちらが天下を取るかという、大きな争いが始まります。

絵で読む「左袒」のお話(4こま)

1呂氏が軍をにぎる北軍呂太尉なのに、北軍に入れない…太尉の周勃呂氏の門番
1漢の高祖の皇后・呂太后がなくなると、呂氏の一族が都の軍をにぎりました。太尉の周勃さえ、北軍に入ることができません。
2将軍の印を手放す将軍の印を返して、自分の国へお帰りなさい友の言うことなら…酈寄呂禄
2周勃たちは、呂禄と仲のよい酈寄に呂禄を説かせます。呂禄は酈寄を信じて、将軍の印を手放しました。
3周勃の呼びかけ呂氏の為にする者は右袒せよ、劉氏の為にする者は左袒せよ!周勃北軍の兵劉氏の為にする者は左袒せよ
3北軍に入った周勃は、兵たちに「呂氏の味方は右の肩を、劉氏の味方は左の肩をぬげ」と命じます。
4みな左袒した劉氏のために!周勃左の肩をぬいだ兵軍中皆左袒して劉氏の為にす
4兵たちはみな左の肩をぬいで、劉氏の味方をすると示しました。こうして周勃は北軍をひきいることになりました。

都を守る軍には、北軍と南軍がありました。呂太后はなくなる前に、一族の呂禄(りょろく)を上将軍にして北軍を、呂産(りょさん)に南軍をまかせ、「必ず兵をにぎって宮殿を守れ」と言い残していました。軍の最高の役目である太尉(たいい)の周勃(しゅうぼつ)でさえ、北軍の門の中に入れなかったのです。

人差し指を立てて説明するミスターT先生

ミスターT先生

ここが大事なところだ。周勃は、兵たちに自分で選ばせる形をとった。命令でむりやり従わせるのではなく、「どちらの味方か、肩で示せ」と言ったんだ。兵がみな左袒したことで、北軍は劉氏の味方だとはっきりした。

周勃と丞相の陳平(ちんぺい)は、呂禄と仲のよい酈寄(れきき)に、「早く将軍の印を返して自分の国へ帰りなさい。そうしないと災いが起こる」と呂禄を説かせました。呂禄は友人の言葉を信じて印を手放し、周勃が北軍をひきいることになります。このとき周勃が北軍の兵に命じたのが、「呂氏の為にする者は右袒せよ、劉氏の為にする者は左袒せよ」という言葉でした。

「左袒」の原文・書き下し文・現代語訳

出典は、司馬遷の『史記』呂太后本紀(りょたいこうほんぎ)です。1文ずつ、返り点と送り仮名をつけた訓読文で読んでいきましょう。返り点の読み方は返り点(レ点・一二点・上下点)の読み方、書き下し文のきまりは書き下し文の書き方で説明しています(書き下し文は読み方の一例です)。

『史記』呂太后本紀の本文(維基文庫の本文。句読点を補ったもの)太尉將之入軍門,行令軍中曰:「為呂氏右袒,為劉氏左袒。」軍中皆左袒為劉氏。太尉行至,將軍呂祿亦已解上將印去,太尉遂將北軍。

話のもと:高祖との約束

書き下し文劉氏に非あらずして王わうたる者ものは、天下共に之を撃て。

(『史記』呂太后本紀(呂太后が、高祖と大臣たちの約束として引く言葉))

現代語訳劉氏でないのに王になる者がいれば、天下の者が力を合わせてこれを討て。

ここがポイント「非ず(あらず)」は「〜ではない」という否定の句法(不・無・非・莫・弗)の字です。高祖のこの約束があったので、呂太后が呂氏を王にしたことに、大臣たちは不満をもっていました。呂太后自身も「大臣たちはおだやかでない」と言っています。

呂太后の遺言

書き下し文必かならず兵に拠よりて宮を衛まもり、慎つつしみて喪もを送おくること毋なかれ、人の制せいする所ところと為なること毋なかれ。

(『史記』呂太后本紀(呂太后が呂産・呂禄に言った言葉))

現代語訳必ず兵をにぎって宮殿を守りなさい。気をつけて、(わたしの)葬列を見送りに出てはならない。人に押さえつけられてはならない。

ここがポイント「毋かれ(なかれ)」は禁止の句法(勿・毋・無・莫)。「人の制する所と為る」は「為A所B(AのBする所と為る)」の形で、「人に押さえつけられる」という受身の句法(見・被・為A所B)です。呂太后は、自分の死後に大臣たちが動くことを心配していました。

1文目:周勃が北軍の門に入る

書き下し文太尉之を将ひきゐて軍門に入り、令を軍中に行ひて曰はく、

(『史記』呂太后本紀)

現代語訳太尉(周勃)は兵をひきいて軍の門に入り、軍の中に命令を出して言った。

ここがポイント「将ゐる(ひきゐる)」は「ひきいる」。「令」はここでは「命令」という名詞で、「〜しむ」と読む使役の句法(使・令・教・遣)の「令」とは働きがちがいます。「之」は、呂禄から受けついだ北軍の兵を指します。

2文目:周勃の命令(「左袒」のもと)

書き下し文呂氏の為ためにするものは右袒うたんせよ、劉氏の為ためにするものは左袒さたんせよ。

(『史記』呂太后本紀)

現代語訳呂氏の味方をする者は右の肩をぬげ。劉氏の味方をする者は左の肩をぬげ。

ここがポイント「〜の為にする」は「〜のためにつくす・〜の味方をする」。「為」の読み方は「為」の読み方と用法で整理しています。原文には「者」の字はありませんが、「呂氏の為にする者は右袒せよ」と読むのが一般的です。

3文目:兵はみな左袒した

書き下し文軍中皆みな左袒して劉氏の為ためにす。

(『史記』呂太后本紀)

現代語訳軍の中の者は、みな左の肩をぬいで、劉氏の味方をした。

ここがポイント「皆(みな)」は「全員」。兵がひとり残らず劉氏を選んだことで、北軍は周勃のものになりました。この一文から、「左袒」が「味方する」という意味で使われるようになりました。

4文目:北軍は周勃のものに

書き下し文太尉遂つひに北軍に将しやうたり。

(『史記』呂太后本紀)

現代語訳太尉(周勃)は、こうして北軍の将軍となった。

ここがポイント「遂に(つひに)」は「こうして・そのまま」。この直前に「将軍呂禄も亦已に上将の印を解きて去る」(将軍の呂禄も、すでに上将軍の印をはずして去っていた)とあり、兵の心も将軍の印も、周勃の側にそろったことが分かります。
「左袒」の原文で覚える句法4つ非劉氏に非ずして劉氏でないのに否定為〜の為にする〜の味方をする「為」の読み毋〜こと毋かれ〜してはならない禁止為A所BAのBする所と為るAにBされる受身
「左袒」の話の原文で覚える句法4つ。「為」の読み分けは入試でよく問われます

『漢書』の本文と「袒」の字

同じ場面は、班固の『漢書』高后紀にもあり、維基文庫の本文では「勃入軍門,行令軍中曰:『為呂氏右袒,為劉氏左袒。』軍皆左袒」となっています。言葉はほとんど同じです。

この話は、周勃の伝記である『史記』絳侯周勃世家(こうこうしゅうぼつせいか)にもかかわりますが、世家の本文は「その話は呂后・孝文の記録の中にある」として、くわしい場面を呂太后本紀にゆずっています。字については、今回確かめた『史記』『漢書』の本文はどちらも「袒」でした。同じ「はだぬぐ」意味の「襢(たん)」の字で書く本もあるとされますが、どの本がその字かは確かめられなかったので、ここでは「袒」で書いています。

サクラちゃん

サクラちゃん

右袒した兵は、ひとりもいなかったんですか?

ミスターT先生

ミスターT先生

原文は「軍中皆左袒して劉氏の為にす」、つまりみんな左袒したと書いている。呂氏の側にとっては、自分たちの軍が一瞬で味方でなくなったわけだ。だから「左袒」は、ただ賛成するだけでなく、どちらにつくかをはっきり示すという感じのある言葉なんだね。

出典『史記』呂太后本紀と話の背景

『史記』は、前漢の司馬遷(しばせん)が書いた歴史の本です。皇帝の記録である「本紀」の中に、皇帝ではない呂太后の本紀が立てられていることは、よく知られた特色です。恵帝がなくなったあと、実際に政治を動かしていたのが呂太后だったからだと説明されます。

劉氏と呂氏高祖(劉邦)前195年に死去呂后(呂太后)前180年に死去恵帝劉氏の側斉王・朱虚侯の劉章代王(のちの文帝)功臣:周勃・陳平呂氏の側呂産(相国・南軍)呂禄(上将軍・北軍)ほかに呂氏の王たち北軍の兵がどちらにつくかで勝負が決まる
劉氏と呂氏。北軍の兵がどちらにつくかで、勝負が決まりました

呂太后は、高祖とともに漢を建てた苦労を重ねた人物ですが、高祖の死後は、高祖のほかの子どもたちや、きらった人々にきびしい仕打ちをしたことでも知られます。功臣の韓信が殺されたのも、高祖の時代の呂后によるとされます(狡兎死して走狗烹らる・国士無双)。高祖は「劉氏でない者が王になったら、天下でこれを討て」と約束させていましたが、呂太后はその約束にそむいて、呂氏の人々を王にしました。

左袒の前と後前195年高祖(劉邦)が死去。呂后の子の恵帝が即位前188年恵帝が死去。呂太后が政治をとり、呂氏を王にする前180年7月呂太后が死去。呂禄が北軍、呂産が南軍をにぎる前180年8月周勃が北軍に入り「左袒せよ」。兵はみな左袒その後劉章が呂産を討ち、呂氏はほろぶ。代王が文帝に
呂太后の死から、文帝の即位まで。左袒の場面が、その分かれ目でした

呂太后がなくなると、斉王が兵をあげ、都では周勃と陳平が呂氏を討つ計画を進めました。北軍を手に入れた周勃は、朱虚侯の劉章(りゅうしょう)に兵をあずけ、劉章は宮殿に入ろうとした呂産を討ちます。こうして呂氏の一族はほろび、高祖の子の代王がむかえられて、文帝として即位しました。文帝の時代は、のちの景帝の時代と合わせて、世の中が落ち着いた時代として知られています。

周勃は、口数の少ない、かざらない人物だったと書かれています。高祖は生前、「劉氏を安んずる者は必ず勃なり」(劉氏の天下を安定させるのは、きっと周勃だ)と言ったと伝えられていて、左袒の場面は、その言葉どおりになった場面でもあります。ただ、周勃はのちに反乱をうたがわれて牢屋に入れられ、「わたしは百万の軍をひきいたことがあるが、牢役人がこれほどえらいとは知らなかった」となげいたことも、『史記』に書かれています。

北軍と南軍、そして「印」の重み

漢の都・長安には、宮殿を守る南軍と、都の守りをになう北軍がありました。呂太后が呂禄に北軍、呂産に南軍をまかせたのは、都の兵の力をすべて呂氏の手に置くためでした。周勃は軍の最高の役目である太尉でしたが、兵を動かすための印や割り符(わりふ)がなければ、軍の門に入ることさえできなかったのです。原文には、割り符(節)をあずかる襄平侯に節を持たせ、天子の命令という形をとって、周勃を北軍に入れさせたことも書かれています。

つまり、この場面で周勃が手に入れたのは、将軍の印という「形」と、兵たちの左袒という「心」の両方でした。印だけでは兵が従うとはかぎりません。全員に肩をぬがせて味方の印を示させたことで、周勃は北軍を本当に自分の力にしたのです。左袒の話が「味方する」の意味で今まで残っているのは、この場面が、天下の分かれ目として強く記憶されたからだと言えます。

「左袒」の使い方と例文・似た言葉

「左袒」は、「〜に左袒する」「〜に左袒しない」の形で使います。人や意見の片方の味方をする・賛成するときに使うのがポイントで、かたい書き言葉です。

  • ○委員の多くが、生徒会長の提案に左袒した。(意見に賛成する)
  • ○どちらの説にも左袒せず、両方の根拠を調べてみよう。(打ち消しの形)
  • ○新聞は、どちらの候補にも左袒しない立場で記事を書くべきだ。(公平な立場)
  • ×左ききの人のことを左袒という。(「左」は手や方向の意味ではない)
  • ×彼は政治の考え方が左袒だ。(「左翼・左派」の意味ではない)
左袒似た言葉味方する賛成する肩を持つ与する使い方に注意加担反対の言葉反対する敵対中立
似た言葉・反対の言葉。「加担」は悪いことに手を貸す場面でよく使います

似た言葉

  • 味方する・賛成する:ふだんの言い方。「左袒する」をやさしく言いかえるとこうなります。
  • 肩を持つ:一方をひいきして味方すること。「肩」が出てくるのも、左袒と似ていておもしろいところです。
  • 与する(くみする):仲間になる・賛成する。「どちらにも与しない」の形でよく使います(「与」の読み方・書き順・部首)。
  • 加担(かたん):力を貸して仲間になること。「悪事に加担する」のように、よくないことに手を貸す場面で使うことが多い言葉です(「担」の読み方・書き順・部首)。

文の中での使い方の注意

「左袒」は、ふだんの会話ではあまり使わない、かたい書き言葉です。作文やレポートで使うなら、「〜の説に左袒する」「どちらにも左袒しない」のように、意見や立場に賛成する場面で使うと自然です。友だちとのけんかで「ぼくの味方をして」と言うときに「左袒して」と言うと、大げさで少しおかしな感じになります。

反対の言葉・関係のある言葉

  • 反対する・敵対する:味方しないで、向こう側に立つこと。
  • 中立:どちらの味方もしないこと。
  • 付和雷同(ふわらいどう):自分の考えがなく、人の意見にすぐ同調すること。左袒は自分で選んで味方する点がちがいます。
  • 右顧左眄(うこさべん):まわりを気にして、なかなか決められないこと。どちらにつくかはっきりさせる「左袒」とは反対の態度です。

「左袒」のよくあるまちがい

「袒」は、ころもへん袒ころもへん肌をぬぐ○ 左袒担てへん加担・担当× 左担坦つちへん平坦× 左坦着物(衣)に関係するので「ころもへん」
「袒」は衣服に関係する「ころもへん」。「担」「坦」と書かないように
  • 「左担」と書く:「加担」の「担(てへん)」とまちがえやすい字です。左袒の「袒」は、ころもへんに「旦」です。「袒」は常用漢字ではないので、読み方とあわせて形を覚えておきましょう。「左」の字は「左」の読み方・書き順・部首で確かめましょう。
  • 「さだん」「さぜん」と読む:読みはさたんです。
  • 「左翼」「左派」の意味だと思う:「左袒」の「左」は、政治の左右とは関係ありません。もとは「左の肩をぬぐ」という動作です。
  • 「右袒」も今の言葉として使う:原文には「右袒」も出てきますが、今の日本語で「味方する」の意味で使うのは「左袒」だけです。
  • 「周勃が左の肩をぬいだ」と思う:左袒したのは北軍の兵たちです。周勃は、肩をぬがせて味方の印を示させた側です。
うかるくん

うかるくん

どうして「左」が劉氏で、「右」が呂氏だったんですか?

ミスターT先生

ミスターT先生

いい疑問だね。原文には、なぜ左を劉氏にしたのかは書かれていない。昔の中国で左右のどちらを重んじたかには時代や場面によっていろいろな説があって、この場面の理由ははっきりしない。だから「左が劉氏、右が呂氏と決めて呼びかけた」と、原文のとおりに覚えておこう。

入試ではこう出る

「左袒」は、おもに大学受験で、故事成語・語彙の知識や、『史記』の漢文読解として出てきます。

  • 語彙・故事成語の問題:「左袒」の意味(味方する・賛成する)を選ぶ問題、読み方(さたん)を答える問題。評論文の中の「〜に左袒する」の意味を問う問題もあります。
  • 漢文の問題:「為呂氏右袒、為劉氏左袒」の書き下し文と現代語訳、「為」の読み方(ため)と意味、「軍中皆左袒為劉氏」から兵がどちらについたかを答える問題などがよく問われます。「為」の読み分けは「為」の読み方と用法で練習しましょう。
  • 文学史・歴史の知識:『史記』の構成(本紀・世家・列伝)や、呂太后・文帝などの人物の知識が、読解の助けになります。共通テストの漢文の出方は共通テストの漢文(配点・時間配分)へ。
ひらめいたサクラちゃん

サクラちゃん

「為」は「ため」と読んで「〜の味方をする」。「劉氏の為にす」は「劉氏の味方をした」と訳せばいいんですね!

練習問題

やさしい

  1. 「左袒」の意味として正しいものを選びましょう。
    ア 左ききであること イ 味方すること・賛成すること ウ 政治の考えが左派であること エ どちらにもつかないこと
    答えと解説を見るイ。左の肩をぬいで劉氏の味方を示した話から、「味方する・賛成する」という意味になりました。エは「中立」です。
  2. 「左袒」の読み方を答えましょう。また、「袒」は何をすることですか。
    答えと解説を見るさたん。「袒」は、着物のそでから腕をぬいで肩をあらわにすることです。

ふつう

  1. 「為呂氏右袒、為劉氏左袒」を書き下し文に直し、現代語訳しましょう。
    答えと解説を見る呂氏の為にする者は右袒せよ、劉氏の為にする者は左袒せよ。訳は「呂氏の味方をする者は右の肩をぬげ、劉氏の味方をする者は左の肩をぬげ」。
  2. この命令を出したのはだれですか。また、北軍の兵はどうしましたか。
    答えと解説を見る命令を出したのは太尉の周勃です。北軍の兵はみな左袒して劉氏の味方をしました(軍中皆左袒して劉氏の為にす)。

むずかしい

  1. 周勃が、兵に「右袒」「左袒」させたことには、どんな効果があったと考えられますか。原文の結果をふまえて説明しましょう。
    答えと解説を見る肩をぬぐという目に見える印で、兵ひとりひとりにどちらにつくかを示させたので、北軍が劉氏の味方であることがその場ではっきりしました。原文では兵がみな左袒したので、周勃は北軍をひきいて呂氏を討つことができました。

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よくある質問

左袒の意味を簡単に言うと何ですか?

味方すること、ある人や意見に賛成することです。「A案に左袒する」「どちらにも左袒しない」のように使います。もとは「左の肩をぬぐ」という動作のことでした。

左袒の由来となった話はどんな話ですか?

『史記』呂太后本紀の話です。呂太后の死後、太尉の周勃が北軍の兵に「呂氏の為にする者は右袒せよ、劉氏の為にする者は左袒せよ」と命じたところ、兵はみな左の肩をぬいで劉氏の味方をしました。

左袒の読み方は何ですか?

「さたん」と読みます。「袒」は、ころもへんに旦と書く字で、着物をぬいで肩をあらわにするという意味です。「左担」と書くのはまちがいです。

左袒の「左」は左翼や左派の意味ですか?

いいえ、関係ありません。周勃が「劉氏の味方は左の肩をぬげ」と命じたことから来た言葉で、政治の左右とは関係がありません。

右袒という言葉はありますか?

原文には「呂氏の為にする者は右袒せよ」と出てきますが、今の日本語で「味方する」の意味で使うのは「左袒」だけです。

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出典・参考

  • 原文:『史記』呂太后本紀・絳侯周勃世家(維基文庫の本文で確認)、『漢書』高后紀(維基文庫の本文で確認)
  • 書き下し文・現代語訳:合格大作戦(読み方の一例)
  • 「襢」の字で書く本があるかどうか:確かめられなかった
  • お話の絵・図:合格大作戦

最終更新:2026年10月29日/作成:大学受験合格大作戦