三人行えば必ず我が師ありの意味|論語の原文・書き下し文・現代語訳とイラスト【故事成語】

三人行えば必ず我が師ありの意味|論語の原文・書き下し文・現代語訳とイラスト【故事成語】

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三人行えば必ず我が師ありさんにんおこなえばかならずわがしあり

ひとことで言うと

何人かでいれば、その中に必ず自分の先生(手本)がいる。よい人は見習い、よくない人を見たら自分を直す。どんな人からでも学べる、という孔子の言葉です。

読み方さんにんおこなえばかならずわがしあり
意味三人で行動すれば、その中に必ず手本となる人がいる。よい人は見習い、悪い人は自分を反省する材料になるということ。
出典『論語』述而篇。原文は「三人行、必有我師焉。擇其善者而從之、其不善者而改之」
お話出来事の話ではなく、孔子が自分の学び方を語った言葉
似た言葉人のふり見て我がふり直せ・他山の石・反面教師
反対の言葉唯我独尊・独りよがり
漢文の句法置き字(焉・而)・「而」の働き・反語(何〜有らん)

このページのポイント

  • 意味は何人かでいれば、その中に必ず自分の先生がいる。どんな人からでも学べるということです
  • 原文の続きは「善なる者は見習い、不善なる者を見たら自分を改める」。よくない人も先生になります
  • 「三人寄れば文殊の知恵」とは別の言葉。こちらは人から学ぶ、あちらは相談の力です

「三人行えば必ず我が師あり」の意味と読み方

「三人行えば必ず我が師あり」は、さんにんおこなえばかならずわがしありと読みます。意味は「何人かでいっしょに行動すれば、その中に必ず自分の先生(手本)になる人がいる」ということです。『論語』にある孔子の言葉で、どんな人からでも学ぶことができるという教えです。

この言葉には続きがあります。「其の善なる者を択びて之に従ひ、其の不善なる者は之を改む」(よい所のある人を選んでそれを見習い、よくない所のある人を見たら、自分の同じ所を改める)。つまり、よい人だけでなく、よくない人も「先生」になるというのが、この言葉のいちばん大事なところです。

5つに分けて、意味をつかむ三人さんにん三人で(何人かで)行えばおこなえばいっしょに道を行けば必ずかならずきっと我が師わがし自分の先生(手本)がありありいる何人かでいれば、その中にきっと先生がいる
「行えば」は「何かをすれば」ではなく「いっしょに道を行けば」という意味です
うかるくん

うかるくん

「よくない人も先生になる」って、どういうことですか?まねしたらだめですよね?

ミスターT先生

ミスターT先生

そう、まねはしない。「あ、あれはよくないな」と思ったら、自分にも同じところがないかふり返って直すんだ。だから、よくない人も「自分を直すきっかけをくれる先生」になる。日本のことわざの「人のふり見て我がふり直せ」と同じ考え方だね。

ふだんの言い方では、次のように使います。

  • ○班のメンバーはみんな得意なことがちがう。三人行えば必ず我が師ありで、毎日何かを教わっている。
  • ○後輩の練習の工夫を見て、三人行えば必ず我が師ありだと感じた。
  • ○「三人行えば必ず我が師あり」と言うように、どんな人にも学ぶ所がある。

絵で読む「三人行えば必ず我が師あり」のお話

この言葉は、『論語』の中で孔子が短く語った教えで、もとになった出来事の話は原文にありません。そこで4こまは、言葉の中身を絵にした「たとえの場面」です。孔子が2人の道づれと旅をしたら…と想像して描きました。

絵で読む「三人行えば必ず我が師あり」(4こま)

13人で道を行く(たとえ)3人で歩けば、きっと先生が見つかる孔子AさんBさん
1ここからはたとえの場面です。孔子が、Aさん・Bさんと3人で旅の道を歩いています。(原文に出来事の話はありません。想像の絵です)
2よい所は見習うよい所は見習おう持ちましょうAさん
2Aさんは、重い荷物を持ったお年寄りに手を貸しました。孔子は「よい所は見習おう」と思います。
3よくない所は自分を直す自分にも同じ所がないかな?どけどけ!Bさん
3Bさんは、人を押しのけていばっています。孔子は「自分にも同じ所がないかな」とふり返ります。
4どちらも先生になる三人行えば、必ず我が師あり見習う自分を直す三人行えば必ず我が師あり
4よい人は手本に、よくない人は自分を直すきっかけに。どちらの人も、孔子にとって先生になりました。

ポイントは3こま目です。いばるBさんを見て、孔子はBさんを責めるのではなく、自分をふり返っています。原文の「之を改む」の「之」は、相手のよくない所そのものを指し、それと同じ所が自分にあれば改めると読むのがふつうです。人を批判する道具ではなく、自分をみがく道具として人を見る、というのがこの言葉の考え方です。

どちらの人も「我が師」になる自分よい所のある人其の善なる者を択びて之に従ふ→ 見習う(手本にする)よくない所の人其の不善なる者は之を改む→ 自分を直す(自分をふり返る)
よい所のある人は「見習う」手本、よくない所のある人は「自分を直す」きっかけ。どちらも先生です
本を開いて説明するミスターT先生

ミスターT先生

「我が師」の「師」は、えらい学者や学校の先生だけではないんだ。友だち、後輩、家族、たまたま道で会った人でも、自分が何かを学べば、その人はそのときの「師」になる。孔子はそういう目で人を見ていたんだね。

「三人行えば必ず我が師あり」の原文・書き下し文・現代語訳

出典は『論語』述而(じゅつじ)篇です。全体は3つの文からできていて、2文目と3文目が「だれを、どう先生にするか」の説明になっています。返り点の読み方は返り点(レ点・一二点)の読み方、書き下し文のきまりは書き下し文の書き方へ。

『論語』述而篇の本文(維基文庫の本文。句読点は補ったもの)子曰、三人行、必有我師焉。擇其善者而從之、其不善者而改之。

1文目:三人行へば、必ず我が師有り

書き下し文子し曰いはく、三さん人にん行おこなへば、必かならず我わが師し有あり。

(『論語』述而第七)

現代語訳先生(孔子)がおっしゃった。「三人で道を行けば、その中に必ず自分の先生がいる。

ここがポイント「行(おこな)へば」は、ここでは「いっしょに道を行けば・行動をともにすれば」の意味です。文の終わりの「焉」は読まない置き字で、言い切りを強める働きをしています。「我が師有り」は、一二点で「我が師」を先に読んでから「有り」に返ります。

2文目:善なる者を択びて之に従ふ

書き下し文其その善ぜんなる者ものを択えらびて之これに従したがひ、

(『論語』述而第七(原文の字は「擇」「從」))

現代語訳その中のよい所のある人を選んで、それを見習い、

ここがポイント「而」は読まない置き字で、送り仮名の「て」がその働きをしています。「而」の働きは「而」の読み方と働き(順接・逆接)でくわしく説明しています。「之(これ)」は「その人のよい所」を指します。原文の「擇」「從」は、今の「択」「従」の古い字の形です。

3文目:不善なる者は之を改む

書き下し文其その不ふ善ぜんなる者ものは之これを改あらたむ。

(『論語』述而第七)

現代語訳よくない所のある人を見たら、(自分の)それと同じ所を改める。」

ここがポイント「不善(ふぜん)」は「善くないこと」。ここは「不」を打ち消しの「ず」と読まず、「不善」で1つの言葉として音読みします。「之を改む」の「之」は相手のよくない所で、自分の中のそれと同じ所を改める、という意味に取るのがふつうです。
原文で覚える字と句法4つ必必ず〜きっと〜・かならず〜強め焉(読まない)文の終わりの置き字置き字其〜者其の〜者その中の〜な人指し示す而(読まない)「〜て」でつなぐ置き字
「必」「其〜者」と、読まない字の「焉」「而」。短い文に大事な字がつまっています

「三人」はだれのことか(諸説あり)

「三人」が自分をふくめた三人なのか、自分のほかに三人なのかは、はっきり書かれていません。宋の時代の学者・朱子(朱熹)の注では、三人のうち一人は自分で、残りの二人が一人はよい人、一人はよくない人という形で説明されていて、日本でもこの読み方がよく知られています。ただし、「三」を「何人か」くらいの意味に取って、人数そのものにはこだわらずに読む説明も見られ、諸説ありです。どの読み方でも、「人が集まれば、必ず学ぶ相手がいる」という中心の意味は変わりません。

同じ考えの言葉「賢を見ては斉しからんことを思ふ」

『論語』里仁(りじん)篇には、この言葉とそっくりな考えの言葉があります。

賢を見ては斉しからんことを思ふ

書き下し文賢けんを見みては斉ひとしからんことを思おもひ、不ふ賢けんを見みては内うちに自みづから省かへりみるなり。

(『論語』里仁第四)

現代語訳すぐれた人を見たら、自分もその人と同じようになりたいと思い、すぐれていない人を見たら、心の中で自分をふり返って反省する。

ここがポイント「斉(ひと)し」は「同じである」。「省(かへり)みる」は「ふり返って反省する」。述而篇の「善なる者に従ひ、不善なる者は改む」と、ほとんど同じ組み立てになっています。「焉」「而」はここでも読まない置き字です。
サクラちゃん

サクラちゃん

「賢を見ては…」と「三人行えば…」って、言っていることがほとんど同じですね。

ミスターT先生

ミスターT先生

よく気がついたね。孔子は「人を見たら、自分の勉強のチャンスにする」ということを何度も言っている。里仁篇は「見たら思う・省みる」という心の動き、述而篇は「三人いれば必ず先生がいる」という場面の言い方。2つを並べると、孔子の学び方がよく分かるよ。

出典『論語』と言葉の背景

『論語』は、孔子(紀元前551年ごろ〜紀元前479年)と弟子たちの言葉を、孔子の死後にまとめた全20篇の本です。述而篇は第7篇で、「述べて作らず、信じて古を好む」(昔の教えを受けついで伝え、自分で勝手に作らない)という孔子の言葉で始まります。孔子が自分の学び方について語った言葉が多く集まっている篇です。儒家の考え方の全体は諸子百家(儒家・道家・法家)の考え方で図にしています。

大きな木の下の林で、昔の中国の服を着た人々が、巻物を広げたり書き写したりしている、半円形の絵
孔子と弟子たちが、林の中で古い記録を整理し、書き写している場面を想像して描いた絵。アメリカの画家ジョン・ラファージが、壁画の下絵として1903年に描いたものです。画像:John La Farge「The Recording of Precedents: Confucius and His Pupils Collate and Transcribe Documents in Their Favorite Grove」(1903年、メトロポリタン美術館蔵、パブリックドメイン)

孔子は「生まれつきの天才」ではなかった

同じ述而篇で、孔子は「我は生まれながらにして之を知る者に非ず。古を好み、敏にして以て之を求むる者なり」(わたしは生まれつき物事を知っていた者ではない。昔のことが好きで、熱心に学んで求めてきた者だ)と言っています。孔子は、自分を特別な天才とは考えず、学び続けることで身につけてきた人だと語っているのです。だからこそ、「三人で歩けば必ず先生がいる」と、どこにでも学ぶ相手を見つけようとしたのでしょう。

子貢の答え「何の常師か之れ有らん」

『論語』の子張(しちょう)篇には、衛の国の公孫朝(こうそんちょう)が、孔子の弟子の子貢(しこう)に「仲尼(ちゅうじ=孔子)はだれに学んだのか」とたずねた話があります。子貢は、昔の周の文王・武王のよい教えは今も人々の中に残っていて、すぐれた人はその大きな所を、そうでない人も小さな所を覚えている、と説明したあと、こう答えました。

夫子焉くんぞ学ばざらん

書き下し文夫ふう子し焉いづくんぞ学まなばざらん。而しかして亦また何なんの常じやう師しか之これ有あらん。

(『論語』子張第十九(子貢の言葉))

現代語訳先生(孔子)は、どこででも学ばれた。そしてまた、決まった先生などいたことがあろうか(いなかった)。

ここがポイント「焉(いづ)くんぞ〜ん」「何の〜か有らん」は、どちらも「〜だろうか、いや〜ない」と強く打ち消す反語の句法です。「常師(じょうし)」は決まった一人の先生。孔子は特定の先生につかず、まわりの人みんなから学んだというのです。「三人行えば必ず我が師あり」を、弟子の目から説明したような言葉です。
孔子の先生はだれ?(子張篇)衛の公孫朝「仲尼(孔子)はだれに学んだのですか?」子貢の答え昔のよい教えは、人々の中に残っている。すぐれた人も、ふつうの人も、それぞれ少しずつ知っているだから先生は、どこででも学んだ決まった先生(常師)はいない
子貢は「孔子には決まった先生はいない。どこででも学んだ」と答えました

目下の人にもたずねる「下問を恥ぢず」

孔子は、身分や年が下の人から学ぶことも大切にしました。公冶長(こうやちょう)篇では、衛の孔文子(こうぶんし)という人が「文」という立派なおくり名をもらった理由を、「敏にして学を好み、下問を恥ぢず」(かしこいうえに学問を好み、目下の人にたずねることを恥ずかしがらなかった)と説明しています。「三人行えば…」の「師」に、年下や後輩もふくまれることがよく分かる言葉です。

「三人行えば必ず我が師あり」の使い方と例文・似た言葉

この言葉は、まわりの人から学ぼうとする姿勢を言うときや、どんな人にも学ぶ所があることを伝えるときに使います。自分の心がけとして言うことが多く、他人を「先生」と持ち上げるあいさつにも使えます。

  • ○新しいクラスでも、三人行えば必ず我が師ありの気持ちで、友だちのよい所を見つけたい。(自分の心がけ)
  • ○口の悪い先輩を見て、自分の言葉づかいも気をつけようと思った。三人行えば必ず我が師ありだ。(よくない人から学ぶ)
  • ○祖母は「三人行えば必ず我が師あり。孫からもスマホの使い方を教わっているよ」と笑った。(目下の人からも学ぶ)
  • ×三人で相談したら、いいアイデアが出た。三人行えば必ず我が師ありだ。(相談の力を言うのは「三人寄れば文殊の知恵」)

勉強や部活で生かすには

この言葉を毎日の勉強に生かすなら、まわりの人の「よいやり方」を1つずつ見つけてまねするのが近道です。たとえば、ノートの取り方が上手な友だち、質問のしかたが上手な友だち、計算ミスが少ない友だちなど、1人に1つずつ「先生」を見つけるつもりで見てみましょう。反対に、「あの失敗は自分もやりそうだ」と思うことがあれば、それも大事な発見です。孔子の言う「不善なる者」から学ぶとは、人の失敗を笑うのではなく、自分の失敗を先回りして防ぐことだと言えます。部活動でも、うまい選手の動きを見るだけでなく、ミスが出た場面を見て「自分ならどうするか」を考えると、同じ時間でも学べることが多くなります。

三人行えば必ず我が師あり似た言葉人のふり見て我がふり直せ他山の石反面教師見賢思斉(論語)少しちがう三人寄れば文殊の知恵反対の考え方唯我独尊独りよがり
似た言葉・少しちがう言葉・反対の考え方

似た言葉

  • 人のふり見て我がふり直せ(ことわざ):人の行いを見て、自分の行いを反省して直せ。原文の後半「其の不善なる者は之を改む」にあたります。
  • 他山の石:よその山の悪い石も、自分の玉をみがく役に立つ。他人のよくない言行も、自分をみがく材料になるということ。『詩経』の言葉です。
  • 反面教師:悪い見本として、そうならないように学ぶ相手のこと。
  • 朱に交われば赤くなる:人はつきあう相手によって、よくも悪くもなる。まわりの人から影響を受けるという点で近い言葉ですが、こちらは「だから相手を選べ」という注意です。

反対の考え方

  • 唯我独尊(ゆいがどくそん):今の使い方では、自分だけがえらいとうぬぼれること。人から学ぼうとしない態度です。
  • 独りよがり:自分だけでよいと思いこみ、人の意見を聞かないこと。
  • 付和雷同(ふわらいどう):自分の考えを持たず、ほかの人の意見にすぐ合わせること。よい人もよくない人も区別せずまねるのは、この言葉の反対です。

「三人行えば必ず我が師あり」のよくあるまちがい

「三人」が出てくる2つの言葉三人行えば必ず我が師あり『論語』の言葉人から学ぶ(見習う・自分を直す)三人寄れば文殊の知恵日本のことわざ集まって相談するとよい知恵が出る学ぶ相手相談の力
「三人行えば」は人から学ぶ言葉、「三人寄れば」は相談の力を言うことわざ。意味がちがいます
  • 「三人寄れば文殊の知恵」と混同する:「三人寄れば文殊の知恵」は、ふつうの人でも三人集まって相談すれば、知恵をつかさどる文殊菩薩のようなよい知恵が出る、という日本のことわざです。「三人行えば必ず我が師あり」は人から学ぶことを言う『論語』の言葉で、意味がちがいます。
  • 「行う」を「何かをする」の意味に取る:「三人で何かをすれば」と取るのは少しずれています。「行」はいっしょに道を行く・行動をともにすることです。教科書や辞書によっては「三人行けば」と読むものもあります。
  • 「よい人だけが先生」と思う:原文の後半に「其の不善なる者は之を改む」とあるように、よくない人も、自分を直すきっかけをくれる先生です。
  • 「よくない人の欠点を直してあげる」と取る:「之を改む」は、ふつう自分の中の同じ欠点を改めると読みます。人を直す話ではありません。
  • 字をまちがえる:「師(し)」を「帥(すい)」と書かないように。字の形は「師」の読み方・書き順・部首で確かめましょう。原文の「擇」「從」は、今の「択」の読み方・書き順・部首・「従」の読み方・書き順・部首です。

入試ではこう出る

「三人行えば必ず我が師あり」は、中学の教科書の『論語』で取り上げられることの多い言葉です。短いのに置き字が2つ入っているので、漢文の入門の問題によく使われます。

  • 中学受験:意味を選ぶ問題、「人のふり見て我がふり直せ」など似た意味のことわざを選ぶ問題。「三人寄れば文殊の知恵」とのちがいを問う問題も考えられます。
  • 高校受験:「必有我師焉」の返り点・書き下し文、「焉」「而」が置き字であること、「之」が何を指すかを答える問題がよく問われます。対策は高校受験の漢文(返り点・書き下し文の対策)へ。
  • 大学受験:「其不善者而改之」の解釈(だれの何を改めるか)、子張篇「何常師之有」の反語の訳。共通テストの漢文の出方は共通テストの漢文(配点・時間配分)にまとめています。
ひらめいたサクラちゃん

サクラちゃん

「之を改む」の「之」は、相手のよくない所。でも改めるのは自分!ここを「相手を直す」と書くと×になりそうなので気をつけます。

練習問題

やさしい

  1. 「三人行えば必ず我が師あり」の意味として正しいものを選びましょう。
    ア 三人で相談すれば、よい知恵が出る イ 何人かでいれば、その中に必ず自分の手本になる人がいる ウ 先生は三人いたほうがよい エ 三人で旅をすると、必ず先生に会える
    答えと解説を見るイ。アは「三人寄れば文殊の知恵」の意味です。
  2. この言葉と似た意味のことわざを、次から1つ選びましょう。
    ア 人のふり見て我がふり直せ イ 急がば回れ ウ 石の上にも三年 エ 二階から目薬
    答えと解説を見るア。他人の行いを見て、自分の行いを直すことです。

ふつう

  1. 「三人行、必有我師焉」を書き下し文に直しましょう。また、読まない字を答えましょう。
    答えと解説を見る三人行へば、必ず我が師有り。読まない字(置き字)は「焉」です。
  2. 「其不善者而改之」の「之」は何を指していますか。また、だれが改めるのですか。
    答えと解説を見る「之」はよくない所のある人の、そのよくない所を指します。改めるのは自分で、自分の中にある同じよくない所を直す、という意味です。

むずかしい

  1. 子張篇で子貢は「夫子焉不学。而亦何常師之有」と言っています。「何常師之有」を、反語であることがわかるように現代語訳しましょう。
    答えと解説を見る決まった先生などいたことがあろうか、いや、いなかった。「何の〜か之れ有らん」は反語の形です。
  2. 里仁篇の「見賢思斉焉、見不賢而内自省也」と、述而篇の「三人行、必有我師焉。…」の共通点を説明しましょう。
    答えと解説を見るどちらも、すぐれた人(善なる者)は手本にして見習い、すぐれていない人(不善なる者)を見たら自分をふり返って改めるという、人を見て自分を高める考え方を言っている点です。

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よくある質問

「三人行えば必ず我が師あり」の意味を簡単に言うと何ですか?

何人かでいっしょにいれば、その中に必ず自分の先生(手本)になる人がいる、という意味です。よい人からはよい所を見習い、よくない人を見たら自分の同じ所を直す、と続きます。

「三人行えば必ず我が師あり」の出典はどこですか?

『論語』の述而篇です。原文は「三人行、必有我師焉。擇其善者而從之、其不善者而改之」で、孔子の言葉です。

「三人寄れば文殊の知恵」とどうちがいますか?

「三人寄れば文殊の知恵」は、ふつうの人でも三人集まって相談すればよい知恵が出る、という日本のことわざです。「三人行えば必ず我が師あり」は、どんな人からでも学べるという『論語』の言葉で、意味がちがいます。

「三人」には自分もふくまれますか?

原文には書かれていません。朱子の注では、三人のうち一人は自分で、残りの二人の一人がよい人、一人がよくない人という形で説明されていて、この読み方がよく知られています。ほかの説明もあり、諸説あります。

原文の「焉」と「而」は何と読みますか?

どちらも書き下し文では読まない「置き字」です。「焉」は文の終わりで言い切りを強め、「而」は送り仮名の「て」などで前後をつなぐ働きをしています。

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出典・参考

  • 原文:『論語』述而第七・里仁第四・子張第十九・公冶長第五(維基文庫の本文で確認)
  • 書き下し文・現代語訳:合格大作戦(教科書で多い読み方をもとにした一例)
  • 絵:メトロポリタン美術館(Open Access、パブリックドメイン)
  • お話の絵・図:合格大作戦(場面はたとえの絵)

最終更新:2026年10月29日/作成:大学受験合格大作戦