第二章 競争心なく超マイペースで、のんびり過ごした息子の中学時代 57〜100
中学一年(平成十二年〜平成十三年)まだ小学生気分が抜けない一年生。

地元の公立中学か、中高一貫私立中学受験か。

親に経済的余裕があり、本人に能力があり、受験したいと希望するのなら、やはり公立中学ではなく、中高一貫私立中学を受験させる方がいいのかもしれません。私ももう少し仕事が安定し、経済的余裕があったなら、息子を大阪星光学院なり、東大寺学園などの進学校を受験させたいと思ったかもしれませんが、当時自分の息子がそれほど優秀だとは思っていませんでしたし、塾にも行かせず、受験向けの勉強など一切させてなかったので、受験させたとしても合格できなかったと思いますし、「近くの公立中学でもいいか」という、安易でいい加減な気持ちがあったのも確かです。当時の私は、教育熱心とは決して言えない普通の親爺でした。
しかし近所の評判では、今住んでいる地区は、あまり生徒達の学力レベルが高くなくて、地元の公立中学へ進学させるのを、頑なに拒む教育熱心な方も多い...という話は聞いていましたが、何が何でも進学校へ行かそう...という程の強烈な願望は、当時は持ち合わせていませんでした。
息子自身、電車通学してまで遠くの進学校へ行きたい...というような気持ちは、欠片もなかったし、進学校の何たるかも分からなかったでしょうし、普通に公立の小学校から地元の公立中学へ行くのが当たり前くらいに思っていました。仲の良かった友達と離れ、ひとり遠くの学校へ電車通学することなど、夢にも思わなかったのでしょう。本人が望まないことを無理強いする訳にはいきませんから、当然のように地元の公立中学へ通うようになった訳です。
やはり地元の公立中学のレベルは、トップクラスの生徒に焦点を当てる訳ではなく、中間クラス以下のレベルに焦点を当てる授業になってしまう以上、レベルの高い生徒は、どうしても進学塾に頼らざるを得ないでしょうし、塾にも行かなかった息子にすれば、授業の進度やレベルに関して言えば、得意教科は全く退屈な授業だったのかもしれません。
その公立中学特有のスローペースが、却って性格的にのんびりした息子には良かったとも言えますが、当時はそれ程何が何でも進学高校へ...という強い思いもなく、そこそこ学校で良い成績を残していれば、それで十分というのが私の正直な気持ちでした。あまり子供に「勉強というプレッシャー」をかけるのは良くないと思っていたのかもしれません。
定期テストなどで結果を出さなければ、それなりのプレッシャーを与えて尻を叩いたかもしれませんが、それなりの結果は常に出していたので、我々の子供としては、もうそれで十分だというのが本音だったのです。中学二年頃までは、ほとんど家で勉強することなどはなく、学校の授業を聞くだけだったようで、ノートもほとんどまともには取らず、授業集中型だったみたいです。よく教科書やノートに「落書き」をしていて、内申点を減点されていたようです。

級友のレベルがあまりに低過ぎる!と一時は登校拒否。

数学が得意だった息子にとって、公立中学の三年間でやる数学は、「一年もあれば充分マスターできるから、もっと早くカリキュラムを進めてほしかった!」と後に語っていました。「数学だけでも自分でどんどん勉強を進めていくべきだった!」と後々後悔していました。「中学時代は本当に無駄な毎日を過ごしてしまった!」と、高校に入ってからその遅れを取り戻すのに苦労したのでしょう。それだけは本当に後悔していたようです。
子供には教科毎に得意・不得意があり、それぞれの得意教科を伸ばしてやる教育システムが、公立中学と雖も必要ではないかと思います。勉強ができる子もできない子も、十把ひとからげにした日本の教育システムは、やはり子供の「個性の芽を摘む」ことになると思います。人間結局は、一番得意とする教科や能力で生きていくしかない以上、それを思いっきり伸ばしてやるのが、本来の教育のあるべき姿ではないでしょうか?
勉強ができる子はその学力を更に伸ばしてやり、勉強はできないかも知れないけど、運動能力や芸術的センスのある子、人間的優しさを持つ子、いろんな能力をそれぞれの子は持っている筈。教科毎にクラス編成を変える、運動能力毎にクラス編成を変える、芸術の才能毎にクラスを変えて指導を変える...という教育もまた、公立の学校と雖も必要なのかも知れません。そんなことをするのは差別だと考える親がいる限りは、日本では永遠に無理なシステムなのかもしれませんが。

日本はそういう能力の「個人差」を敢えてつくらないような、完全平等システムで教育しようとし過ぎているように思います。人間それぞれ持っている能力が違うのは、否定しようがない事実なのですから、同じ教育をしても伸びる子と伸びない子がでてくるのは仕方のないことで、それぞれの子供のレベルに応じた段階のカリキュラムを作れば、もっと個性豊かな能力をそれぞれの子が身に付けることができるようになるのではないかと思いますが、 そういう教育は、やはり私学でしかできないとすれば、益々公立学校の教育のあり方は行き詰まるのではないかと思います。授業料が安い分、教育内容も悪かろうでは、益々公立学校離れが促進していくような気がします。

将棋倶楽部に通わせても、学習塾に通わせようとは思わなかった。

息子が小学校四年の終わり頃迄は、近くのスイミングスクールに通わせて、とにかく体力をつけさせようと考えました。体が丈夫な訳でもなく、ずっと「小児喘息持ち」だったこともあり、何とか体力をつけてほしいという親心でした。自分自身も成人向けスイミングスクールのマスターコースに、当時十年近く通っていたこともあり、子供にも泳力をつけさせたかったという思いがありました。
しかし小学四年で二級位までは昇級して行ったが、それ以上はなかなか伸びなかったことを、自分でも分かっていたらしく、「もう限界だからやめたい!」と、小学四年の冬に淋しそうな顔で言い出しました。本人が嫌々行くのであれば良くないと思い、その代わりに「何か習いたいことはないか? 」と尋ねたら、その頃休日はよく将棋を指していたこともあり、将棋を本格的に学びたいということで、近くの将棋倶楽部を電話帳で探し、通わせることにしました。
パズルとかクロスワードなんかも小さい頃から好きだったので、やはり、体を使って何かをするよりも、頭を駆使していろいろ考える方が、元来好きな性格だったのでしょう。
将棋も最初の頃は私と互角でしたが、やはり子供の成長力には付いていけず、私が勝てなくなり、私も負けず嫌いということもあり、なかなか対局してやることもできなかったので、本人もムシャクシャした気持ちだったのではないかと思います。
家内にしてみれば、「子供のために踏み台になってやればいいのに、子供相手にムキになって本当に大人気ない!」とよく窘められました。私も息子を子供というより、弟のように思っていた面があり、何事もライバルとして、真剣勝負をしていたのかもしれません。
ある時、息子が持ち駒をずっと手に握っていて、その駒を打ち込まれて勝負に負けた時は、「反則だ!」と息子を叱りつけ、「巨人の星」の親爺星一徹が卓袱台をひっくり返すように、将棋盤をひっくり返したこともありました。後でこそっと息子の様子を窺っていたら、涙を目に溜めながら、飛び散った将棋の駒を拾い集めていて、「大人気なく悪い事をしたな!」と反省したこともありました。
それ以降は、そういうことをした自分自身が嫌になって、将棋を息子と指すことはなくなりました。将棋のソフトを息子に買ってやり、自分ひとりでパソコンを相手に対戦するようになりました。
このように親として決して立派でもなく、立派な教育者でもなく、息子にとっては決して良い親でもなく、息子も私を「大人気ない親爺」と思っていたのではないかと思います。こちらとしても私のことをどう思っているとは、息子には照れ臭くて聞けないし、息子も敢えて私のことがどうだこうだとは言いませんから、もっと大人になってから、「あの時どんな思いだったか?」を聞き出したいところですが、もうそれも叶わないのが残念でなりません。
中学三年になるまでは、息子が自宅で勉強することはほとんどありませんでした。本当にのんびりした「ゆとり教育」の普通の子供という感じで育ったと言えます。夏休みといっても塾や予備校には通ってませんでしたから、夏期講習を受けることもなく、ダラダラした生活を送っていましたし、見ていて腹が立つような怠惰な生活でした。夏休みくらいは計画的にきちんと勉強するように指導はしましたが、それ程の効果はなかったように思います。それでも授業に集中するだけで、定期考査直前に少し復習をやれば、「学校の定期考査位なら90%はとれる筈!」と言い放ってました。

やはり要領が良かったのかも知れません。ノート類をきれいにとることは少なく、言わば落書き帳みたいなものでした。「ノートにきれいに清書する時間があれば、頭にしっかり刻みつけた方がいい」という考え方でした。教科書も落書き帳みたいになっていることがあり、ノート点や授業態度ではかなり内申点は引かれていたようです。また、数学に関しては、学習塾に通っている生徒に、塾にも行っていない息子が逆に教えていたという、何とも笑ってしまう皮肉もありました。息子にしたら、「何故塾で自分よりも勉強している筈の連中が、自分に教えてもらいに来るのかわからない」と言ってました。

五教科平均で九十点以上とったら賞金五千円のラッキーボーナスを。

定期的には「小遣いをあげない」という教育方針だったので、小遣いが欲しいのなら「勉強して稼げ!」と言っていました。定期テストや実力テストで五教科平均で90点以上とれれば、小遣いを五千円やると。そしてほぼ確実に毎回五千円取られていました。小遣いは自分の頭で稼げという方針です。息子にすれば、「ゲーム感覚でやっていた」のではないかと思います。それを励みにして稼いでくれれば、親としても嬉しいし、本人も小遣いが稼げるのだから、一石二鳥ということになり、お互い納得していました。
自信がある時は、90%以上あれば一万円ほしい。しかし90%なければ罰金として息子が親に五千円払うという約束をしたこともありました。何でも「お金で釣る」という見方をされると辛いのですが、娘には70%とれれば五千円やると言っても、一度も取ってくれたことはなかったですし、やる気を出してほしいと一教科でも80点以上とれれば、一教科につき500円やると設定を変更しても、ほとんど取ってはくれなかったので、ちょっと情けなかったものです。
子供のレベルに応じて、ちょっと頑張れば届く目標を設定して、達成すればご褒美を与えるという教育をしてきましたが、娘にはあまり有効ではなかったのですが、息子には効き目があったということでしょう。やはり勉強に対する「やる気」というものが、息子と娘とでは全く違いました。

算盤塾(丸野学院鶴見校)で暗算力を磨く日々。

子供が中学になると、学習塾や予備校に子供を通わせようとする親はいても、算盤塾に通わせようという親は、少数派になりつつあるかもしれません。小学校高学年までは算盤塾でも、中学からは学習塾や進学塾へ通わせるというのが世の趨勢でしょう。
小学四年の終わり頃に、私の相談もなく家内が近所の算盤塾に、息子を入れようと連れて行きましたが、「算盤をやるにはちょっと遅すぎる!」と、当時はそこの校長先生に言われ、そんなものかと思いましたが、その後は一番力が伸びた生徒みたいで、皮肉なものです。本人が言うには、「算盤塾には、少年ジャンプを読むのが楽しみで通っていた!」と。負けず嫌いな性格だったから、算盤や暗算でも実力を発揮していったのではないかと思います。
しかし算盤する時の姿勢が前屈みで悪かった所為で、腰を痛め、高校時代は腰痛に悩まされることになりました。算盤で暗算能力を磨くことができた犠牲もまた大きかった訳です。接骨院で後に調べてもらったら、背骨が微妙に歪んでいたらしく、長い間無理な姿勢で算盤をしたのが腰にきたと言ってました。
平成十三年九月三十日、第八十七回暗算段位検定試験で、乗算六段、除算八段、見取算七段、総合で六段合格。平成十四年十一月二十四日、第百六十六回珠算段位検定試験で、乗算六段、除算六段、見取算四段、伝票初段、総合で三段合格。算盤や暗算の試験は中学二年が最後だったので、その後中学三年では試験は受けなかったようです。特待生として月謝が半額になり安かったので、高校一年になっても「少年ジャンプ」読みたさに暫くの間通っていましたが、さすがに高校ともなれば、宿題が多く課せられ、勉強の方が忙しくなったので、途中でやめてしまいました。
高校時代は数学にしか興味がなかったので、一応「数研倶楽部」に属しましたが、部員の大半が女子生徒だったこともあり、ほとんど活動はしなかったようです。文化祭のイベントで「百升計算」を倶楽部として企画しましたが、三年間連続ダントツのタイムでトップをキープできたのも、中学時代に必死で取り組んだ暗算の成果と言えます。「計算スピードだけは、人には負けたくない!」という思いが息子にはあったのだと思います。
運動が飛び抜けてできる訳でもなく、芸術的なセンスが優れている訳でもなく、性格的に人を引っ張っていくようなリーダーシップを持っている訳でもなく、人より抜きん出ているのは「これ位しかない!」という気持ちが息子にもあったのか、暗算能力に長けた自分が満更でもない様子で、嬉々として「百升計算」をやっていたと、顧問の先生が言っておりました。
親としては、誇らしい面も確かにありますが、なんか哀れな感じもありました。もっと「運動神経」や「芸術的センス」を遺伝させてやりたかったと正直思いました。本人もできることならもっと運動能力があれば...という思いだったのかもしれません。

大手前高校への進学なんて、夢にも考えなかった。

中学二年ともなると、高校はどこに進学すべきかを意識するようになります。大阪の旧第三学区では、港区弁天町の近くにある「市岡高校位に行ければそれで十分!」と息子も当時は思っていましたが、通学がちょっと大変だと分かり、時間にルーズなところがある息子には、やはり合わないだろうなと私は思っていました。その点、自転車で二十分程で通える大手前高校は格好の場所にあると言えます。(大阪府庁の隣にあり敷地が狭い為、校則で自転車通学は厳禁ですが、当時はそうとは知らなかったのです。※知ってからも経費削減の為、自転車通学を黙認していましたが。)
しかし副教科が非常に悪く、中学の内申点があまり高くない息子には、大手前高校はかなり難しい高校でした。兵庫県育ちの私ですが、大手前高校は進学校として名前は知っていました。大阪府立の名門というイメージがありました。嘗て昭和三十九年東京オリンピックの年は、京大合格者数で全国トップになったこともあり、遠い親戚に、大手前高校から京大文学部を卒業し、東京の某有名企業に就職され、その後は系列の会社の社長まで務められた方がいて、文系と理系という違いはあるものの、何か因縁があるかも知れないと思っていた程度でした。私の出身高校からは京大など夢のまた夢ですが、大手前だとトップクラスは、京大に行く生徒が多いようです。

卓球クラブが唯一の運動だった。

まだ息子が小学二年位の頃で、休日に遊びに行く所がなかった時は、お金をできるだけ使わないように、マクドナルドのハンバーガーとジュースを買って、家族四人揃って扇町プールの一階にあった卓球場によく行ったものでした。現在は公園として整備されてなくなりましたが、当時はまだ球場型の建物があり、中に地味ながら卓球ができるスペースがあったのです。
余程マニアックな人でないと、休みの日にわざわざそんなマイナーな所には行かないだろうという辺鄙な場所でしたが、我々家族にとっては、人が少ない分、家族だけでゆっくり楽しめる貴重な遊び場所でした。娘はまだ幼稚園位だったから卓球も何もできず、回りでウロチョロしていただけでしたが、息子と家内と私で、順番に楽しんだものです。
そういうことをしていた記憶があってか、息子も娘も、中学時代は卓球クラブに属していました。親が子に与える影響は大きいものだと改めて思います。私も家内も中学高校時代は、全く運動クラブなどには属さず、小学校時代はよく近所の卓球場に友達と行って遊んでいた程度でした。中学では、基本的にどこかのクラブに所属しないといけないことになっていたから、仕方なく選んだのでしょうが、やはり卓球が面白かったという記憶が息子のどこかにあったのでしょう。ハードな運動ができない息子には、卓球はピッタリだったのかもしれません。
子供が小さい時程、親が子に与える影響は大きいものです。親がどう道筋を示してやれるかが、子供のその後の人生を変える大きな要因になりますから、親もいい加減な生き方は決してできないのではないでしょうか。

参観日に授業も聞かず、シャーペンで遊んでいた息子。

息子が中学二年の時、珍しく参観日に行くことがあり、滅多に見られない教室での息子の動静をじっと見ていたのですが、授業を真剣に聞いているような様子はあまりなく、机に肘をついて、シャープペンシルの芯を出したり引っ込めたりを繰り返し、教師の言うことなど全く聞いているようには見えなかったシーンだけが、脳裏に焼き付いて離れません。授業態度は確かに悪かったです。
これで定期考査になると必ず平均で90点以上はとっていたのだから、やはり要領が良いというか、集中力があるというか、持って生まれた天性の能力なのかもしれません。本人に言わせれば、「あの程度の問題で、平均90点以上とれない方がおかしい!」と生意気なことを言ってましたが。

夏休みも、専ら学校の宿題をこなす程度でダラダラしていた。

夏休みは計画を立てて、ダラダラしないように注意していましたが、怠惰な生活をしていてよく喝を入れたものです。中学二年の頃は、まだどの高校に進学したいなどという希望もなく、漠然と港区にある市岡高校なんかに入れたら、それで充分という程度にしか思っていなかったようです。進学のことなど何にも考えていなかったと思います。私の中学時代とは全く反対だったように思います。兎に角、息子の中二時代は、大して何事もなく平々凡々に過ぎていきました。
中学三年(平成十四年〜平成十五年)高校受験を視野に徐々にペースアップ。

Z会 通信添削で五教科の勉強を始めさせる。

私も高校時代は、かなり背伸びして「Z会の通信添削」をやっていまして、当時は「東大増進会」と言っていたように、その添削問題の難しさはかなり有名で、東大などの難関大学受験者御用達の難しい通信添削でした。
今では幅広く裾野を広げているようで、中学コースもあり、全教科学べるので、塾や予備校に行かせるよりは安上がりと思い、中学三年になった頃に息子に奨めてみました。高校時代に私が取り組んだZ会の添削をまだ残しており、息子に見せたものです。問題が少しで、回答欄が大半のスペースを占めている用紙に、解答をビッシリ書いてある数学の答案を見せて、ちょっと刺激を与えたら、興味深そうに見入っていたものです。
息子としても翌年の受験を控え、英語などは特に勉強の仕方が分からなかったこともあり、取り敢えずZ会で、定期的にきちんと勉強することを柱にしようと、結構真面目に一生懸命に答案を作成し、遅延することもなく出していたように思います。まだこの頃は性格面では素直なところがあったのでしょう。
答案の感想欄にはいつも、ほぼ満点にも関わらず、「難しかった!」とか、「全然自信がない!」とか、謙虚なコメントを書いていました。私は息子とは逆に生意気でしたから、「こんな問題じゃ力がつかない!」とか、「もっと思考力を試す良問にしてほしい!」だとか、今から考えると本当に生意気な感想を書いていた割に点は70点前後しかなく、添削者にはいつもボロクソに貶されていましたが、そういう点でも、いつも誉められていた息子とは好対照と言えます。

Z会 志望校判定Vテスト七月結果/散々な結果に唖然。

英数国三教科で163点(240点満点)、六千五百四十四人中二千二百七十六位、偏差値54.8、英数国理社の五教科では、274点(400満点)六千四百九十五人中二千三百六十七位、偏差値54.2と、まだ中学三年の七月ということもあったのか、あまり真剣にテストに取り組んでいなかったことがこの点数で分かると思います。
この成績じゃ大手前高校なんてとんでもないなと当時は思いました。本人はいろいろ弁解をしていましたが、結果が全てですから、本当に実力があるというのなら、次回のテストで証明するようにハッパをかけました。

Z会 志望校判定 Vテスト 十一月結果/本当の実力はこんなもの。

さすがに十一月ともなれば、そろそろ本格的に高校受験を意識し出す時期です。夏休み以降の勉強で実力がついたのか? 英数国三教科で212点(240点満点)、六千三十一人中44位、偏差値69.0、英数国理社の五教科では350点(400満点)五千九百八十六人中130位、偏差値66.7という結果でした。
七月の悪かった結果の汚名返上とばかり、夏休み以降頑張った成果がやっと出たようです。これで少し自信になったのではないかと思います。しかしまだ本格的に大手前高校を受けるかどうか、志望校を絞ってはいませんでした。当時は、理数科か普通科どちらか一方を受験して落ちればもうチャンスはないと勝手に思っていましたから、前期で理数科を受けて落ちても、後期で普通科を受験できる(二回チャンスがある)とは思っていなかったのです。

●第六回 五ツ木の模擬テスト(十一月実施)家内が無理矢理受けさせる。

「五ツ木の模擬テスト」と言えば、私の中学時代からあった老舗の業者でした。あれから二十数年経っても続いていたのかと、ちょっと懐かしい感じがしました。
中高一貫の難関私学を目指すハイレベルな生徒達は「駿台模試」などの、かなりレベルの高い模試を受けていたようですが、近畿圏の普通の公立中学の生徒は大体、五ツ木の模擬テストがレベル的に一番ピッタリだっ

 

 

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たのかも知れません。受験者数が一番多いと言われる、十一月開催の第六回五ツ木模試を受けさせ、大阪地区での息子の学力順位を知るべく、無理矢理受験させました。
本人はあまり受けたくなさそうでしたが、もっとも信頼できるデータがこれで得られると思い、挑戦させました。塾に通っていなかった息子にとって、自分の客観的な実力を知ることは、学校の定期考査や実力テストだけではできなかったからです。
中学で成績が良かったとは言え、第三学区内では、四十近くある中学の内三十六番目と、下から数えた方が早いと言われたレベルの中学でしたから、学校での偏差値から七引かなければ第三学区での本当の実力偏差値は分からないと言われたものです。
その模試の結果は、大手前高校普通科志望で432人中14位、市岡高校では457人中1位、滑り止め私学の大阪桐蔭二類では274人中4位。関西大倉高校では372人中1位...この時点ではまだ、大手前高校理数科は、息子にとっての志望校にはなっていませんでした。
大体、大手前高校に「理数科」があることさえ、当時の息子は知らなかったのです。息子と一緒に模試を受けに行った同じ中学の仲間が、志望校欄に「大手前理数科」と書いていたのを覗き見て、はじめて「大手前に理数科があることを知った!」と言ってましたから。大手前には「普通科」しかないとばかりと思っており、受験知識としては、当時その程度だったのです。
私自身五ツ木模試の「SEEという冊子」を読んで、受験情報をあれこれと調べて得た知識程度しか持ち合わせていなかったのです。のんびりした性格の息子に代わって、できるだけ的確な指導をしてやらなければと思ったものです。私が息子の受験に引きずられて行ったのは、Z会の冊子と五ツ木模試のSEE(Success in the Entrance Examination )だったと言えます。

 

次へ⇒能ない鳶は能ある鷹をうめるかP75~P100 第二章後編

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