第四章 ウマが合わぬ級友達と、次第に厚い壁ができていく高二時代 127〜156
高校二年(平成十六年〜平成十七年)徐々に孤立を深めていく変人。

息子の理数科での成績順位の変遷は。

中学時代の内申点では80人中最下位ながら、当日入試点は恐らく10番以内だった筈で、高一の前期中間考査では、理数科80人中成績は中位でした。それ程必死になって考査対策をやるという気持ちもなく、苦手教科が多い上に、元来スロースターターだったこともあり、全11教科合計千百点満点では七百五十点位でした。学年トップ(大阪府立大獣医学科進学)は理数科生徒で千一点。その後もトップクラスの10人〜20人の生徒達は、ほぼ学力を維持したまま三年間走り続けました。
特にトップ三人のレベルが突出しており、三年間テストがある度に、毎回ほぼ上位を同じ三人が独占していたようです。その三人はその後、阪大医学部医学科、京大理学部、大阪府立大農学部獣医学科へと現役で進学しました。その三人を追う第二グループも、学年で4位〜20位の間を行ったり来たりしつつも、ほぼ学力レベルは維持し続けました。そのクラスからは、京大工・理・法・経済学部、滋賀医大、大阪市大医学部、名古屋市大医学部等へ、現役で進学したことから分かります。
息子の場合、定期考査はイマイチながら、アチーブという休暇明けの宿題考査では、主教科限定だったこともあり、最初から学年でベスト10前後をキープしていました。最初の校外模試(英語・数学・国語)こそ320人の学校全体の順位で29位でしたが、その後の校外模試では、徐々に力を上げていき、実力的には学年で大体10位前後には位置していたと思います。
高一から高三にかけて英語・数学・理科の理系必須の三教科に限定すれば、徐々に尻上がりによくなっていき、高三夏休みから秋にかけての、駿台や河合塾主催の「京大模試」では、四回中三回はランキング表に掲載されました。他の生徒でランクインした者は数人だけだったことから、京大現役合格者中では、実力は上位だったと言えるかもしれません。

捨て教科の多い、各教科毎の息子の成績は。
社会系は大半の教科に関して、全く興味がないらしく、多くの項目が覚えられないというか、時間をかけても大学の二次試験にはないこともあり、高一の時から、欠点をとらない程度にしか取り組んで来なかったようです。理系といっても元々あまり理科が好きではなかったこともあり、生物も完全に捨て教科でした。物理も最初はなかなかついていけず、最後の最後まで苦しめられた教科でした。唯一化学だけは性に合っていたのか、数学に次いで成績は良かったようです。
数学に関しては、高一から高三までの三年間を通じて、常にトップクラスを維持していました。それだけは絶対に「譲れない」という、息子なりのプライドがあったのかもしれません。
第四章 ウマが合わぬ級友達と、次第に厚い壁ができていく高二時代
英語は、高一では勉強の仕方がよく分からなかった(塾や予備校で学んだことがないので)ようで、どうすれば確実に点が取れるか...を真剣に考えた対策をとって来なかったこともあり、毎回定期考査は70%前後しかとれなかったのですが、どういう問題が出るのかという傾向が、徐々に分かってきてからは、勉強の仕方を修正して行き、次第に力を発揮してきて、高三では学年でベスト10位には入っていたようです。化学もベスト10位以内を維持、物理は20番前後、国語は良い時と悪い時と安定していなくて、25位〜40位レベルを行ったり来たりしていたようです。
残りの教科に関しては、毎回最後尾から数えた方が早い順位でした。力を入れる教科と、完全に捨てている教科がはっきりした、言わば完全な「私立大理系タイプ」だったように思います。それでも国立大理系が狙えたのは、国語に対してそれほど苦手意識がなかったからかもしれません。
高校三年間で、ほとんど読書らしい読書もせず、読解力など到底あるように思えないのですが、結構物事の本質を理解するのが早いというか、要領が良かったのか、そこそこ国語でも点はとっていました。肝腎な時にそれなりの結果が残せるタイプだったと言えます。
実際、センター試験でも、模試の時は大体70%程度でしたが、本番では82%程度取れましたし、京大二次試験の現代文二問でも、模試では30点前後だったのに、本番では64点でしたから。必死で三年間取り組んで勉強してきた得意教科より、大して何も対策をやってこなかった国語の方が得点率が良かったなんて、嘘のようですが事実なのです。国語という教科に関しては、入試に出ようが出まいが、一番大切な教科とも言えるので、やはり真面目に取り組ませないといけません。

五月上旬から八ヶ月に亘り、長い「父子の断絶」が始まった。
五月上旬の或る夜中に、「腰が痛い、腕が痛い!」と大声で喚き騒ぐ息子を、寝ていた私は飛び起きて、素手で叩くとさすがにこちらも痛手を受けるから、それはしなかったものの、座布団で十回くらい叩いてしまいました。優しい言葉で注意して分かるような状況ではなかったからです。体罰は確かに良くないと自分でも反省していますが、ある程度手加減はした積もりです。座布団だと叩いた方は、思いっきり叩いたという感触が残る割に、叩かれた方はそれ程のダメージは受けないだろう...という精一杯の配慮なのです。
それ以降お互いに歩み寄ることもなく、完全に平行線を維持するように、言葉を交わすことさえ全くなくなってしまいました。その後約八ヶ月間もそのような父子の「冷戦断絶状態」が続いたのです。その間は、家内を仲介して、お互いの情報を知るしかなかったのです。
他人へ迷惑をかけることに対しては、徹底的に躾けなければならないという信念があったから、そのような行動をとってしまいました。いくら勉強ができたとしても、他人に対する「思いやりや配慮」ができない人間ではいけない。息子をそんな人間にはしたくなかったのですが、親心とは裏腹に、あまり他人への配慮ができない、「自己中心的な性格」になったようで非常に残念です。
それでも成績表は三年間きちんと親に提出していた息子。
第四章 ウマが合わぬ級友達と、次第に厚い壁ができていく高二時代
「断絶状態」が続いていた時も、一応学校の成績表はきちんと提出して見せていたのは、息子ながら偉いと思いました。私自身高校時代は、親に成績表など一切見せませんでしたから。息子が成績表を見せなくなれば、お終いだと思っていただけに、テストがある度に、結果をきちんと報告していたのは、とても嬉しかったし安心もしました。
一見いい加減な性格ですが、テストには一応真面目に取り組み、確実に結果を出していました。定期考査は捨て教科が含まれるのでそれ程よくはありませんでしたが、アチーブと言われる休暇明けの宿題考査(実力テスト)は特に良く、塾や予備校に通う生徒が多い中、息子にとっては、そういう実力テスト対策をきちんとすることが大切だと考えていたようです。大手前全体中でも、毎回一桁の順位を維持し続けていました。この考査を軽視する生徒も多かったようですが。
試験の結果が悪くても良くても、親に成績表を見せるのは当然だと、息子は思っていたからなのか? 見せないと親爺に授業料を払って貰えなくなると思っていたからか? もし成績が下降線を辿るようなら、親としてあれこれ助言が必要だと思っていましたが、それ程極端に落ちることもなかったので、父子の会話は一切なかったのですが、じっと静観し見守ってきたというのが、息子の高二時代です。
それでも古典を全く勉強しなくなり、テストの点も欠点近くに落ちてきたので、京大理学部は「現代文と擬古文」が二次試験に出るらしいから、「嫌いなどと言わずに古典を捨てるな!」と食事中にアドバイスしたことがありましたが、擬古文は選択しないつもりだったのか? やってもそれ程点がとれないと既に諦めていたからか、それより他の教科にもっと時間を割きたいと思ったからか、その頃からほとんど定期テスト以外では、全く古典の勉強はやらなくなったようです。親に言われた位でやるような年齢じゃないですから。それでも一応親として釘を刺しておきました。
他のトップクラスの仲間達は、全教科で高レベルを常に維持していた点で凄いのですが、息子は教科によって好き嫌いがはっきりしており、やりたくない教科、世界史や倫理社会、政治経済、生物、古典などは、欠点を取らない程度に、必要最低限しかやらなかったのです。
芸術科目に至っては、美術を選択しましたが、学年でワースト三になったことを自慢にしていた。
美術の才能がなければない程、自分は重要な教科の才能があることを仄めかしたかったのかもしれません。まあ頑張って懸命に取り組んだところで、美術の才能は欠片もなかったようです。

夏期「理数科セミナー」で京大教授に学ぶ。

八月には、理数科のサマーセミナーと称して、京都大学の研究室(遺伝子実験施設・RI診療棟・ベビーサイクロトロン等)の見学や、講義(原子核物理・生態分子学・応用生命科学・遺伝医学・環境地球工学・核物理学等)があり、京都大学に通う大手前卒業生による、グループ別の講話と質疑応答、グループ別ディベート(討論会)で発言力・自己表現力を磨くための試み(グループ学習発表会)等や、みんなで難問に挑戦する数学のグループ学習...などがあったようです。
京大教授はさすがに「研究者」という雰囲気が滲み出ていて、息子も憧れたようです。京大の学食も美
第四章 ウマが合わぬ級友達と、次第に厚い壁ができていく高二時代
味しかったらしく、伝統的なアカデミックで自由な学風がとても心地良く、「京大に何としても入りたい!」という熱い思いが、この時初めて息子の心を捉えたのかもしれません。

後期クラス替えで、更に孤立を深める。

選択科目の関係で、十月後期課程から再度クラス替えが行われた結果、仲の良い友達と別れることになり、益々クラスで孤立して行ったようです。最初の内は自分から高一時代の仲間の所に話しに行っていたようですが、いつの間にか行かなくなり、クラスでも孤立することが多くなったと、後日担任から聞きました。「誰かと喧嘩でもしたのか? 」と聞いても、「大手前で喧嘩するような奴はいない!」との返事でした。自分から心を閉ざして行ったのかもしれません。
高校二年以降に関しては、一年の時のような楽しい高校生活とはならなかったようです。家でも親爺と断絶状態の上、学校でも仲の良かった友達と別れてしまい、「受け容れられない孤独感」が息子にあったのかもしれません。高二の四月に撮ったクラス写真を見る限り、まだ素直でのんびりした表情をしていましたが、高三の四月に撮ったクラス写真の表情には、まゆ毛を剃り込み、人を睨み付けるように、酷く荒んだ精神状態が如実に顔に表れているように感じました。
一年でこれ程まで同じ人間の表情が豹変するのか? と思う程人間が変わったように見えました。

134

 

135

 

136

 

137

 

志望を京大理学部から、総合人間学部理系へ変更する。

京大理学部で「数学を専攻したい」という希望はずっと持っていたのですが、本当にやっていけるのか? という不安もかなりあったようで、理学部よりも総合人間学部の方が、自分には合っているのではないか? という気持ちに揺れたことがあったようです。
本当に「大学で何がやりたいのか?」が明確なら、親として喜んで応援致しますが、息子を追求していったら、結構いい加減な反応が見られたので、「入学後二年間じっくりと専攻を考えられる理学部の方が、やはりお前に合っているのでは?」と助言しました。
総合人間学部は、文系と理系があり、理系で50人の募集とかなり狭き門ですが、理学部は理学科として前期課程で280人も募集するので、理学部の方が合格の可能性は高いだろう...という単純な計算もありましたが。二次試験の教科毎の配点は、どちらの学部も全く同じなので、勉強自体どちらの学部を受験するにしても変える必要はなかったので、それ程焦りはありませんでした。
嘗て大手前の先輩で、総合人間学部に入ったのはいいが、大学で何を専攻していいのか分からずに悩んだ挙げ句、教授に一喝されて、再度やりたい学部を受け直した生徒もいた...という話を聞いていましたから、明確な目標がないと、いくら合格しても、後日悩むことになるのでしょう。

●八ヶ月振りに「父子の会話」が再開する。

第四章 ウマが合わぬ級友達と、次第に厚い壁ができていく高二時代
八ヶ月も息子と親子の断絶がありながら、何が発端となり話すようになったのか? 息子が理学部か総合人間学部かで進路に迷っていることを家内から聞き、知らぬ顔をしてはいられぬと思ったからで、親爺としての「変な意地や沽券」をいつまでも貫いていてはいけないと、悟ったからです。息子の将来に関わる大事な問題なので、ここは親爺が真剣に相談に乗ってやらねばならぬと、自分の方から息子に対して折れて行った次第です。
結局親爺の方が折れるまで、息子は決して自分から折れて来なかった...という程頑固だった訳です。ここぞという時に、的確な意見やアドバイスをしてやれないで父親と言えるのか? 変な意地など張っている場合じゃないと、自身反省しました。息子も別にそれ程親爺に対しての拘りはなかったと見え、それまでの八ヶ月間何事もなかったかのように自然と話し合うことができたのです。
ちょっとしたきっかけで人間関係は崩れてしまいますが、親子の縁は切れる訳ではありません。「理学部じゃなく、総合人間学部に志望を変えたようだな? 」「まぁ...」「総合人間学部にこれがやりたいという学科があるのか? 」「まぁ、なんとなくいいかなと思って...」「具体的にこれがやりたいという学科があるのなら応援するけど、漠然としていて入ってから考えるって言うんじゃ、後悔するかもしれないぞ!」「わかっている...」というような会話だったと思います。
インターネットで、総合人間学部の専攻学科を詳細に調べ、いろんな学科について紹介されたものを読んで見ましたが、面白そうではあるが、果たして息子に向いているのかどうかを考えた時、何か釈然としないものがありました。

140

 

141

 

142

 

143
総合人間学部で、大学院まで勉強したいと思える学科はこれだ! と今の時点で特定できない限り、きっとあとから後悔することになるかもしれないと思い、もう一度専攻したい学科をハッキリ特定するよう、出力した資料を息子にじっくり読ませました。後日、「どの学科が自分に一番向いているのかよく考えたか?」と確認したところ、「あんまりよく分からん...」という答えでした。
私も親として息子を見た場合、総合人間学部で勉強するタイプにはどうしても見えなかった。理学部で偏屈に「数学を専攻する」イメージしか湧かなかったのです。理学部なら、数学をやりたいと思って入っても、大学での二年間で物理の方がいいとか、やっぱり化学が面白そうだとか、専攻学科を二年間の間にじっくり考え直す時間が充分にあり、直前まで変更がきくから、理学部の方がトータルで見て、息子の性格に合っているように思い、そうアドバイスしたのです。
息子も何日か考えた後、やはり「理学部の方が自分に向いている」と悟ったのか、それからは一切総合人間学部への迷いはなくなったようでした。高校時代に自分の進路を明確にするのは大変なことだと思いますが、結局は一番好きなことを最優先するしかないのかもしれません。
担任の教師(京大理学部出身)にも、そのことは一切相談していなかったので、総合人間学部への志望変更は、教師も不満げでした。そういう経緯があり、息子と長いブランクはあったのですが、なんとか普通に会話ができる関係を修復することができました。因みにZ会での志望大学・学部は最後まで総合人間学部のままでした。いちいち変更の葉書を出すのが面倒臭かったのでしょう。元々志望大学学部さえ登録していなかったのですが、私が黙って葉書を出して登録したのです。

05年二月実施の河合塾センター試験模試の成績。

英語・数学・理科の理系教科の総合点では、大手前全体で1位、全国でも26位(約五万人中)と健闘しましたが、現国・古典・漢文の大チョンボで、200点中89点と、考えられないような大失点をして、主要三教科では大手前全体で31位、理系五教科七科目合計なら16位タイと、本来の実力ランクから大きく落ち込んだ無惨な結果となりました。
現国・古典・漢文が実力通りに133点以上とれていたら、合計683+44=727点で、六位だった級友を抜き五位になっていたと悔やんでみても後の祭。なめてかかると手痛いしっぺ返しがあります。教訓になった事は、定期テストで良かった筈の物理の実力があまりなかったことと、国語系教科の点が落ちてきているので、三年では何としても挽回する必要があるということでした。
定期テストでは今回、社会を一夜漬けながら74点、82点もとれたので、「社会は最後の最後に集中的に憶える対策でも、ひょっとしたら案外間に合うかもしれない!」と、楽観的に考えたようです。
今回高校に入って初めて、成績優秀者が実名でランキング表に掲載されることになりましたが、息子だけは(やはり変人なのか?)ランキングへの名前掲載を拒否した為、名前は載っていませんでした。実力と存在感をアピールする絶好の機会だった筈が国語で失敗し、名前も掲載されずと、踏んだり蹴ったりでしたが、唯一の救いは、数理英三教科総合点で大手前トップだったこと。
中学時代の五ツ木模試では常にトップクラスを占めていた数人の生徒は、このランキングの中にはありませんでした。二年間で確実に実力を落としていった生徒も少なからずいたようです。

どういう学習計画を立てるか。

自分の学習ペースを早く掴んで、決して無理のない計画で進めていくことが大切です。物理・化学対策を息子がいつまでもやらないことに、私もかなりプレッシャーをかけましたが、高一から高二にかけて、学校で基本的なことは、演習問題を通して、充分やってきたという自信があったのでしょう、高三の夏休み頃から始めても充分間に合うという計算をしていたようです。
それでもトップクラスの生徒に比べ、なかなか理科の実力をつけることはできませんでした。数学は得意でしたが、物理は不得意でした。京大の理科はかなり難しいと覚悟していた方がいいでしょう。かなりの難問もこなせるよう、早めに対策をとっておかないと、後で相当苦労します。
英語や国語は、答案に何か書けば最悪でも部分点が狙えますが、理科は最初の設問に躓いてしまうと、最後までさっぱり分からなくなってしまうという、底知れぬ怖さがあると言います。
八月中旬にあった駿台の京大実戦模試の理科は、特に衝撃を受ける位歯が立たなかったと言います。自分の無能さに「鈍器で殴られる衝撃」があったようです。それでも歯を食いしばって地道にやることで、本番では60%弱位は点が取れたのですから、最後まで諦めてはいけません。途中で匙を投げず食らいついて行った者だけが栄冠を掴めるのです。本番入試の難問の理科で、80%近くとった生徒も実際にいたのですから、第四章 ウマが合わぬ級友達と、次第に厚い壁ができていく高二時代60%弱で満足していては駄目でしょう。
高三時代のZ会での英語の成績は、大体150点満点で100点前後とあまりよくありませんでした。この程度の実力だと、本番の入試では150点満点で80点位しか取れません。数学はほとんど150点満点に近かったので、毎回のようにランキングに掲載され、「七段」を取り「もうすぐ八段」にまで達しました。添削にかける時間は制限時間を超えていたようですが、丁寧に解けるまで問題と格闘し続け、そうすることで思考力・洞察力・粘り強さを磨くことができたのだと思います。
数学では「誰にも負けない」というプライドが息子にとっての唯一の自信であり、支えだったと思います。何か一教科でもそういう教科があれば、高校三年間を、気持ちの上で「張り合い」となって維持していけるのではないでしょうか?
Z会ではパッとしなかった英語も、学校での成績では10位内に入っていたので、英語と数学のメイン教科に関しては、自分はトップクラスにいるという自信が、息子にとって大きかったと思います。あとは物理と化学をきっちり、計画的に仕上げるだけだと思っていたようです。
国語は対策の立てようがないから、取り立てて何もやらず、古典は高二時代から既に捨てていました。それでも本番のセンター試験では、結果的に82%も取れたのだから、学校での定期考査の時に、しっかりやっておく程度でいいのかもしれません。社会も何もしなくても毎回60%前後とれるので、直前に少しやる程度で充分と考えていたようです。そんな甘いものじゃないと思いますが。
このように極端にメリハリを効かせた、かなり偏った時間配分の勉強法でしたが、最終的には大きな失敗もなかった訳です。入試直前期の「集中力」が何よりも大切かもしれません。コンスタントにちょこちょこ万遍なくやるより、やらねばならない時期に、一夜漬け且つ集中投下的に頭に入れていく...そんな無謀とも言えるやり方でも、息子の場合は結構乗り越えられたのです。
傍から見る限り、そんな大層には勉強していませんでしたが、ひとつ言えることは、「復習」は結構きっちりとやっていたようです。テストや添削も、やったらやりっ放しでは全く意味がありません。後で納得できるまできっちりと「復習」することで、頭に刻みつけ定着させていく重要性を知っていたのだと思います。予習はあまりしないが、「復習」は相当念入りにしていたようです。
予備校に通っていなかったので、「受験の神様 和田秀樹氏」のノウハウ本を結構読んで実践していました。京大の赤本で、物理の過去問題でも、難しすぎて全く分からない問題は、理解した上で徹底して「暗記」していったようです。そうするしかないような難問が多かったのだと思います。やってもやってもそんな難問題だったので、よく喚いていたし、息子も辛そうでしたが、分からない問題は、とにかく理解した上で、徹底的に暗記していく以外に仕方がなかったようです。

どの教科にどれだけ時間配分すれば、理系人間には最も効果的か?

受験に必要な教科の配点をいろいろ調べた結果、数学・英語の二教科が61%を占め、残り三教科が39%と、勉強する時間配分として約60%前後を英語と数学にかけるのが妥当と考えます。例えば、第四章 ウマが合わぬ級友達と、次第に厚い壁ができていく高二時代
高一では、数学・英語に75%、(物理・化学・国語)に25%(社会系は授業と定期考査対策のみ)高二では、数学・英語に65%、(物理
・化学・国語)に35%(社会系は授業と定期考査対策のみ)高三では、数学・英語に50%、(物理・化学・国語)に50%(社会系は授業と定期考査対策のみ)
中高一貫名門私学では、高二終了時点で数学・英語はほぼ完成していると見るべきです。授業進度の遅い公立高校は相当なハンデがあるので、自分で進めていくしかありません。入試での配点が低い教科に、必要以上に時間を割くのは合理的ではないのです。極端な話、数学・英語・理科のトータルで合格最低点がとれさえすれば、京大理学部の二次試験では国語が零点でもいい訳です。
数学・英語・理科に自信があれば、国語はセンター試験対策だけで充分。それぞれの得意教科・不得意教科を考慮に入れて、勉強する時間配分を決めていくべきです。息子の場合そういう計算をしていたから、私がいくら「国語もやっておけ!」とか、「地理Bもある程度早めに仕上げろ!」などと忠告しても、何処吹く風とばかりに、聞く耳持たず全く意に介さなかった訳です。
極端な話、三年間数学・英語さえ相当な実力をつけていれば、理科は三年からでも追いつけると思っていたようです。国語や地理Bに関しては、特別に受験対策らしいことはほとんどしなかった訳です。そんないい加減に見えるやり方でも、京大理学部に上位で合格できたのです。「受験の神様 和田秀樹氏」の考え方を、自分なりに理解し、忠実に実践していたのです。
要するに、押さえるべき教科をしっかり押さえてさえいれば、焦る必要はないということ。受験直前まで、
150

 

151

 

憎たらしい位の自信を持っていたのも、息子なりに計算を働かせていたのでしょう。それだけの自信を漲らせるには、それなりの結果を出し、実力を蓄積して来なければならないのは言うまでもありません。自分の中でやるべきことを、一応きっちりやっていることが、何よりも「安心と自信」に繋がるのでしょう。
息子を見ていて感じたことは、東大や京大と雖も、そのネームバリューに全く臆することなく、「ただの有名大学」程度にしか思っていなかったようです。塾や予備校でガムシャラにやってきた「ガリ勉タイプ」じゃなかったからなのでしょう。必要以上に構えて畏怖の目で見ることもしないし、なめてかかることもしなかった。ただ淡々と、やるべきことをきっちりやりさえすれば、どんな大学や学部であれ、合格はそれ程難しくはないと思っていたようです。(但し医学部医学科だけは、そうはいかない例外でしょうが)
もうちょっと性格的に怠惰でなければ、もっと上を目指せたのでしょうが、なにせ時間にルーズで、怠け者というのが息子の最大の欠点でしたから、矯正するのは至難の技だったでしょう。

中高一貫名門私学の俊英達との競争を頭に入れておく必要がある。

公立の生徒達より一年位進んでいる連中と、大学受験ではまともに勝負しなければいけないのですから、それなりの準備が必要になります。不思議に思うのは、名門私学の俊英達も、ほとんどが塾や予備校で、更に高度なレベルの講座を取っていたりすること。名門進学校にいれば、学校の勉強だけで充分じゃないか? と傍目には思いますが、やはりそうじゃないみたいです。
第四章 ウマが合わぬ級友達と、次第に厚い壁ができていく高二時代
息子の場合は、予備校には何故か行きたがらなかったので、頼りと言えば「Z会の添削と赤本」でした。添削で記述力を磨き、自分の弱点を把握し、赤本の過去問題で、目指す大学の問題の傾向を徹底的に掴み会得し蓄積する。数学や英語は自分ひとりで克服できたようですが、さすがに物理や化学では相当苦しんだようです。あれだけ行きたがらなかった予備校の「短期集中講座」を秋に受講したのですから。それでも単講座で二時間程度教えてもらったところで、見違えるように力がつく程甘いものじゃなく、金がかかった割に大した収穫はなかったと悔やんでいました。

Z会の添削の受講状況は?

高一時代は、英語・数学・国語に、小論文やヒヤリングと手を出していましたが、学校の宿題が多いので、小論文・ヒヤリングは高一の九月以降は解約し、その代わりに化学を受講しました。
一応高一時代は延着も少なくきっちり提出していたようですが、最後の一月〜二月頃になると、やはり追いつけず、遅延するようになっていたみたいです。
高二時代は、学校の宿題に追われて相当苦しかったのか、四月〜八月までは添削を一時中止していました。それで少し余裕が出てきたのでしょう、高二の九月からは、英語と数学の二本立てに絞って再開しました。「国語は自分で問題集を買って自主的に取り組めば、添削に金をかけなくてもその方がずっと安上がりだ」という勝手な理由をつけてひとまず止めましたが、結局は何もしませんでした。やりたくなかったから一時凌ぎでそんなことを言っただけで、添削という足枷があればこそ、必死に取り組めるものの、一度足枷がなくなれば、人間安易に流れてしまうものです。
高三の初めからは、受験を意識してか気負い、英語・数学・国語・物理・化学の五教科全てを受講すると、鼻息荒く始めたものの、最初の一カ月で音を上げ、提出できない状況に陥り、見るに見かねて私が助け船を出してやり、即座に解約し、英語・数学だけにまた絞り直しました。
物理や化学はあまりにも添削問題が難しすぎた。学校とのペースが違うので、習っていない分野が出てくると、やる気が起きなかったらしい。やらないといけないことが多すぎて、国語もやっている余裕がなかった。学校の宿題が相変わらず多かったので、とても時間的余裕が持てなかったと言います。と言いながらも、後に「宿題などほとんどやらなかった!」と白状していましたが。
取り敢えず数学だけは、得意だったので、学校の休み時間に宿題を終えるようにしていたらしい。家では他の教科の宿題を中心にやっていたのでしょうか? 理数科では数学で付いていけなくなればどんどん離されていくので、数学だけは石に囓りついてでも付いていく根性が必要なのでしょう。どんなに優秀な生徒でも、クラブ活動をして、宿題をして、予備校なんかに通っていたのでは、とても身が持たないでしょう。息子のようにほとんどクラブをやっていない生徒でさえ、付いていくのは大変だったと思いますから。
欲張っても人間なかなか、あれもこれもとできないものです。気負いたくなる気持ちは分かりますが、あまり無理をしないことこそ大切です。Z会での息子の誤算は、五教科あっても、答案は月に一枚提出だろうと勝手に思っていたのが、月に二枚提出だったので、計算が狂い、とても追いつけなかったようです。よく調べてから申し込むようにしなければなりません。

●Z会の添削の提出状況は?

高二の終わりまでに英語と数学を完璧に仕上げる予定でしたが、結局ズルズルと高三の夏休み前まで引きずったことになります。やる前の意気込みは良かったけれど、人間そんなにやれるものではないので、あまり無理をしない方が良いかもしれません。虻蜂取らずになってしまっては、元も子もなくなります。消化不良になると自信まで失い、益々焦ってしまいますから。
学校の宿題は結構あったものの、予備校や塾に通っていた訳でも、クラブ活動をしていた訳でもなく、時間はかなりあった筈でしたが、なかなか勉強に気が向かなかったのでしょう、私が見て見ぬ振りをしていたら、そのまま添削を提出することなく無駄にしていたと思います。
親としても無駄な経費は極力使いたくはないので、添削の提出状況をチェックして、赤信号が灯っていたら、助け船を出してやる必要があります。口では言わなかったのですが、息子も自分でやると言って始めたものだから、止めるに止められず、心苦しかったと思います。無理矢理やらせてできるものじゃないですから、できないものはできないで、さっさと見切ることも大切。限られた時間を優先順位に従って処理して行くしかないですから。いろんな束縛を解いてやることも親の務めかもしれません。そういう意味で、子供の動静を客観的に見て判断してやることも、親には必要かもしれません。

挿入図・表・目次
第四章 高二 大手前高校二年時の成績 134
第四章 高二 大手前高校二年時アチーブ宿題考査の成績 135
第四章 高二 大手前高校二年時進研模試・河合塾模試の成績 136
第四章 高二 大阪府立大手前高校二年度成績概要 137
第四章 高二 京大・阪大・神戸大合格者の実力考査十段階平均値(大手前高校七年分データより) 140
第四章 高二 高一 高二 進研模試(三教科)四回分の実績 140
第四章 高二 高二 二月実施のセンター試験模試での成績ランキング表 141
第四章 高二 高二 二月実施 河合塾全統マーク式模試ランキング表 142
第四章 高二 06年度 京大理学部二次試験本番での実績データ 150
第四章 高二 Z会 高校二年時受講教科と成績(九月〜二月)

 

次へ⇒能ない鳶は能ある鷹をうめるかP156~P206 第五章前編

スポンサーリンク

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事