第七章 大学入試センター試験〜京大二次試験へと受験本番の渦中へ 241〜274

高校三年(平成十八年〜)もう受験は駄目かもしれない…

06年一月二十一日(土)・二十二日(日)センター試験本番。

息子にすれば、京大理学部入試は、センター試験を足切りにしか利用しないので、600点以上あればまず問題ありません。そして英語・数学・理科の三教科合計が600点満点で、これを95%取れば570点。後の国語と社会の合計300点満点で、30点以上取れれば充分と踏んでいたので、センター試験対策に関して、ほとんど眼中になかったようです。
実際にセンター試験入試本番では、数学200点、英語184点、理科186点と、合計ピッタリ570点でした。国語が163点、社会が73点で、この二教科で236点でしたから、一次試験突破は全く問題外でした。
センター試験模試はあまりよくなかったのですが、本番では90%近く取れてかなり喜んでいましたが、大手前の級友達も90%以上とれた者が多かったらしく、本人はちょっと悄げていました。中には95%〜94%近く取っていた級友もいたようです。06年のセンター試験は、問題がかなり易化し、全教科万遍なくきっちり勉強している「優等生タイプ」の生徒が大手前理数科には多いので、至極当然の結果だったかもしれません。
センター試験が終わって二日後の夜、「声が出ない!」とかで、また寝そべったまま息子が声を出して騒い

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でいました。いつまでも地べたに毛布を掛けてふて寝していたので、一喝してベッドで寝かせましたが、その態度には全く困りました。それが病気だとは、当時は気づかなかったのです。
回りにいる者の迷惑を顧みず、自分の事しか考えられない性分は、相変わらず直らない。体の調子が悪いのは可哀想だが、我々家族でそれをどうしようもない以上、「医者に診て貰え!」というしかなく、ひとりで騒いで、大声を出し、日々気違い沙汰を繰り返しているだけに思えたのです。
あと一カ月で京大の二次試験なので、早く受かって病気を治し、家から出て行って貰いたいと願うばかりの日々でした。いくら勉強ができても、息子は我々家族にとっての「疫病神」みたいな存在でしかなく、「もう勘弁してほしい!」という、ウンザリした気持ちでいっぱいだったのです。

精神障害の症状が徐々にひどくなってくる。

センター試験終了四日後、ついに学校に行かなくなりました。大きな音を立て空鼻ばかりかむので、そんなに調子が悪いのなら先ず「耳鼻科に診て貰え!」と、無理矢理病院に行かせましたが、「精神科に診てもらいたい!」と、ひとり電話帳で精神科診療所の所在を調べていました。
最早自分で自分を抑えることができなくなったようでした。私も一番近くて通いやすそうな、精神科の診療所を電話帳からピックアップし、家から自転車で五分くらいの所にある某クリニックに、診て貰うよう息子に指示しました。

三カ月位前から、精神的にちょっと異常な状態に襲われ、自分の声にしろ他人の声にしろ「マ行とサ行の音が聞こえると、異常に耐えられなくなり、ついつい発作が起こった!」と言います。そして自虐的になり、顔や髪を掻きむしってしまい、自分を痛めつけようとしてしまうのです。
今までわざとやっているとばかり思っていましたが、自分自身でもそれは「病気の発作」だと認めていました。自分で自分の発作を抑えられないようでした。翌日は、予備校から「センターリサーチ」の診断表結果を貰う日だったので、何としても学校に行かさねばならなかったのです。
センターリサーチとは、センター試験受験後、生徒が自己採点結果を大手予備校に送れば、集計・分析し、志望大学の合格判定(ボーダーラインを予測)を無料でデータ提供してくれるシステムのことで、大手三大予備校ならどこでも競うように無料でやっていました。息子も京大理学部受験志望者592人中141位、合算志望者829人中218位で、B判定(合格60%以上)でした。
二次試験まで、なんとか精神的に持ちこたえてくれれば良いが、その日の夜も、自室でケーキを食べようとして、「足に落としてしまった自分が許せない!」と喚きながら、また自虐的に髪を掻きむしり、パニック障害に陥っていた。自分で「落ち着け! 落ち着け!」と宥めていましたが、傍で見ていて、何とも哀れな光景でした。これからは息子を「病人」として扱って行かねば、息子を潰しかねないと感じました。その日は我々家族にとって、なんとも辛い日になったのです。
本人に問い糺すと、05年の十一月頃から、どうも異変に気づいていたと言います。学校にいる間は、できるだけ病気の発作を抑えているけど、時として自分の頬を、「パチン!」と大きな音を立てて急に叩き出

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したり、腕を急に思いっきり屈伸したりして、奇妙な行為を繰り返す衝動を、抑えられなかったと言います。人の話声が異常に耳障りになり、「耳栓をして、できるだけ聞こえないように自己防衛していないと、いたたまれなかった!」と言います。
一月二十七・二十八日になり、息子も「勉強が手に付かない状況!」と訴えて来た。体中が痛いらしく、「体調はどうだ? 」と会う度に聞いても、気にすると、病気が益々酷くなるような気がするから「聞かんといて!」と憮然と答えていた。一時間勉強したら二時間休憩する…という繰り返しみたいで、「もう、受験は無理かも知れない!」と弱音を吐き、投げやりな態度になっていました。
その夜、椅子にきちんと座らせて、膝を付き合わせて真剣に話し合ってみましたが、全く落ち着きがなく、まさに「注意欠陥多動性障害」みたいな症状を示していました。本当に「ヤバイ感じ」がしました。「今まであれ程勉強を頑張ってきて、あと一カ月という土壇場になってこれじゃ、とてもやりきれないな!」という、鈍器で殴られたような悲痛な思いに襲われました。
一月二十九日(日曜日)、朝から家内と相談しながら、息子の症状を分析・整理し、まとめてパソコンで入力してみた。月曜朝に、近くの精神科医に診て貰う時に、息子の症状が客観的に分かるように報告する為です。京橋や蒲生にも精神科がありましたが、横堤にあるクリニックが一番近そうなので、電話帳から切り抜いておきました。パソコンで症状を出力し、封筒に入れておき、そして高校の担任の先生にも事情を知らせるべく、内容を一部訂正して出力し、速達郵便で出す準備をし、昼前に近くの郵便局へ家内と行き、速達にしてすぐに発送の手配をしました。

息子には、担任の先生に電話するよう指示しましたが、「電話してみたが、自宅にはいなかった!」と消極的だったので、私がすることにしました。奥さんが出てきたので言付けておき、夕方先生から電話を貰い、速達の件を話した。本を読んでいても息子の事で一日中集中できませんでした。

もう限界!精神科クリニックへの通院を決意する。

一月三十日(月曜日)朝、精神科クリニックに電話を入れて予約し、夕方診て貰う段取りをしました。薬を二種類二週間分貰い、服用してから、その日は調子が良いようでした。医者と話して大分落ち着いたのかもしれません。私がパソコンに入力し出力した「症状のメモ」は、結局医者には渡さなかったようでした。高校の担任の先生からも電話があったらしく、一月三十一日火曜日の午後から、その件について話をしようということになりました。
高校の調査書を貰って、二月一日水曜日には、願書を大学まで書留郵便で発送しなければならず、夜息子に、「やる気をなくしていないか?」声をかけてみましたが、元気そうに笑いながら部屋の中で屈伸運動をしていました。一週間後の二月六日月曜日に、また診て貰いに行く予定だと。いつものように大きな音をたて空鼻をかむこともなく、手洗いも少なく、その日は異様に静かでした。
その夜は遅くまで勉強していたようでした。夜中目が覚めた時ゴソゴソ音がしていました。会社で仕事をしていてもなかなか集中できない自分を感じました。家族四人が元気でいることこそ、何よりの幸せだと、つ

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くづく思うようになったものです。
一月三十一日(火曜日)、息子が調査書を貰いに高校へ行ったが、その時に担任の先生と、ちゃんと話し合えるのやら不安に思いました。息子はなんか嫌がっている様子でしたが、何らかの手達を早めに打たなければ、手遅れになりかねない。藁をも縋る思いであれこれ手を打ってきましたが、本人は一向に行動に移そうとはしなかったからです。
「一応受験はする!」と言っていましたが、勉強に集中できないと不貞腐れ、夜になったら大声を出して騒いだりしていました。「風呂場で転んだ!」と言って、また喚いていたので、私もつい頭にきて大声でまた叱ってしまいました。そんな折り、息子の中学時代の同窓生の女子が事故に遭い、意識不明という情報がその夜入りました。
夜は焼き肉をして、みな機嫌も良かったのですが、「こんな平和な団欒も、これからあるのだろうか?」という淋しい思いがしました。風呂に入った後、十時半頃にはもう息子もベッドに入っていました。やりきれなかったのでしょう。先日も帰宅した時には、もう床についていましたが、翌日起きたのは昼前でした。やる気も失ってしまったように見えました。
英作文の問題集に、手洗い後の手についた水滴を、わざと振りかけたりする「奇行」も目に付きました。勉強するのかしないのか、受験するのかしないのかという、どっちつかずの、中途半端で砂を噛むような日々が暫く続きました。
息子の将来はどうなるのだろうか? 私の接し方にやはり問題があったのだろうか? という葛藤が頭に付き纏いました。「強迫神経症」の発作は相変わらず屡々起こりますが、まだ救いがあるような状況だったので、今何とかしなければと、兎に角焦る気持ちでいっぱいでした。
息子が精神科医から処方された薬のひとつ「抗鬱剤」のことを、家内が図書館で借りた本で少し調べていました。効果が出るまでに一〜二週間位かかり、その前に副作用がちょっと出るらしく、大学の受験日当日は、眠くならぬよう「服用すべきか否か?」を先生に確認させなければ…。病気の症状を抑えられても、試験中眠くなって、試験の答案が書けなければ話にならないから。
その夜、「今日一日はどうだったか?」 家内に確認しましたが、「相変わらず騒がしかった」と言うだけ。「学校で担任と話し合ったのか?」確認したら、「三分ほど話しただけだ!」という答え。
「お前なら普通にやっても必ず受かるから…今までの学力の蓄積があるから…得意教科で満点を狙え!」などと担任には励まされたらしい。息子も学校ではまだ症状を抑えられているから、担任の先生も私の「手紙の文面」との落差を感じていたのかもしれません。調査書を前期・後期二通分貰ってきていたので、その夜、大学に出す願書を確認して封書に糊付けしました。
娘は二月一日から三日間、中学三年の学年末考査が始まりました。息子も心配乍ら、娘の将来もかかっている大事な時期です。一月は子供の事でいろいろ悩まされましたが、十九冊ほど単行本を読めました。子供が受験で必死に闘っているのに、親が家でゴロゴロ怠けていたら示しがつかない…という思いがあり、ひたすら何かに縋る思いで読み続けていたのかもしれません。
二月一日(水曜日)、家内が郵便局で大学に願書を送る手続きを済ませました。息子の方は「抗鬱剤を床に落とした!」と言って、汚くもないのに薬を捨てたりという有様。妙に「潔癖」な所も病気のなせる業なのか? 相変わらず騒々しいようでしたが、空鼻をかむ音は漸くしなくなりました。

あと一ヶ月という二次試験直前期になり、受験断念に傾く。

二月四日(土曜日)朝、また息子が騒いだと家内が嘆いていました。本人も早く治そうと、薬を一度に四粒も飲んだ為、強烈な眠気が襲ってきて、昼の二時頃までずっと寝ていたらしく、考えられないようなバカな事をするものです。懇々と説教をしましたが、「恍惚の人」のように上の空だった。本には、病人に説教をするのは、傷口に塩を塗るようなものだから、するなとありましたが…。
夜は夜で夢遊病者の如く、眼の焦点が定まらない感じで、早々に寝ていました。またもや、「受験はもう駄目かもしれない…」と弱音を吐いていました。強気で生意気な奴が弱音を吐くと、何かとても淋しい気持ちになります。生意気じゃないと息子らしくない。いつも強気で生意気な息子が弱音を吐くと、本当にもう駄目なのかもしれないという、暗澹たる気持ちになったものです。
息子の部屋の中も「倒産した会社」みたいに物が散乱していて、「これで息子の受験も終わりだな!」と奈落の底に突き落とされ、「折角今迄必死になって積み重ねてきた勉強も、最後の最後になってご破算か!」という情けない思いで一杯になり、仕事にも身が入りませんでした。

息子の精神疾患と経緯について。

息子が罹った精神疾患は、「強迫神経症」と言われているものです。高校一年では症状は全くなく、高校二年の冬までは、少なくとも何もなかったと本人は言っています。腰痛が酷いと、よくボヤいていましたが、当初は単なる「我が儘」で騒いでいる位にしか思っていませんでした。私がいる時は抑えていても、家内や娘だけの時は、かなり部屋の中で荒れていたようです。暴れはしないのですが、かなり音を立て、騒ぎ喚くと言う「うるさい」状態だったのです。
親としては受験のストレスでイライラし、大声で独り言を言ったり、叫んだりするのだと思い、静かにするよう、屡々叱ることが多かったのですが、いくら叱っても無視を決め込み、直そうとしないので、座布団で何度も叩いたことが屡々ありました。
本人に聞けば、その三ヶ月前頃から、症状は特に酷くなってきたらしく、それでも学校では必死に抑えているようで、家にいる時ほど酷い状況ではないそうで、やはり他人がいると抑制力が少しは働くみたいでした。それが原因で、益々学校ではみんなから孤立して行ったようでした。
当時は、喉が乾くから水分をよく摂ったり、痰が詰まる感じがして気持ち悪く、洗面所でよくうがいをしたり、唾を大袈裟にこれ見よがしに吐いたりした。同時に手が紫色に変色するまで、手を洗う回数が異常に多くなっていました。
センター試験会場でも、「昼休みに下痢が続く状況が屡々あった」とも言います。「お茶を飲むと必ず下痢をした」「トイレに長居し過ぎ、気が付いたら試験が始まっていた!」こともあったと。
自分で食べ物を落とした途端にパニックに陥り、自虐的になり、髪を掻き毟り、顔を引っ掻き、胸や喉を叩き、自分の感情を抑えられないようになる…パニック障害のような症状もよく見受けられました。性格的には粗雑でズボラにも関わらず、ものに対して異常に潔癖というか、汚いのを嫌がるというか、そういう性癖があり、床にちょっと何か食べ物を落としただけで、もう食べられないと思い、パニックに陥るという症状を呈していました。
問題集などで解けない問題があれば、イライラして喚きながら大声を出して騒ぎ、解けたら鼻歌を歌うという、気分の振幅が激しいところは、躁鬱病染みた所もあるし、センター試験で90%近く取れたと喜んでいたのに、学校で皆が更に良かったことで、かなり落ち込んでいたのも事実です。
聞けば、携帯電話に友人の電話番号を一人しか入れておらず、友人関係がうまくいってないようでした。高校一年の時はみんなと楽しくやっていた筈だったのに。高校二年後期にクラス替えしてから、仲の良かった友人達と離れ、クラスでも孤立していると、担任が懇談で語っていました。人に話しかけもしないし、話しかけられもしない孤独な状況だったようです。
回りの人の声が聞こえるのが嫌で、耳栓をして遮断し、「耳が聞こえ過ぎて嫌だ!」とも言っていました。何でも思い通りにならない時、壁に頭を打ちつけたり、叩いたりもしました。家の中の至る所が凹んでいたのは、息子が叩いていたからでした。
お互いに向かい合って話し合った時でも、一時も落ち着いていることがなく、顔を揺らしたり、腕を伸ばしたり、立ち上がって何度も冷蔵庫を開けて飲み物を飲んだり、コップを洗ったり、手を洗ったり…何かしていないといられないような、不安な状態が続き、自分の顔を両手で叩く衝動を抑えられない…それら一連の行為を、「わざとやっているのではなく、衝動的にやってしまう」とのこと。見ていて、とても正常な人間とは思えない、とても異常な状態でした。
起きている時は一日中(出ないのに)空鼻をかんでいて、当初は鼻炎か何かかと思っていましたが、耳鼻科に行き薬を服用しても改善されなかったので、そんなものじゃなかったようです。
「パ行やマ行」などの音が聞こえると、自分の声であれテレビの音であれ、他人の声であれ、異常に気持ち悪くなり、不快感が起こり、喚きながら自分の耳を両手で叩き続ける。耳も傷ついていて、顔も引っ掻き傷がかなりありました。その当時は特に酷い状況になっており、受験勉強もとても集中できない状況になっていたようです。
本人に「受験のストレスが原因なのか?」と尋ねたら、「そうではない!」と答えます。父の私が理解なく(先日までは病気とは思ってもみず、わざとやっていると思っていました)「叩いたり、非難したことが遠因なのか?」と尋ねても、「それは関係ない!」と言っていましたが、真相は分かりません。大学に受かれば、家に居たら騒々しいから、ひとり暮らしをするように、前々から突き放していたことが、本人にはかなりのストレス・負担になっていたのかもしれないと思います。
勉強自体大変な上、今後の生活上の問題なども含め、本人にはかなりのプレッシャーがのし掛かっていたのかもしれません。本人に、「二月二十五・二十六日の、京大の二次試験が受けられるか?」 確認したところ、「ちょっと無理かも知れない!」と口では言っていましたが、本人は受ける気持ちはまだ失ってはいなかったと思います。「試験場では症状は出ないのか?」と確認したら、必死で抑えているらしく、「それも今後はどうなるか分からない状況だ!」とか。
そのような状況ではありましたが、それまで必死で勉強してきたことを無駄にしてはなるものかという「強烈な思い」の灯が消えなかったのです。今まで必死で勉強してきた貯金のような蓄積が、自信になっており、弱気になって挫けそうになっても、強気の姿勢を貫いて来れた。最後の最後にモノを言うのは、「今までこんなにやってきたじゃないか!」という蓄積だと思います。良い時も悪い時も確かにありましたが、トータルで平均すれば、充分合格圏内にいるという、確たる自信だけが当時の息子にとっては支えだったと思います。しかしまともに勉強できない状況が、二次試験直前に約一ヶ月間もあったので、受験したとしてもかなり合格の可能性は低いと思っていました。

二月二十五・二十六日、最後の気力を振り絞り、京大二次試験に臨む。

確かにこの一ヶ月間は、ほとんど勉強できなかったかもしれないが、「今まで必死にやってきた蓄積があるのだから、最後まで諦めるな!」と励まし、元気づけることしかできませんでした。
受かる実力が十分にあるのなら、この段階で大切なことは、諦めないことだけです。何も一番で合格しなければならない訳じゃなく、最低点でも合格すればいい訳だから。数学の実力は、そう簡単には落ちないでしょうから。しかし本人は「もう駄目だ!」と、かなり落ち込んでいました。
絶対に合格しないといけないという「プレッシャー」もあっただろうし、いつ病気がぶり返してくるか分からない「不安」とも闘っていたでしょう。「自分で自分をコントロールできないもどかしさ」もあったと思います。受験のストレスで病気になったのではないと、本人は言っていましたが、受験のストレスが、症状をして更に拍車をかけたことは確かだと思います。
二月二十五日(土曜日)、いよいよ京大二次試験当日。その日は私も休みを取っていたから、朝五時半に息子を起こし、六時十五分に家から見送った。地下鉄から京阪K特急で八時前に大学に到着したが、開門時間まで早過ぎたらしく、三十分近く寒い中で待たされたとボヤいていました。
試験会場では、すぐ後ろの席の受験者の息づかいが妙に気になったそうで、そのすぐ後ろに級友がいたので、リラックスできたようです。昼休みには別の級友の女子生徒が、本を読みながら大学構内を歩いていたとか…。「国語はまあまあ、三十点くらいはとれたかも!」「 数学は四完+二半の出来ながら、三問は非常に簡単だったから、数学ではあまり得点差がつかないのではないか? 」と分析していました。予想は150点前後か? (実際は現代文64点で数学は満点)
夕方六時ジャストに帰って来た時は、息子の機嫌はとても良く、確かな手応えを感じていたのかもしれません。親としては、荒れていなくてホッとしました。情緒不安定な病人なので、試験の出来が悪かったら、極端に機嫌が悪かったでしょう。何はともあれ、初日は何とか乗り切れて、ホッと胸をなで下ろしたものです。(二日目は受けないと言われなくて良かった…)

二月二十六日(日曜日)、再び朝五時半に息子を起こし、六時二十分に家から見送り、一応昨日と同じ京阪K特急に乗せた。昼間はどしゃ降りの雨になっていた。英語では、「英作文が特に難問だった」らしく、「化学はボロボロの出来ながら、物理は半分弱くらいは解けた!」と。英語は75点前後か? 物理は50点?、化学は30点? と息子は予想していた。(実際は英語79点と理科合計114点)
合計を350点前後とすると、昨年の合格最低点とほとんど変わりません。「合格発表は絶対見に来るな! 」と息子に早々と釘を刺されてしまいました。
帰って来たらすぐ、マンション上階に住む中学時代の友達の所に直行し、一時間くらい喋って来てから帰って来ました。試験が終わってホッとしたのでしょう。その友人とは、「お互い合格したら一緒に飯を食おう!」と約束していたみたいです。
帰って来て緊張の糸が切れたのか、病気の症状が出て騒がしかった。強い薬の方を飲ませて早めに寝かせた。「一応後期課程試験に向けて数学・理科を中心にやり、英語も勘が鈍るからやる!」と言ってました。「それじゃ前期課程対策と同じじゃないか?」 と私がツッコミを入れたら、息子も自分の発言の矛盾に気づき、ニヤリとしていました。本当に変な奴です。
大手前理数科からは、京大には二十人近く現役生が受けに来ていたと言います。理学部だけでも計七人も受けたらしく、過去最高でも現役では三人位しか、大手前では合格者はいなかったので、確率的に言えば四人は受からないことになります。実際合格者は三人でした。
二次試験後、「物理・化学はやはり相当難しかった!」と、仲間達と言い合っていたらしい。インターネットで調べましたが、予備校の解答速報でも、理科での高得点は、かなり難しいと講評が出ていました。本番入試の採点基準が全く分からないから、自己採点の予想もしようがないと、息子も言っていましたが、数学・英語・国語は、新聞や予備校の模範解答があるから、自己採点は一応できる筈です。

物理・化学はインターネットで解答を出力して持って帰りました。帰って手渡ししようとしましたが、丁度病気が出て機嫌が最悪の時だったらしく、無視され肩すかしを食ってしまいました。
二月二十八日火曜日は、高校の卒業式の予行演習、三月一日は卒業式本番で、生憎雨模様でした。京大二次試験の両日は、さすがに公休をとって会社を休んでいても、家では落ち着かず、「二千二十年からの警鐘」という経済関連の本の後半部分を読んでいましたが、なかなか読み進められず、うとうと昼寝をしてしまいました。
それにしても息子の部屋の中は乱雑極まりない状況で、まるで倒産した会社の事務所の中の様でした。「こんなに部屋の中を乱雑にするのも、病気の所為なのか?」 問い質したら、「それは違う!」と弁解していました。「それなら早く片づけろ!」と喝を入れ、渋々投げやりな態度で片づけていました。どこまでが病気で、どこからが無精な性格なのか…見分けがつかなかったのです。
「凄い目標」と称して、部屋の片隅に、京大理学部二次試験目標得点として、(国語40、数学175、英語90、物理70、化学80、合計455点…)と張り紙があって、確かに凄い目標だ。模試四回の平均が343点位しかなかったのだから。本番入試でそれより100点も上を狙える筈がないだろう。試験を終えた後の息子の予想では、その「凄い目標」から100点以上も低い「325点くらいではないか?」と言っていた。それじゃさすが

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に合格は微妙な線だと言わざるを得ない。
昨年より問題の難易度がアップしていれば、昨年の合格最低点の点より下がる可能性もあるが、合否
ラインはギリギリの状況であることは確かで、「病気をおして、よくやった!」と褒めてやりたい気持ちはあるが、一方本人にしたら最後の最後で自分を追い込めなかった「もどかしさ」もあったのだろうと思う。
正直な気持ちでは、ギリギリであれ受かっていると信じてはいたが、ひょっとしたら、ギリギリ駄目かもしれない… という思いも確かにありました。模試では常に700〜800 人中で、悪くても68番以内にいましたが、「355点前後なら250番前後ではないか?」と不安でした。05年度の京大理学部の本番入試では、合格最低点が346点ながら、その年11月23日の駿台京大実戦模試では294点以上あれば、合格可能性が80%以上確実なラインとなっていました。更に260
点以上でも合格可能性が60%以上あったというのが、予備校のデータです。

06年度京大理学部の合格最低点は366点だったので、650点満点で昨年より20点アップした訳ですが、息子の場合、駿台二回・河合塾二回の、合計四回分の京大模試の平均点が343点(偏差値平均64)しかなかったにも関わらず、本番入試での成績開示は457点だったことから、457÷343=1.33で、模試の通算平均得点の約1.33倍は、本番入試で取れたことになります。あまりにもかけ離れた実績と言えます。
過去六年間の理学部の合格者の平均点が400点なので、400点÷1.33=300点程度模試で得点があれば、合格
者の平均レベルと言える訳です。理学部の合格最低点の過去六年間通算平均点が353点なので、353点÷1.33=265点は、ボーダーラインで合格可能性50%前後と言えることになります。
模試ではあまり芳しい成績ではなかったにも関わらず、合格判定が良いのは、実際の入試と模試との間には、この1.33倍というかなりの乖離があるからで、問題の難易度は、本番入試も模試もほぼ同レベルと言えますが、模試の方が本番入試よりも、採点基準が非常に厳しいと言えます。それに模試の場合は、アルバイト学生が機械的に採点したりしますので、場合によっては部分点がもらえず、思った以上に得点が低くなってしまう場合もあるのです。その辺の事情をよく理解しておかないと、本番の入試での自己採点と、実際の成績開示点の間に100点近く差がつくことになります。
息子の場合も、本人はどうであったか分かりませんが、合格最低点から100点近く上回っていたのに、合否ラインギリギリだと思い込み、試験後戦々恐々とした毎日を送っていたものです。
二次試験中、昼食もあまり食べられなかったようで、「集中力も二時間が限界だ!」と言っていました。大手前から受験した二十人の内、合格を手にするのは半分の十人前後だろうと思っていましたが、実際には理数科現役だけで前期・後期合わせて06年は十六人、普通科で二人、浪人で七人、合計二十五人が合格していたと後で判明しました。阪大にも大手前から合計四十一人が合格し、その内理数科現役だけでも十六人合格は、立派な実績だと思います。「理数科十一期生は優秀だ!」と教師から聞いていましたが、本当だった訳です。

●三月三日〜三月八日、合格発表までの不安の日々。

三月三日(金曜日)、息子の機嫌はとても良く、それというのも、自己採点したらギリギリながら「合格できそうな感触」があったからで、二次試験終了日の翌日、月曜の夜に懇々と説教してから、帰宅後も、なかなか顔を合わせることもなく会話がなかったが、「おとう、お帰り!」と、機嫌が良い時の軽快な挨拶が息子からあり、久し振りにちょっとホッとしたものです。
三月五日(日曜日)、息子はもう合格した気でいるようでした。「半分しか点を取れていない!」と言っていたくせにいい気なものでした。半分の355点じゃ合否ラインギリギリでしょうから、最低でも370点位は必要だというのに、朝も八時頃まで寝ている調子でした。ここ最近、「強迫神経症」の方は少し落ち着いているみたいでしたが、またいつ発症してくるか分からない状況でした。
予備校主催の京大模試と、本番入試での「点数の乖離」があまりにも大きいのがやたら気になりました。模試では650点満点中、290点でも合格A評価になるのに、本番では合格最低点が昨年実績で346点、その前年なら388点だった訳ですから。どちらを信用すべきか分かりませんでした。
本番の自己採点は、息子曰く、355点位でしたが、私の予想では375点前後と見ていました。息子の四回の京大模試での獲得平均点が343点位で、全てA評価でしたから、本番の 難易度が京大模試と同じだとすると合格なのでしょうが、何か腑に落ちない気分。理学部受験生徒からすると、国語や難しかった化学ではあまり差がつかないだろうし、物理は割とできたようだが、一方英語は難しかったらしく、プラスマイナス0。数学は簡単だったということで、半分しか解けなかった問題の部分点次第か? 今年の合格最低点はどうなんだろうか? 採点も予備校の話では、英語は甘いと言うし、友人の予備校講師の話では、理学部は、理科や数学の採点は相当厳しいとも言うし、情報が錯綜していて一体何が本当なのか、合否の結果が分かるまでは、全く見当がつかない状況でした。

06年の問題で、国語・英語は標準的ながら、数学は相当易化したと言うし、物理・化学が昨年より難化した分、数学200点:理科200点の比率で考えると、合格最低点も昨年より少し上がる程度か? 05年の合格最低点346点は650点満点中53.2%で、200点の53.2%=106点。数学は最低135点、理科は最低90点が06年の合格最低ラインとすると、数学でプラス29点アップ、理科でマイナス16点と仮定すると、合計ではプラス13点ほど合格最低ラインが上がることになり、合計346+13=359点が、06年の合格最低点と、当時は予想していました。息子は半分近くは取れたと分析しており、つまり355点は最低でも取れたと読んでいた訳で、06年の予想最低点359点弱は最低でも取れたと見ているようでした。(実際の合格最低点は366点でした)
※過去の京大模試で326点だと、級友の模試での324点が99位だったことから、100位前後か? それが合格最低ラインとしたら本番では280位になり、つまり模試で100位だった点を本番で取ると、280位になり、180位も順位を下げることになります。模試で280位だった点は275点位と思われ、275点と325点の差は50点。模試と本番での合格最低点の差は、本当に50点も開きがあるのだろうか? 346点と275点の差で見ると、70点も開きがある。650点に対して10%の乖離がある訳です。
京大模試四回分で343点近く平均で取っていた息子が、22位〜68位の平均で42位。本番入試では355点位は取ったと云うから、模試なら40位くらいの成績ということになる。模試と本番の難易度を比べても国語は標準、英語も標準、数学は易化、理科は難化。トータルでは模試より難化しているとすると、受験生のレベルが三カ月間でアップしているとは言え、355点あればギリギリであれ、合格の可能性は高いと判断せざるを得ない。355点取っても不合格となれば、模試の判定は判断基準にならないと言わざるを得ない…というようなことを何度も何度も、あれこれ延々と考えてばかりいました。
三月六日(月曜日)夜息子に「きちっと自己採点したのか?」再度確認してみた。「配点が分からないし、部分点がどれだけ取れたかは、模試での実績を基に考慮したが、国語は30点位、数学は150点は最低あるだろうが、部分点でどんな採点をされるか全く分からない。 英語は半分の70点位、やはり難しかった。物理も問題の半分+二問位は解けたが、点で言えば良く見て65点前後か? 化学の方が物理より難しかったので、半分弱の40点前後か? 理科トータルで105点前後と見ている」と。理科であと10点アップし、数学で部分点評価でプラス10点あれば、合計375点になりますが、息子自身いつも低めに見積もるので、実際にはもう少し良くて390点位あると思っていたのかもしれません。
後期試験に向けて勉強している様子もなく、合格後のことを考えている風で、勉強もイマイチ進んでいないようでしたし、病気の方も、二次試験後の月曜日におかしくなって以来、順調みたいで、「合格できそうだ!」という精神的快感が、病気の再発を抑止していたのかもしれません。

三月八日、盛り上がらず白けた、京大理学部合格発表風景。

息子からは、「自分より先に合格発表会場に行くな!」と、うるさい位念を押されていたが、何事も行動が遅い息子に比べ、何でもやることが早い私のこと、結局家を20分も先に出たのは息子ながら、合格発表会場に先に着いたのは私の方でした。(かなり寄り道をしたのですが)

息子のクラスで一緒に理学部を受験した生徒が、発表を待ちきれずに掲示板の前を落ち着きなく行ったり来たりしたいるのが分かりました。工学部のように大人数の合格発表に比べ、理学部はひっそりとして非常に地味な感じで、派手な胴上げ隊が待機している訳でもなく、白けていました。
掲示物を貼っておくガラス扉に、合格者の番号が印刷された用紙を係員が事務的に貼っていて、背後からは人垣で上部しか見えず、260番という数字は一番上で見えたが、その左は210番代で、息子の受験番号である249番は最前列に行かなければ到底見えない一番下の位置にあった。ちょっと強引に前の方まで突き進み、ドキドキ鼓動する心臓の音を意識しながら、息子の番号を目で追った。248、249、250と番号が続き、息子の249番は確かに載っており、あっけなく合格していました。
番号があったらしい女子生徒の、甲高い声が後方でチラホラ聞こえたものの、大半は黙って合否の確認をして、落ちた者はサッと帰っていくという、実にあっけない合格発表でした。二回程受験番号を確認し、使い捨てカメラで二枚写して、いつまでも前列にいると後ろの邪魔になると遠慮し、外に出たところ、息子に遭遇したので、親指を突き出し、「良くやった!」と声を掛けたが、息子は、「俺より早く来るなと言っただろう!」と憮然とした顔をしていた。「お前が来るのが遅いからだ!」と応酬したそのやりとりの一部始終を、級友のひとりが横からしっかりと、苦笑いしながら見ていたのが印象的でした。惜しくもその級友は合格できなかったのが残念でなりませんが。
振り返って考えてみると、大手前高校理数科入試の時でも、中学時代の内申点190点+当日入試点180点、合計370点中315点位を合格最低点と見ていましたが、合格後の聞き取り調査によると、実際には295点前後と、息子の304点より10点近く下だったことからも、大学入試も同様で、案外思っている点よりも、合格最低点のハードルは低いのが現実なのかもしれません。
その夜は、合格した喜びを誰かに伝えたかったのか、同じマンションの上階に住んでる中学時代の友人とランニングしてくると、夜七時頃出て行き、九時頃になるまで帰って来ませんでした。

京大理学部合格者の出身高校(05年〜06年)

年度によって数に変動がありますが、05年度データで見ると、京大理学部合格者の出身高校は、一位が奈良の中高一貫名門高校の東大寺学園で八人、二位が京都の国立京都教育大附属高校と、兵庫の中高一貫名門高校の甲陽学院の各六人。三位は四校あり、京都の中高一貫名門高校の洛星、洛南、京都の公立名門高校の堀川、福岡の久留米大付設高校、四位が大阪の公立高校北野の四人。五位は三人で十七校あり、国立筑波大附属駒場、公立では岐阜、浜松北、膳所、大手前、天王寺、加古川東、長田、中高一貫私学では、東海、四天王寺、清風南海、灘、六甲、西大和学園、智弁和歌山、広島大附属、土佐などが続きます。以上の高校で約九十五人なので、理学部全合格者の約三分の一は、これらの高校出身者ということになります。
06年度データで見ると、一位は洛南と東大寺学園の各七人、三位甲陽学院六人、四位岐阜と久留米大附設の各五人、六位は五校あり、洛星、三国丘、奈良、西大和学園、広島大附属の各四人。七位は九校あり、武生、東海、滝、彦根東、茨木、大手前、天王寺、灘、高松の三人。

京大出身のノーベル賞受賞学者(五人)

◎湯川秀樹博士(京都府立一中→理学部 物理学科)49年物理学賞(未知の素粒子、中間子の存在を予言)
◎朝永振一郎博士(京都府立一中→理学部 物理学科)65年物理学賞(素粒子を扱う くりこみ理論 を展開)
◎福井謙一博士(今宮高校から、工学部 工業化学科)81年化学賞(フロンティア軌道理論を開拓)
◎利根川進博士(日比谷高校から、理学部 化学科)87年生理学医学賞(免疫グロブリンの構造解明)
※分子生物学者で、京大卒業後は、(カリフォルニア大サンジェゴ校〜マサチューセッツ工科大へ)
◎野依良治博士(灘高校から、工学部 工業化学学科)01年化学賞(不斉合成のための触媒分子を開発)
※福井謙一博士の後輩で、当時は医学部より、工学部 工業化学学科の方が人気もあり、難易度も高かったようです。その後、名古屋大教授〜名古屋大大学院教授を歴任し、06年からは、教育再生会議座長を務めておられます。
参考までに、その他の大学 学部出身の、ノーベル賞受賞者の経歴を見ますと、
◎江崎玲於奈博士は、旧制三高(京大教養学部)から、東大理学部 物理学科出身で、73年(半導体エサキ・ダイオードを発明)により物理学賞受賞。(06年から横浜薬科大学長)
◎小柴昌俊博士は、県立横須賀高校から、東大理学部 物理学科出身で、02年(宇宙からのニュートリノの検出に成功)により物理学賞受賞。(ロチェスター大大学院〜東大理学部教授)
◎白川英樹博士は、岐阜高山高校から、東京工業大学 理工学部 化学工業科出身で00年(導電性ポリマーの発見と開発)によりノーベル化学賞受賞。(現在筑波大学教授)
◎田中耕一氏は、富山県立富山中部高校から、東北大学工学部 電気工学科出身で、02年(生体高分子の構造解析の手法を開発)によりノーベル化学賞受賞。
●京大理学部出身のフィールズ賞受賞学者(二人)
フィールズ賞というのは、ノーベル賞に「数学賞」がないことから、カナダ人数学者、ジョン・チャールズ・フィールズの提唱によって、36年に作られた、「数学界のノーベル賞」とも言うべき世界的な賞。四年に一度開催される国際数学者会議に於いて、顕著な業績をあげた、四十歳以下の若手数学者に授与されます。日本人の受賞者は、過去三人しかいません。※小平邦彦博士は、松本深志高校と小石川高校から、東大出身で、54年プリンストン大学時代に受賞。(16年〜97年没)
◎広中平祐博士(柳井高校から、理学部 数学科)70年(ハーバード大学時代に受賞。31年生まれ)
◎森重文博士(東海高校から、理学部 数学科)90年(京大数理解析研究所時代に受賞。51年生まれ)
その他、京大理学部出身の方で、活躍されている著名な方は、
◎米沢冨美子博士(茨木高校から、理学部 物理学科)は、「猿橋賞」を受賞した女性物理学者。
◎小室直樹氏(会津高校から、理学部 数学科)は、京大卒業後、阪大大学院〜東大大学院〜アメリカの大学院を経て、社会学者、政治経済学者、法社会学者、評論家として活躍されてます。
◎堀場雅夫氏(旧制甲南高校から理学部 物理学科)は、京都のベンチャー企業 堀場製作所の創業者。
●京大理学部と東大理科一類の二次試験偏差値比較
京大理学部は、二次試験の偏差値が67で、東大理科一類・二類の66よりも上と、06年度予備校のデータにはありました。センター試験の得点率ランクでいうと、京大は88%で、東大の89%〜90%には僅か1〜2%及びませんが、息子は90%(900点満点で808点)は確保していたので、東大受験合格者とレベルは同程度と言えます。センター試験の点では息子より遥かに良かった級友も、京大前期課程は不合格だったし、やはり二次試験一発勝負の実力が、一番合否に左右するのでしょう。
三年間に蓄積してきた実力というものが、やはり当日入試に結集されて出てくるのだと思います。本当に力のない者が合格できる筈がなく、その辺は神様は公正なのかもしれません。高校時代の実力をそのまま出せる者、出せない者は当然いますし、本番に強い者、弱い者がいるのも仕方がありません。何度も模試などを受験することで、場慣れして鍛えるしかないのですから。京大実戦模試やオープン模試で実力を蓄えていなければ、当日に力を発揮することはできないのだと思います。
いくら敗者復活戦のような後期課程試験と言っても、実力のない者はやはり通りません。大手前理数科の級友達は、前期も後期も京大一本という一途な生徒が多いようで、滑り止めの私大など一校も受けず、ストレートに京大だけを目指す生徒が多いのが特徴。息子のように中学・高校と、塾や予備校にも行かず、通信添削のみのほぼ独学派は極めて少数ですが、大抵の生徒は予備校でいろいろアドバイスを貰っているから、そういう強気の受験をするのかもしれません。

小室直樹氏の、「日本国民に告ぐ」をこの頃読んでいました。氏の経歴にあるように、京大理学部数学科から、ノーベル経済学賞受賞博士数人に学んだ幅の広さを見習わせようと、息子に紹介してみましたが、怪訝な顔をしていました。「会社員にはなりたくない…などとほざくのなら、勉強し続ける以外に道はないだろう!」と諭しました。親戚の叔父も、「京大理学部だと就職がないのでは?」と心配していたようです。
「就職無・理学部」と学内で揶揄される所以です。就職して、バリバリ働くというイメージは、息子には全く似合わいません。二十代は勉強を続け、どこかで何らかの講師みたいなものになっていくのではないかと、漠然と思い描いていました。就職する気もあまりなく、大学院に行きたいでもなく、「二十歳までは生きれないと思う!」と本当に思っていたようです。今を目一杯生きていれば、もうこの世に未練などないかのように…。息子には自分の将来が見えていたのかもしれません。


挿入図・表・目次
第七章 高三 大学入試カレンダー(06年一月〜四月まで) 242
第七章 高三 センター試験獲得目標点 シミュレーショングラフ 246
第七章 高三 大学入試センター試験模試実績 247
第七章 高三 息子の「強迫神経症」発病の推移(05年十月〜07年二月) 250
第七章 高三 大手前理数科 京大合格者の中学時代の五ツ木模試実績 251
第七章 高三 05年度 京大入試データ+ 05年11月実施 駿台京大実戦模試の合格ライン

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