あとがき

あとがき

 

親が「鳶」であれ「鷹」であれ、子供に「鷹」の才能があると感じたら、親としてはその子に相応しい教育を施してやるのが当然の義務であり、務めではないでしょうか。
子供にとってどういう教育をするのが一番良いのかは、それぞれの子供によって全く異なりますので一概には言えませんが、親子が会話を通して、活き活きとした「言葉のキャッチボール」をすることが、何よりも大切な教育ではないかと痛感しています。
子供の話をしっかりと受け止めてやり、確実に返してやることで、子供との信頼関係を築いていくことが大切であり、それを面倒臭いなどと決して思ってはいけません。子供はしっかりと親の反応や態度・姿勢を見ていて、自分という存在が受け容れられているのかどうかを、敏感に察知しているのです。中学・高校になってからでは、もう手遅れになります。小学校時代に「どれだけ温かく対話してやれるか?」が子供の教育では一番のポイントになると私は思っています。
息子は息子なりに熾烈な競争を潜り抜けてきた訳ですが、やはりそれなりの苦しみに耐えて来たことに対しては、ひとりの人間として尊敬の念を抱いております。ちょっと勉強すれば簡単に入れるような、生易しい高校や大学ではなかったのですから。
そういう難関の受験を乗り越えたからと言って、それだけで人生の勝者になった訳では決してなく、あくまでもこれからの長い人生の、スタートラインに立ったに過ぎません。日本にいる以上は、この「受験」という試練を経なければ、大学で好きな勉強をする資格が得られない以上、必要悪の「受験」と言えるかもしれません。ただ大学に入るまでの勉強と、大学での勉強の仕方を、うまく切り替えていかないと駄目で、受験での勝者がそのまま、大学や大学院での成功者になる訳では決してありませんから。新たなステージでは、そのステージの本質に沿った勉強をしたものが、新たな栄冠を掴むのです。その点では、息子は落ちこぼれだったのかもしれません。
将棋棋士の羽生善治三冠の言葉に、「才能とは、努力を継続できる力である」というのがありますが、中学や高校での三年間〜六年間を、如何に「努力し続ける」ことができるかが、受験では明暗を分け、「気持ちを切らせて」しまった時点でゲームセットになってしまいます。受験勉強に嫌気が差してしまうのは実にたやすいことです。それを乗り越えて、堪え忍んできた者だけが、賞賛に値するのではないかと思います。
「強迫神経症」の方は、快方に向かうどころか、益々酷くなっていましたが、そういうハンデを抱えながらも、息子には立派な業績を残して、世の為人の為に尽くせる人間になってほしいと心から願っておりましたが、大学の後期試験が終わった二週間後の二月十四日に、自ら命を絶ってしまいました。死ぬ四時間前には、大学の数学の問題を解いていたと言うのに...。
いろんな紆余曲折があって、いつかはこうなる最悪の日が来るかもしれないと感じていましたが、余りにも劇的な人生の終わらせ方でした。「自分は絶対に二十歳までは生きられないと思う!」と常々言い続けてきた息子でしたが、その言葉通り、この世に何の未練もないかの如く、スパッと逝ってしまったのです。死ぬ直前に息子が一体何を考えていたのかについて思い巡らす時、悔しさに胸を掻き毟られる思いがします。
お通夜には、高校時代同期の級友達約五十人近くが参列してくれ、しめやかに見送ってくれたことは、親として思ってもみなかった驚きであり、改めてここに心から感謝致します。息子もまさか五十人もの嘗ての級友達が集まってくれるとは、夢にも思わなかっただろうと思います。
息子ながら、一人の人間として数学に対して「特異な能力」を持ち併せ、一面では魅力ある人間でしたので、四年間に集めた資料やメモをベースに、息子をいろんな角度から分析してみたかったが故に、こんな本を書いたのは確かです。
大手前高校の大先輩で、芥川賞作家でもある三田誠広氏が、小学生の次男の中学受験をテーマに書いた「パパは塾長さん」の高校生版を書いてみたかったのです。書き手は、賞を取った優れた作家と一介の素人という違いはあっても、対象に対する情熱は同じものがあったのではないかと自負しています。表現力の稚拙さは、どうか大目に見て頂きたいのですが、下手な修辞を多用することなく、ストレートに対象に迫り、率直に書くよう心掛けた積もりです。
小〜中〜高〜大と、息子が確かに生きてきた軌跡、ものの考え方、嘘偽りのない行動、父と子の率直な会話、勉強面での実績などを広く集め、息子が持つ「特異な人間像」を浮き彫りにしてみることで、自分の「息子とは一体何者なのか?」を明らかにしてみたかったのです。
或る能力にはずば抜けた才能を持ちながら、別の一面では、到底理解できないレベルの幼児性を併せ持つ、一種ネジの外れた非常識な人間でした。自分でもそれは分かっていたようで、「人並みの人生は歩めないであろう!」と常々喋っていました。社会性が全く欠落していたのです。

 私の定年が近づく十年後位の将来、息子と小規模な塾の経営をするのが私の密かな夢で、理数科十一期生達を、月替わりで特別講師として招き、生徒達に各界で活躍している様子や、学生時代の勉学に対する姿勢や夢などについて講演してもらいたい等と考えていました。
「教える才能」はずば抜けたものを持っていても、日常生活上のことは一切何もできない、何もする気のない息子にとって、雑務全般を親が踏み台となって、肩代わりすることで、最も得意な事だけに一点集中できる環境を提供したかったのです。家内は嫌がっていましたが。息子が生きていく道は、それしかないのではないか? と私は真剣に考えていました。
息子も「今やるべき事さえ満足にできない自分に、十年後の構想の事を聞かされても、答えようがない!」と言いつつも、教えることが好きだった息子には、それしか生きていく道はないと自分でも思っていたらしく、「それじゃ、おとうに何か悪いな!」と満更でもない様子でした。
息子との比較上、学校時代の級友達の成績等も、仮名にしてはいますが、実績資料通りにそのまま掲載させて頂いており、分かる方にはすぐ分かってしまうかもしれませんが、何卒ご容赦頂きたい。これからの人生のない息子にとっては、過去の実績だけが存在証明であり、同期の級友達はこれからが本当の人生です。前をしっかり見つめて生きて頂きたいと願って止みません。
この本を今は亡き息子に捧げたい。あの世できっと「こんな下らぬもの書きやがって!」と怒っているかもしれませんが、書かずにはいられなかったのです。息子に訊きたいことは一杯ありましたが、訊けないままに逝ってしまったのが悔しくてなりません。どうしても訊いておきたいことを、十ヶ条ほど文章にして息子に渡していましたが、それどころじゃなかったのでしょう、全く無視されてしまいました。息子とはもっと人生について、将来のことについて、いろんな事をお互いに喋り合いたかった...それが一番の心残りなのです。

鬱飲屋 躁介(うつのみや そうすけ)

1960 年、福岡県北九州市生まれ。4 歳の時に兵
庫県伊丹市に引越して以来、19 歳まで伊丹で育っ
た。グラフィックデザイン、DTP オペレーティング、
コピーライティング、川柳、著作と創作の場を拡げ
ている46 歳。
長男が公立の小中学校から、難関と言われる大阪
府立大手前高校理数科に合格し、更に京都大学理
学部前期課程に現役合格した過程を、大手前高校
出身の芥川賞作家、三田誠広さんの「パパは塾長
さん」に対抗して、克明に記録してきた豊富な資料
を元に、この「能ない鳶は 能ある鷹をうめるか」に著
した。記念すべき第一作。
その後息子の大学生活から、強迫神経症を悪化
させ、死に至る道へと突き進む悲痛な過程を、第
二作「能ある鷹も爪を剥がし」に著すべく構想を錬っ
ているが、息子の死の悲しみから、現在頓挫した状
態になっている。
川柳愛好家を自称し、毎日新聞の「仲畑貴志の万
能川柳」欄に、「セルジオ苺」のペンネームで、45
回程掲載されたことがあり、その秀逸句中に、
「ほとぼりを みそぎと誤解 してる議員」がある。
また嘗て夕刊フジとサンケイリビング誌で合同企画
された、サラリーマンとOL の「川柳バトル」企画で、
月間最優秀句に選ばれた時のペンネームを現在愛
用。因みにその時の掲載句は、
「それ謝罪? しぃましぇ〜んって 聞こえるが」
最後まで辛抱強く読んで頂き、本当に有り難うございました。

平成十九年四月 鬱飲屋 躁介

 

tonbitaka1

 

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